見出し画像

【短編小説】クリスマスケーキ

【前書き】
とある文学賞に出して、箸にも棒にも掛からなかった短編です。
季節外れですけど、金曜の夜のお供にでも。

東京にも大阪にも行きやすい。それが名古屋のいいところで、同時に欠点だと思う。東京ディズニーランドとユニバーサルスタジオ。駅の改札前に並んだ、二つポスターをみながら、そんなことを考える。
「ひさしぶり、なに見てるの?」
気が付けば、湊が隣にいた。
「あ、ひさしぶり。いや、これ」
掲げられたポスターを指さしながら、湊を見上げる。画面越しでは毎晩のようにあっているが、実物の隣に立つのは一月ぶりだった。緊張しているのがバレないように、高くなりそうな声のトーンを落ち着かせる。
「遊園地、行きたいの?」
一歩、湊が私との距離を詰めた。コート越しに、湊の腕がわたしの肩にふれる。その距離がわたしたちの関係を教えてくれる。
「いや、そういうわけじゃないけれど。混むだろうし」
思わず、否定した。ポスターにはどちらも大きくクリスマスツリーが描かれている。恐らく一年で一番込み合う時期に違いない。わたしも湊も、人混みは苦手だった。だが、心の片隅では、こういうところでロマンチックに過ごすクリスマスを体験してみたいという思いもあった。
「僕、こういうのいまいちわかんないな」
湊がポスターを眺めながら言った。それは、予想していた言葉。
「クリスマスを特別視するのも、いまいちわからないし。ここに行くお金あるなら、何冊本が買えるかなって思っちゃうんだよ」
予想していたが、改めて湊の口からそう言葉にされると、喉の奥がわずかに締まる。
「皐月は、そう思わない?」
踏み絵をする信者って、こういう気分なのかな。小さく、息をのむ。
「言われてみれば、確かに」
湊の言うことは、いつだって正しい。わたしは自分の間違いを恥じて、次に言うべき言葉を探した。
「でも、多くの大学生がこういうところ行きたがるんだよ。湊、友達とかに変わってるって言われない?」
「よく言われる」
湊がわたしの方を見下ろして、にっと笑った。そのどこか誇らしさすら含んだ笑みを、私は好きになった。そのはずなのに、今はなぜか、少しだけ息が詰まる気がした。

「僕は変なんだとおもう、それは喜ばしいことにね」
湊はまだ付き合い始めたころ、その聡明な二重を眼鏡の奥でぱちくりとさせてそう言った。私は、心底驚いた。自分のことを「変だ」という人間がいるなんて!それを「喜ばしい」と堂々といえるなんて!
人は皆、自分の特異性を認めたがる。その癖に普通から外れるのは嫌で、周りと違うことを誇ろうものならば、それは自意識過剰や自信家や、あるいは勘違いなんて言葉で丸め込まれて捨てられてしまう。
誰だって自分のことを大なり小なり特別だと思っているはずなのに、なぜ普通のふりをしたがるのだろう。疑問に思いながらも、私も普通のふりをした。「変わってるね」と人から評価される言葉を待ちながら、「そんなことないよ」というセリフを吐いて小躍りする内心を巧妙に隠しながら。
湊は違う。彼は自分のことを絶対的に信頼していた。だから、他人から「変わっている」と言われれば素直に喜び、自分の特異性を誇ることができる。
湊にはきっとわからない。特別でありたいが、仲間外れではいたくない、平凡な私の平凡な心情なんて。
彼は間違わないと、私は確信した。彼といれば、私は正しい方向に導かれるのだと。
それは信仰みたいな恋だった。

【不正解でできている】更新:十一月二十日
自分の選択が、不正解ばかりではないかと、そう思う。
たとえば、文系を選んだこと。たとえば、古典を選んだこと。
どちらも好きなことで、望んだことだった。
だけどどちらも、就職ではあまり有利でなく、どちらかというと「お金にならない」。
社会的成功に結び付かないものを「不正解」だと感じる自分がいる。
どこからその気持ちが這い出てくるのか、私にはわからない。
ただ、不正解ばかり選んでいると、そう思えて眠れない夜がある。



