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エンドロールに載って死ね(嘘です無名で100年生きて)

「天職じゃないそれに身を置くエンターテイナー」を好きになるとしんどいけれど、でもほら、
闇のおたくってさ、「運命じゃない2人」みたいなやつ好きになりがちじゃない……?
っていう、話。
昔のはてブロのリライトです。

推しがいたんですよ。

いたっていうか、まあ、うん、現在もめちゃくちゃ好きだし
「好きな俳優は?」と書かれたとして(その人は役者をしていました)、どう答えるかはもう間違いなくそのひとで確定なのだけれども
今は舞台を降りたひとなので過去形で書きました。

そのひとの退団報告があったのは冬でした。

板の上から去ります、というおしらせを受けたとき
正直あまり意外には思っていなくて
それは少し前に所属劇団の公演をお休みしていたから、というような具体的な出来事からの想像というより
じんわりと感じていた「遠くないいつかにお別れが来るひとだ」という印象に対する答え合わせみたいな気持ちになりました。

なんとなく、というか、もっとハッキリした「このひと『(昨今のいわゆる若手俳優に顕著な、人気商売的セールスの)俳優業』に向いているひとじゃない気がする」を抱えながら応援していたから、
むしろフェードアウトではなくご挨拶してくれるなんてやっぱり真摯なひとだな、という感想が最初に来た。

さみしいし悲しいし残念ではあったのだけれど
それらは今までの、そしてこれからの好意を変えるものではないのだし。

何より納得があった。

どんな歌うたいより、どんなイラストレーターより、どんな小説家より、どんなギタリストより、どんな漫画家より、どんなアイドルより、その俳優のことが好きだったから
わたしが好きになった相手の「あるある」に、そりゃまあ当然当てはまるだろうなぁ、という。

フェイバリットザラキ

贔屓のキャラクタが死にがちなおたくが
「フェイバリットザラキ」の使い手を自称しているのを見て笑ったことがあります。
ザラキっていうのはドラゴンクエストで敵グループを即死させる呪文です。フェイバリットな対象に対してザラキを唱えたような結果になるから、「フェイバリットザラキ」。

まぁ物語において死にそうなキャラクタってある程度パターンがあるのだから
そのパターンのキャラクタが好きなタイプならそういうことにもなるでしょうよ。分かる。
裏のありそうな飄々とした狂言回しキャラとかさ。頼りになる先輩枠の戦闘要員とかさ。そういうやつ。

自分の「推し」ね、上記の俳優に限らず!
わりと病みがちなんですよ。
いや分かりやすく 病む と書いたものの、ちょっと語弊がありますね。
どう言ったものかな……ま、とりあえず病むでいいか。
そもそも「推し」も「」付きにしたい程度には違和感を覚えつつ使っているわけだし。

【重要】病みそうだから好きなのではない

不安定さに庇護欲を掻き立てられてるとかじゃないんです。

翳りにときめきをおぼえるとかでもないんです。

真面目さ、真摯さは美徳だと思うけれど。それだけが尊ばれるべきとも考えないんです。

ただ「運命じゃないけどそこを選んだ」ような在り方に惹かれているフシはあるなという自覚はある。

だって、それ、めちゃくちゃ人間じゃん。

それしかできなくてそうなっただとか、それが得意でそうなっただとか、
向き不向きと結果が重なるならば、自然だと思うわけです。
液体が上から下に流れるだとか、磁石のS極N極が引き合うだとか、
そういう摂理に近いと感じます。
そんなの、存在しているだけだ。

しかし、彼ら彼女らは、そこで抗っている。
1つの個体として自律思考して、その選択として目の前にあらわれている「推し」、
敬愛の他に何を抱いたらいいんだよあるなら教えてくれよって感じだ。
判断と選択が、生々しく、まざまざと、熱を持って、芬々たる人熱れを伴って!そうして今ここに在る状態に圧倒されるとき
正直ちょっと怖い。怖くて、畏れ多い。

わたしには難しい生き方です。
嘘、難しいなんて見栄を張りました。
わたしには、きっとできない生き方です。
でも、人類って、お前に限らなければ、こういうこともできるんだよ!という希望の提示でもある。
(お前がだめなのはお前の努力不足やで、という赤点の通知でもある。つらい。)

世の中には親近感や仲間意識からくる愛があることも知っているけれど、この「推し」は違う。
どちらかというと得体の知れないものを神や妖怪だとするような、
そういう畏怖と敬愛と憧憬の愛です。

でも、まぁ、往々にして無理があるんだよな。
無理してるんだから。
それは、そう。

エンドロールに載って死ね/無名で100年生きてくれ

「努力はしてないですよ、ただ好きだから毎日15時間トレーニングしてるだけです(そしてこの生活に耐えうる肉体や環境を持っています)」っていうスポーツ選手がいるとして
そのひとは天賦の才がある「向いている」逸材なのでしょう。それも素晴らしいことだとは思います。
でも、なんて言ったらいいのかな、そこに個人としての称賛こそあれ、人間讃歌をうたいたくなるような気持ちは抱かないんです。

消去法でもいい。「他に何もできなかったから、こうして作品を書いているのです」というのも同じ。いわゆる天才肌タイプってやつですか。
たとえば松尾芭蕉なんかもこーゆーコメント残ってますよね。
わたし、それで大学を選んだ程度には俳諧文化が好きなのですけれど、「推し」俳人はこの俳聖様ではないんですよ。山口素堂っていう、あんまり有名ではない(有名になり方がちょっと歪になりがちな)(「目には青葉〜」のやつだけ一人歩きしてるんよな……)詩人です。

表舞台から「推し」が去るとき、音信がなくなるとき
健康で幸福ならそれがいいよ
という気持ちも、もちろん嘘ではないが
〇〇で好きになったんだからさ、そりゃ貴方の〇〇が見てえよ
という欲望もある。

「正直貴方が身を滅ぼしても構わないからその芸術を最期まで見せてくれ」
「貴方が舞台の上に存在すること以外に重要なことなんてない。骨が折れても筋が痺れても血を吐いても気が触れても芝居を続けてほしい」
「幸福な名無しで貴方が終わるなんて嫌だ。エンドロールに載って死ね」
なんて呪詛が自分の中にあることを無視できません。

それは、ある種の救いと赦しになるから。
お前が何も成さないのは生きる道を選んだからだ。
お前が愛したあの英雄たちは結句死んだだろ。
……という納得があると、自分が「推し」たちのように振る舞えないことへの言い訳ができてしまうもの。

穏やかで健やかで満ち足りた幸福な人生を願ってやまないことも本当です。本当なんです。好きなひとにはハッピーでいてほしいもの。
でもこれだって、つまるところ自分が喜びたいだけです。安堵したいだけです。
痛みを伴うであろう努力を散々っぱら称賛しておいて、後味悪いのは回避したいなんて我儘を通そうとしています。

どこまでも利己的な生き物だ。
好意のバケモノだ。
醜悪だ。

でも愛しちゃう。

呪いたくないよ。

何度見ても「推し」たちは綺麗です。
大好きです。

見返りはないよ。ただあなたが優しいだけ。