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死んだともだちのこと、死んでても好きだし。

ともだちが死んだ。
物心ついたころには一緒に遊んでいた気がするから、四半世紀くらいの付き合いになる。
が、幼馴染ってやつかというと、少し違うんじゃない?とも思う。
わたしが幼いころ、彼女は既に幼くなかったからだ。

私の親でもあるふたりはアルコールが好きで、アルコールを扱う飲食店が好きで、アルコールを扱う飲食店に集うような人々が好きだ。と、少なくともわたしは感じていた。
彼らには少なくない飲み友達がいて、先日バイバイしたともだちもそのコミュニティの中にいた。
「子供の面倒を見る(あるいは面倒を見るものだと認識しつつそれを放棄する)大人」としてわたしに接した人間もいくらかは存在したものの、
ほとんどの両親の友人は、わたしのことも「小さいともだち」として捉えていたように思う。
たとえばお互いにマブダチと言って憚らないひとりなど、同じ干支のはずだから……えーっと、たぶん36歳差? おそらく48ってことは無いはずだけれど、少なくとも24ではない。

わたしには30も40も年上のともだちがいて、つまり彼らには30も40も年下のともだちがいたわけだ。
そんな環境で育ったわたしにとって、ともだちの子とともだちになることは自然で、だからわたしには10も20も年下のともだちだっている。
(今のところ30歳差で年下のともだちはいない。未だ出生していない命とは仲良くなりようがないからね)

ちょっと話が逸れてしまった。
要するに、死んだともだちはわたしより年嵩だったってこと。
両親からしたら年下のともだちであったはずとはいえ、世代として近いのはわたしより両親の方だろう。
出会った頃の彼女がたぶん、今のわたしの年齢くらいなんじゃないかな。

棺の中を覗いて、ああそっか、けっこう年上だったねあなた、と思い出しておかしい気持ちになった。
リアクションがあるうちにこんなこと言ったら「誰がババァだってえ?」って笑ったかな。
「アンタそりゃそうよ」って笑ったかな。
まぁ既に死んでんだけど。当然リアクションないんだけど。
つまんないなあ。

つまんないなあと思う。
思うが、これって悲しみにカウントされるべき情動なの?という違和感もある。
さみしい、は、ある。多少は。
ほとんど「つまんないなあ!」がしっくりくる。これが、それでいいのかなぁ。

過去の楽しい気持ちが今になって毀損されることは無いでしょ。
Sやん、生きてたし、当時。人間は遡って死ねないから。
2006年6月2日に、わたしが彼女とにこにこ喋っている動画が残っている。
2006年のわたしが笑うのを2023年にキャンセルできるわけがない。
あの夜わたしが感じた幸福は誰にも、何にも上書きし得ないものだ。

そんで、これから彼女とお喋りできないこと。
得ていないものを失うってめちゃくちゃ難しいこと言ってない?と思う。
これからの仮定について「もう今後○○できない」って悲しむの、けっこう頭使うことだよ。
多少の残念さこそあれ、深く深く傷つくにはあまりに淡くないかしら。

わたし、Sやんが生きてても死んでても好きだし。
そんな変わらなくね?って思っちゃうな。

なんか欠落してんのかな。足りてないとして、それって倫理観?想像力?知性?もっと別の何か?
まぁでもいいじゃん。幸せだよわたし。
幸せなのはいいことじゃない?
彼女の誕生花、花言葉『愉快な気持ち』なんだって。それじゃん。

いや知ってるよ。
こういう内容を不用意に語ると面倒くさいことになりかねないって。
でもSやんが仲良くなったの、この足りてないわたしだし。
……だめ?
この言い回しだと、死んだともだちを免罪符にしてるって非難されるかしら。
だとしたらちょっとウケるな。
ウケんねって話せないのは、うーん、やっぱ少しつまんないけど。

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