スマホの通知が鳴る。
『ワカナさんがあなたの記事にいいねしました』
通知画面を確認し、思わず嬉しくなる。〈ワカナ〉と名乗るユーザーはいつも私の書いた文章を読み、時々、コメントまで残してくれる。そのおかげで、ぽつりぽつりとだが文章を書き続けられていた。
手持無沙汰にツイッターを開くと、クリスマスケーキの広告が目に飛び込んでくる。世間はどこもかしこも赤と緑で光り輝いていて、ちいさなサンタの乗ったクリスマスケーキはどこからどうみても特別の塊だ。
湊の言う通り、クリスマスなんてただの平日なのに、世間がこんなに浮かれている。きっと今年のクリスマスも、私たちは何もしない。それは、ただの平日だから。普通の人にとって特別な日は、特別な湊にとっては普通の日なのだ。
そのはずなのに、イチゴの乗ったクリスマスケーキの写真から、私は目が離せない。
「どうしたの?」
湊がトレイにコーヒーを載せて、目の前にすわった。ううん、なんでもないのとパッとスマホを伏せる。ほのかな罪悪感が、首をもたげる。
「コーヒー、ありがとね」
礼を言いながら、カップに口をつける。
「ふぅ」
一口コーヒーをすすった湊が、思わずため息がこぼした。
「溜息って、和歌だと霧に喩えられるんだよ」
私は昨日授業で教わったばかりの知識を、自慢げに湊に披露する。
「へぇ、そうなんだ」
「うん、それで、霧はやがて雲になって、雨になる。そういう表現がよくされていたらしい」
「詳しいね」
こういう瞬間、私はどうしようもなく快楽を感じている自分を発見する。湊はなんでも知っていた。難しい元素記号から、私が到底理解できない数式、何が書いてあるかわからないプログラミングコードまで、本当になんでも。ただ、文章や文学に関してだけ言えば、私の方が知っていた。
彼の専門が理系で、彼が賢いことは、魅力のひとつだった。その事実はいつも私の心を高揚させたが、同時にどうしようもない劣等感を植え付けた。
専門である古典の話をするときだけ、私は得意げになり、快感を享受する。それが、小学生が習ったばかりの三角形の公式を、親に教えるのと同じ行為なのだと、心のどこかで理解しながら。
「このあと、どうする?」
「ね、どうしようね」
向かい合わせの小さなカフェの椅子で、ひそひそと睦言を交わすように会話する。午前中は美術館を見て、まだ昼をすこし回ったところだった。今晩、湊は私の家に泊まる。いつものデートコース。
「僕ちょっと疲れたから、皐月の家に行っていいかな」
すこしはやいけれど、という湊の言葉に、いいよと答える。
本当は、洋服を見たり、そういうデートもしてみたいと思う。生クリームの乗ったパンケーキを頬張ったり、ごてごてとしたイルミネーションを眺めたり。だけど、それは間違った欲望だってわかっている。だからわたしは、湊の提案にいつも「いいよ」としか返せないのだ。

湊と出会ったのは、予備校だった。
湊はいつも自習室の隅で、眼鏡の奥の大きな二重をゆっくりと動かしながら、問題集を追っていた。私はその横顔を見るたびに自分も頑張らねばと己を奮い立たせた。
最初は私がその横顔を眺めていただけだった。だけれども次第に、会話をするようになった。私は文系で、湊は理系。互いの得意分野が相手の苦手分野だった。夜遅くまで自習室の端で勉強を教えあった。
私たちは、必死に勉強した。湊は勉強をすることを心底楽しんでいた。私はそんな彼の横顔を見たくて、自分も一緒になって勉強した。湊は私も勉強が好きだと思ったみたいだけれども、実際に私を勉学へと結びつけていたのは湊自身だった。
湊は賢かった。私の苦手な数学も物理も得意だった。国語だって、別に苦手というわけでもなさそうだった。それでも私と勉強会を続けてくれたのは、きっと私のためなのだと今になって思う。孤独に押しつぶされそうな受験期に、私と湊、ふたりでいるときだけはそこは安全な場所のような気がした。
「僕と皐月は、価値観があうと思うんだ」
第一志望の大阪の大学に合格が決まった湊が、そういった。だから、付き合おうと。そこから遠距離恋愛が始まった。
湊は賢くて、私はそれに付いていくのに精いっぱいだったけれど、それでも彼と一緒にいられることを幸せに思った。なにより、価値観が合うと、そう湊から言われたことは私を舞い上がらせた。自分が認められたのだと、そう思えた。誰かに認められることほど、私を安心させることはなかった。
私は彼の価値観をひとつずつインストールするように覚えた。服装にさほど費用をかけないこと、本にお金をかけること、外出を好まないこと。
湊は離れていても、月に一度はこうして私の下宿へ会いに来てくれる。彼の隣で眠るとき、私はようやくやすらぎを得られるのだと、そう思うことさえあるのだ。
わたしは賢くないけれど、賢い彼に見初められている。
そのことが、わたしを形作るすべてだとすら思う。

「この前のTOEIC、九百点超えてたんだよね」
栄から下宿の最寄駅までの電車の中で、湊はなんてことないみたいにそういった。
「え、九百って、すごい!」
こぼれた声は想像したより大きくて、おもわず手で口を覆う。
「英語得意なの、本当にうらやましいよ」
今度は声を潜めて、湊にだけ聞こえるように言う。
「ただ好きなだけだけどね。なんか、ゲームみたいで、点数上がってくのが楽しいだけ」
だから、得意ってわけじゃないんだよね。湊も声をひそめてそういう。
「皐月だって、古典得意でしょ、僕には全然わからないよ」
「古典が得意でも、就職は有利にならないけど、英語が得意だと就職有利でしょ。すごいよ」
「だったら、皐月もTOEIC受けてみれば?」
なんてことないみたいに、湊が言う。湊の理屈は簡単だった。できないなら、努力すればいい。努力すれば、できる。それは当然のことで、だけどその当然を当然のように語れること自体が恵まれたことなんじゃないかと、私は思わずにいられないのだ。
「うーん、受けたほうがいいのはわかるんだけどね」
「楽しいよ、英語」
湊はまるで面白いおもちゃについて話すかのように、私の方を見る。彼は正しい。面白いと思えば、努力すれば、良い点数がとれる。だけれどそこに、わたしと彼との根本的な脳みその違いは換算されていない。
わたしは曖昧に笑って、考えとくよとつぶやく。
「おすすめのテキスト、今度持ってくるよ」
この前向きさは、どこから来るのだろう。電車の窓を通り過ぎていく名古屋の街並みを見ながら、考える。
きっと湊は愛されて育ったのだ。可能性の芽を守られてきた。努力すればなんにだってなれると、まっすぐに信じられるのはそのおかげだろう。そして、そのことを当然だと思っている。それが如何に残酷かなんて、きっと知らない。
西でも東でもないこの町は、どこまでも中途半端な空の色をしている。

駅から出ると、湊は迷わずに道を歩く。わたしの家の場所を彼はもうすっかりおぼえていて、慣れたものだった。その歩幅についていくのに、わたしはいつも早歩きになる。
彼は振り向かない。まだ楽しそうに、勉強の話をしていた。
そういうところが、好きだった。そういうところを、好きになったはずだった。
玄関に入るなり、抱きすくめられる。こうして部屋に彼を招き入れるのも、もう何度目かわからない。それでも毎度、彼はこうしてわたしを抱き寄せる。それを愛の証なのだと、私は考える。
それから、キスをする。
背の低い私はいつも背伸びをする。湊だって背中を丸めてくれるけれど、湊の思う背丈よりも私の背丈は低いのだ。
彼はいつだって正しい。賢くて、聡明で、自分に自信がある。
彼の腕が私の腰に伸びる、胸に伸びる。
すこし荒くなった息が耳に当たる。
私はただ彼の腕に身を任せればいいのだ。これから先もずっと。それが安全で安心ということだと、信じて。



文章を書き始めたのは、大学に入学したころだった。
なんとなく書いたそれを、文章が投稿できるサイトにアップロードしはじめたのが、その年の夏。少しずつ読者が増え始めたのはまだ最近のこと。
特に大きな目標もなく始めたことだったが、少しずつ反応が返ってくるのは手ごたえがあってうれしかった。日々の些細な出来事や、違和を、大事にとって置いて観察する。それは秘密の遊戯のようで、私をどこか未知な場所へと連れて行ってくれる気がした。
文字の上だけは私の独壇場だった。
そこは観客のいない野外劇場のように静謐として、月だけがスポットライトの代わりに照らしてくれている。
月明かりの元で、私は裸になるように文章を書いた。
そこでは正しさもなにもなかった。ただ人間が獣の延長であることだけが事実で、キーボードを叩くことで内にため込んだ何かを吐き出していた。
気持ちがよかった。あるいは体の大事な部分を晒すセックスよりも、それは官能的だった。だれも私を否定しない、私だけの秘密の花園。
湊に文章を書いてることが知られた時、私は浮気がしたかのような罪悪感に襲われたのは、きっとそういうことなのだと思う。

「なにしてるの?」
シャワーを浴びていると思っていた湊が、気が付けば横で髪の毛を拭いていた。
反射的にノートパソコンを閉じたが、その行動が逆に怪しかったようで、湊の聡明そうな二重がまっすぐ私の方を見つめていた。
「みられたくないやつ?」
「そういうわけじゃないけれど」
視線を泳がして、なんとか逃れるすべがないかを探す。探してみたが、見つからなかった。諦めて、小さく溜息をつき、パソコンを開く。
「文章、書いてて」
「文章?」
意外そうに、湊が言った。エッセイみたいなの、と小さく付け足す。
「皐月、そういうの書くんだ」
うん、まあ、と曖昧に返事をする。隠していたわけではないが、話すことでもない気がしていた。
「これ、読んでいい?」
「あー、うん、まあいいけど」
おずおずと、湊にパソコンの前を譲る。
「どれ読んでいいの?」
「どれでもいいけど、じゃあ、これ」
そう言って、一番新しく書いたものを画面に表示させる。
「一月五日って、ハンドルネーム? 五月生まれなのに」
「いいの、適当につけただけ」
お夕飯の準備をしなくちゃ、大きな独り言を残してワンルームを出る。廊下のキッチンでじゃがいもを取り出しながら、全神経はベッドに背を預けながら文章を追っている湊の方へ向いていた。
自分を知っている人に文章を読まれるのは初めてのことだった。
下着も、裸も、冷蔵庫の中身も。全部知られているはずなのに、文章を見せるのは気恥ずかしくてたまらなかった。まるで内臓の内側まで覗かれているような、奇妙な感覚を覚える。居心地が悪いような、同時にそこにはかすかな高揚感が含まれていることに、私は気づいた。
湊が私の文章を読んで何を言うのか気になってしょうがなかった。
「今日、カレー?」
気を紛らわそうとじゃがいもを剥いて、にんじんを切っていると、湊がリビングからちらりと顔を出した。
「ううん、シチュー」
「いいね」
部屋とキッチンを隔てる引き戸を開けて、湊が横に立つ。
「あー、どうだった?」
できるだけなんてことないように尋ねたはずなのに、かすかに声が震えたようなきがした。こんなに緊張したのは、初めてセックスをした時以来かもしれないと、にんじんを切りながら思う。
「ああ、うん。僕、ああいうのあんま読まないからよくわかんないんだけど」
そう前置きして、湊は「いいんじゃない?」とだけつぶやき、それきり何も言わなかった。



私の書くものを何かに例えるなら、それは安いメープルシロップになると思う。本物の楓なんて使ってない、香料や着色料にまみれた、二百円くらいで買えてしまうやつ。
文章を通してわたしとワカナが仲良くなったのは、互いにそうした偽物じみたメープルシロップの、砂糖が固まってしまった結晶みたいな、安っぽさを纏っていたからだと思う。
何度か彼女のホームページやツイッターにも訪れたことがある。私と同じ大学生くらいの、日々の恋や将来への悩みが綴られていた。文章からしてたぶん女性。「若菜」でも「わかな」でみなく「ワカナ」と名乗るところに親しみを感じていた。まるでワカメみたいな字面で、響きと異なり可憐さがなく滑稽。
その滑稽さが、せめて自分に酔っていないことを主張する強がりみたいで、好ましく思うと同時に、羞恥をさそう。
ワカナは時々私のページにコメントを残してくれていた。何度かやりとりをするごとに、文章が好きなこと、文章を書く仕事をしたいと思っていることを知った。
ワカナは文章に真剣だった。私がただ開いた空白を埋めるようにして言葉を吐き出しているのとは違う。
でも、私たちの文章が、稚拙で子供じみて、ちいさく丸まって泣く幼子のようであるという点では、強く共通していた。社会への不平と不安と孤独と寂寞を煮詰めた、どこにでもある安いメープルシロップ。
味なんてどうでもいい。所詮誰の元にも届かない文章なんだって、知っている。
だけれども心の中では、いつか何かの形にならないかと、淡い期待を抱いているのだ。
馬鹿な話。

『私が文章を書くことについて、どう思う?』
さきほど駅で見送ったばかりの湊に、そうメッセージを送った。
『いいと思うよ。趣味として、好きなことをするの、いいんじゃないかな』
ピコンと通知がなり、湊から返信が来る。
『それに、書くことでなにかしたいって思ってるわけでもないでしょ?』
ひゅっと心臓の奥が冷たくなった。指が無意識のまま、画面をタップする。
『うん、どうせただのひまつぶしだから』
そう打ち込んで、スマホをベッドの上へ放り投げた。
小さな六畳間は、湊がいないと広く思える
そうだ、なにかになると思ってたわけじゃない。
急に、すべてがバカバカしく思えてしかたがなかった。自分の書いた文章も、それを公開する行為も。
なにか実利があるわけじゃないのに、文章なんてインターネットに公開して、自慰にふける、そんなの時間の無駄に違いない。
「文学ってさ、社会にどんな利益をもたらすの?」
いつだったか、湊がそういったことを思い出していた。
そこにあったは、純粋な疑問だった。私を馬鹿にしようとか、文系を格下に見ようとか、そういう邪悪な感情はない。子供がなぜリンゴが赤いのか問うのと、同じ。

〈大学の図書館は静かだけれども、時にすこし騒がしさすら感じる。それは、中島敦の『文字禍』のことを思い出すからかもしれない。本の隙間から、ひそひそ、こそこそ、音にならない言葉が聞こえてくるような気がしてならない。彼らは見つけてもらいたがっている、わたしはそう思うのだ。〉
そこまで入力して、思い直して右上のバツをクリックする。
保存しますか? いいえ。
言葉は虚空へと消えて行った。
冬休み前の大学図書館は確かに静かで、ちらほらと見かける学生も、勉強の半ばで睡魔に負けて机に臥せている。聞こえるのは、暖房の空調とわずかな布ずれの音だけ。それなのに、ひどく気が散ってしかたがなかった。
目の前の課題を終わらせようと、授業資料と本とを見比べているはずなのに、今一つ頭に入ってこない。そのかわり、耳の奥でこだまするように、声が聞こえる。
最初、それは本の話声かと思った。膨大な蔵書の、その一ページずつにしみ込んだ記憶が、暖房に溶かされて涌き出てきたのかと想像してみると、それは中々に面白かった。
だけれども、ちがう。この声はもっと内から響くような、空虚さを含んでいた。
集中できないのを言い訳に、三つ向こうの席の学生と同じように、机に臥せて休憩と称した仮眠をとる体制に入る。疲れていたのか、ほどなくして意識が宙へと浮き始めるのを感じた。つれて、先ほどまでこだまするように遠くにいた声が近づくのがわかった。
『書くことでなにかしたいって思ってるわけじゃないでしょ?』
湊の声だと思った。
『どうせただのひまつぶしだし』
次は私の声だった。
どうせただのひまつぶし、どうせただのひまつぶし。
保存しますか? いいえ。
いいえ。いいえ。いいえ。
所詮ひまつぶし。趣味なんてものじゃない。
こんなことをする時間があるなら、湊みたいにTOEICの勉強をすればいいんだ。
私は賢くないから、いつも間違った道を選んでしまう。
どうせただの暇つぶしなのに、ちいさな「いいね」に喜んだり。どうせただの電球なのに、心のどこかでその輝きを羨ましく見ていたり。どうせただの平日なのに、赤と白のケーキが心に引っかかる。
保存しますか? いいえ。
文章を書いて、なにになるっていうんだろう。無意味なことをしていた自分を、心の奥底から恥じた。恥じているはずなのに、息苦しくてしかたがなかった。
知らないうちに、枕代わりにしていた袖が少し濡れていた。
それから、わたしは書くことをやめた。
ほとんど毎日更新していたサイトをぱたりと開かなくなった。
書かない日々は、平穏だった。価値のあることだけをすればいい。文学が何の役にたつっていうんだ。そんなことよりも大事なのは英語で、サークル活動で、バイトで、就職で有利にはたらくあれやこれやで。
自分が価値のあることをしていると感じられる日々は心地よかった。正しいのだと、信じられる。正しさは絶対だった。わたしにとって湊が絶対であるのと同じ。
書くことに何の価値があるんだろう。書くことに価値なんてない。
どうせ、ただのひまつぶしだったんだ。

古典文学史の授業は大学二年生の選択必修だ。受講生も多いため、北棟の大講義室で授業を行う。
大きな教室で、昼休みの後。となると、不勉強な大学生たちは寝るか机の下でスマホをいじるのがお約束。この教室でまじめに教授の話に耳を傾けている人間なんて、ほんの一握りに違いない。そして、私はどちらかというとその一握りのほうだった。
古典を専門に教えてくれる櫻木先生は、いつも穏やかな声で、だけどとても楽しそうに話す。友人たちはその穏やかさが眠気を誘うというが、私は先生の言葉の奥に凄みのようがものが潜んでいる気がしてならないのだ。
「『源氏物語』に興味があるという方もいらっしゃると思います。物語自体を読むことも大切ですが、紫式部について知るには、やはり日記、そして彼女の家集にあたることも忘れてはなりません」
では、いくつか歌を見てみましょう。そういって、スライドが変わる。
『わりなしや人こそ人といわざらめ みづから身をや思ひ捨つべき』
先生の声が、教室に染み入る。寝ている学生の服に落ち、床に積もり、わたしの鼓膜へとわずかなこだまを残して消えて行った。
「どうしようもないことだ、他人が私のことを人並みだと思ってくれない。だからといって、自ら自分を粗末にするようなことが、どうしてできようか」
先生が視線をあげる。その先を追うと、教室の壁掛け時計の針が目に入った。午後二時二十五分。あと五分で休み時間。
時計を確認した先生は、そのまま視線を教室へと移した。大講義室の学生たちの多くは俯くか舟を漕いでいる。だけれども、それでもかまわないというように、先生はちいさく一呼吸置いて話し出した。
「言葉には、力があります。わたしは学生時代にこの歌と出会い、今の道にいます。私のための、私の感情のための歌だと思いました。私は歌に救われたのです。言葉は、ひとを救うことがあるんですよ」
授業の終わりを告げる鐘が鳴る。教室には先ほどまでの静けさとは打って変わって騒がしさが溢れた。鞄を片付ける音、この後の予定を話し合う音で混みあう中、「今日の講義はここまで、続きはまた来週に」という先生の声をなんとか拾い上げた。
鞄を片付けて、帰り支度をし、学生の波に合流する。
色とりどりの服を着て、皆同じ最寄り駅を目指す。この中に、何人文章を書いている人がいるのか考えてみた。あるいは、このキャンパスに。この世界に。
世の中には文章が溢れていて、あちらこちらで囁くように言葉が書き残されている。SNS、メモ書き、ノートの端。いずれ消えていくはずなのに、飽きもせず。そうしてときに、それらは人と出会い、人生を変えるらしい。
駅のホームに電車が着く。押し合うように、電車の中へと流れ込む。だれかが今年のクリスマスの予定について、楽しそうに話しているのが耳に入る。
……みづから身をや思ひ捨つべき
電車の中にあふれる言葉に揺られながら、何度も口の中でその言葉を転がしていた。

『来週はバイト先の歓送迎会あるから、会えるのはその次の週かな』
湊からのメッセージを見て、カレンダーを確認する。ちょうど、クリスマス直前の土日だった。だけれども、私たちはクリスマスだから会うのではない。そこを勘違いしないことが、なにより大切だった。
『了解、待ってるね』
『それからさ、女の子へのプレゼントってなにがいいと思う?』
湊が私に相談することは珍しい。湊は基本的に迷うことがない。誕生日プレゼントだって、意外なものよりも実用的なものがいいって悩まずに即答するくらいなのに。
『誰にあげるの?』
『バイトやめる先輩』
『無難なのはハンカチとかじゃないかな。面白味はないけれど』
『探してみるよ、ありがとう』
やりとりが終わり、スマホを机の上に置く。買い物に出かけようと着替えていると、再び通知音がした。湊かと思い、画面を確認する。
〈ワカナさんからメッセージがあります。〉
その名前を見るのは、ひさしぶりのことだった。
わずかに心拍数が上がるのをかんじながら、内容を確認する。最後に記事を公開したのはひと月ほど前。それが「たった」なのか「もう」なのか、私にはいまひとつわからない。
『一月五日さん。こんにちは、いかがお過ごしでしょう。近頃は更新もなく、お忙しいこととお察しいたします。今回メッセージしたのは他でもない、ご提案があるからです。私は今文芸同人誌を作りたいなと思っておりまして、もしよろしければ、五日さんにも書いていただきたいのです。報酬はお出しできませんが、完成した暁には本をお送りさせていただきます。』
文芸同人誌。口の中でその言葉を反復する。サイズ、質感、厚さ。どんなものが出来上がるのか、全く想像がつかなかった。なにより、自分の言葉が紙に印刷されるなんて、思いもつかないことだった。
急な誘いだから返事はすぐでなくていいこと、クリスマスごろには返答が欲しいことが続けて書かれていた。
『五日さんの、悩みながらも必死にもがくような文章が、私はとても好きなのです。』
メッセージの最後には繰り返しのおねがいとともに、そうあった。

その日、駅で待ち合わせした湊にはいつもみたいな快活さがなかった。
クリスマス前でにぎわう駅のなかで、湊だけが一人見捨てられたような顔をしていた。
どこかで昼ご飯でも食べないかと誘ってみたが、疲れているからできればすぐにでもわたしの家に行きたいという。今までも、大学の課題で忙しかった日のあとなどはこういうことがあった。だから、わたしはあまり気にせずに湊と電車に乗り下宿へと向かった。
私鉄の駅から降りて、右に曲がる。線路を超えて、次は左へ。しばらく進み、信号を右に曲がり坂を登ったとこ。
わたしの下宿の場所を、湊は完全に覚えているはずだった。
記憶が正しければ、家に訪ねて三度目になるころには、彼はわたしよりも大きい歩幅でずんずん迷うことなく歩いていた。
それなのに、今日の湊は違う。まるで居場所がない転校生のように、わたしの隣をぴたりとついて歩いた。歩幅はわたしより広いはずなのに、わたしの息が切れることはなかった。
それは、まるで部屋への到着を恐れているようにも思えて、奇妙でしかたがなかった。
「調子、わるい?」
「そんなことはないよ」
自分への信頼と自信にあふれているはずの瞳が、わずかに沈んで見える。
アパートの古びたドアを開けて中にはいる。
湊がわたしを抱き寄せる、わたしは目を閉じて、湊がキスをするのを待つ。それがわたしのやるべきことだった。
だけれども、三秒しても、五秒しても、唇に生暖かくてすこしかさついた湊のキスが落ちることはなかった。不思議に思い、目を開ける。そこには、泣きそうな顔をした彼がいた。
「僕、皐月にあやまらなきゃいけないことがあるんだ」
湊がわたしを見下ろしながら言った。
「先週さ、バイト先の歓送迎会で、先輩にプレゼントを買うって話、したよね」
「うん」
「僕、その、先輩にはずいぶんとお世話になって。だから断れなくて三次会まで着いていったんだ。一次会は居酒屋で、二次会はカラオケで、それで三次会はバーだったんだけど。いや、そんなことはどうでもいいか。だから、それで。先輩、ドロドロに酔っぱらってて、それで、僕が先輩の送り役を任されちゃって」
湊の言葉は今まで聞いたことがないくらいたどたどしかった。
この人はこんなに回りくどく話す人だっただろうか。いつだって間違いのない言葉を間違いのないタイミングで話す。湊は正解しか言わない人のはずなのに。
「それで、僕、だから。先輩の家まで送っていったんだ」
そんなことよりも、私はまだ靴を履いたままで玄関にいることが気になっていた。そういえば、冷蔵庫の中の牛乳が切れているのを思いだす。買いに行かなくちゃ。
「先輩、酔っぱらってて、僕も、酔ってて。だから、その」
湊は泣いていた。なんで湊が泣くのか、わたしにはわからなかった。わたしが泣くべき役じゃないのかなと、心の隅で少しだけ間違っていると思った。
だけど、正しいってなんだろう。
ほかの女性と関係を持たないことが正しいこと。もし持ったとしたら、それを恋人に告げることは正しいことなのだろうか。
湊は間違えない、正しいはずだった。
彼は賢くて、TOEICで九百点が取れるくらいの頭脳を持っている。彼は愛されていて、彼自身彼を愛している。だから彼は正しいはずだった。
湊が情けなくわたしの前で涙を流している。鼻水を啜っている。
「うん」
「だけど、僕」
「うん、そっか」
なぜか気持ちは落ち着いていた。自分より動揺している人間がいると、人は不思議と落ち着くらしい。湊は、自分の感情の制御ができない幼子のように次第に泣き声を大きくし、しゃくりあげはじめていた。
「あのね、玄関じゃなんだから、中に上がろうか」
「……皐月は僕に、帰ってほしいんじゃない?」
「ううん、いや、わからない。でも、とりあえず上がって」
湊が、靴を脱ぐ。とぼとぼと、六畳間の方へ歩いていく。
コーヒーを淹れようと、お湯を沸かす。なんだかカフェオレが飲みたくなった。やっぱり、牛乳を買ってこなくちゃいけない。
「あのね、わたし牛乳買ってくるから、湊は少し休んでいて」
「……うん、ありがとう」
おいて行かれる湊は不安そうな顔をしていたが、それでも何も言わず、私の言う通りにした。
部屋を後にすると、十二月の冷たい風が髪に吹き付ける。コートの前を閉めて、坂を下りたところにあるコンビニへ向かう。
奇妙な気持ちだった。あの湊が泣いていた。それも、自分の行動を後悔して。
カフェオレが飲みたかったのか、一人になりたかったのか、わたしは自分のことがわからなかった。右足を前に出し、左足を前に出す。ただ、歩く。
間違うということについて、考えてみた。
湊は正しいことしかしないと思っていた。だけれども、先ほどの湊の泣き顔は、まるで窓ガラスを割った小学生のようだった。どうすればいいのかわからず、途方に暮れている。
踏切がおりて、電車が目の前を横切る。
その音を眺めながら、だけれどもわたしはなぜだか不思議と晴れやかな気持ちだった。
あるいは、それはどこか悦にも似た感情なのだと気づく。
あれほど絶対だと思っていた彼は、性欲に負けて女を抱く、ただの人間だった。神のように絶対だと思っていたはずの昨日までが、不思議と馬鹿げて思えた。
住宅街の中にぽつんと建つコンビニも、安っぽいクリスマスの装いをして、赤や緑に飾り付けられている。自動ドアを抜けて、牛乳を手に取る。会計に向かおうとすると、レジ前にならんだデザートコーナーが目に入った。
白いホイップクリームに、赤いイチゴ。小さなサンタの飾りが乗った、ショートケーキ。
今日はクリスマス前の土日。世の中の普通の恋人は、ロマンチックな夜を過ごそうと苦心する。そういう日だった。
一つ二百七十円のそれを、二つ。買い物かごの中に入れた。
彼はただの人間で、わたしもただの人間だった。
レジで財布を開きながら、わたしは湊に話したいことが沢山あることに気が付いた。
本当はクリスマスがしたいこと。キラキラしたイルミネーションに憧れがあるってこと。キスをするときの少しの背伸びのこと。私と湊の、歩幅が違うこと。
文章を書くことが、自分にとって大切だったということ。文芸雑誌に誘われたこと、それがどれほど嬉しいことだったか。
彼はなんていうだろう。彼と価値観の異なるわたしを、どう思うだろう。
コンビニを出て、湊がいるアパートに戻るために、坂を登る。
ね、湊。文学はこういうときに役に立つんじゃないかな。どう思う? そういう話を、私はあなたとしたいな。
浮気をされたはずなのに、なぜか前よりも湊のことを愛せる気がした。

(了


ここまで来てくれてありがとうございます。ついでに「すき」していただけると、逆立ちして喜びます。ボタン一つで手軽に告白。おまけつき。 minneでアクセサリーを販売してます。ナマケモノのお店、なまけ堂。のぞいてってね。https://minne.com/@namakedou