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【短編小説】私たちが失くした二万Hz。

「うわぁ、変な感じ」
駅で隣を歩くひかりが、そう言った。
「まだ若いって証拠じゃん」
背の高い彼女の、大きな歩幅に併せながら、てこてこ歩を進める。電車までは、まだ時間があるが、売店で朝ごはんを買いたかった。
「モスキート音ってさ、イグノーベル賞取ってるらしいよ」
変なことを知っている奴だ。ふーん、と、生返事をした。とにかく私は、ひかりの歩幅に置いて行かれないように、必死だ。
「あ、ってことはさあ、蚊のいやあな音って、歳取ったら聞こえなくなるのかも!」
それでもって、ときどき変なことをいうやつだ。
「多分、それは、ちがう、と思う」
もうすぐ米寿になろうとする祖父母も、あと数年で還暦を迎える父母も、今なお、蚊の音に苦しめられていたはずだ。そんなことを言おうにも、ついていくのに必死で、言葉が途切れ途切れになる。
「そうかなあ……」
どこか、情けない声を出すのが、まるで幼稚園児みたいだった。少しだけ不服そうに、私の方を見た彼女は、ちいさく「あぁ」とつぶやいた。
「なに?」
「ううん。人間ってどれくらいの音まで聞こえるんだっけ、知ってる?」
「え、知らない」
「調べてみよ~」
 器用に歩きながらカバンからスマホを取り出して、指を動かす。「歩きスマホ、あぶないって」そう言いながらも、早朝ということも相まってか、周囲に人は少ない。
「二万Hzなんだって、人が聞ける音の最大」
 ほら、とスマホを私の顔の前に差し出す。覗き込むと、確かにそう書いてあった。
「二万Hzって言われてもな……どんなもんかわかんないし」
「たしかに。モスキート音はそれくらいの高さなのかなあ。どう思う」
「いや、知らないけど」
この知識を使う日が来るんだろうかと、そんなことを考えているうちに売店に着く。
「朝ごはんなににしよっかな」
 売店を見るなり、子供みたいに駆けていくスラっとした背中を見ながら、そういえばいつの間にか息切れが落ち着いていることに気づいた。

  〇

 ひかりとは知り合ったのは大学一年生の春のことだった。
 まだオリエンテーションが終わったくらいの、冬の寒さの残る四月の頭。ひかりと私は同じ学科だったから、自然と顔を合わせていたけれど、会話をしたことはなかった。
「あのさ、花城大のひとだよね」
 彼女がそう私に話しかけてきた場所は、大学とは全然関係ない、ミュージカルの劇場でのことだった。自分より頭一つ以上高いひかりの顔を見ながら、必死で自分の記憶を探ったことを覚えている。
 その日、偶然親戚から貰ったチケットで観劇に来ていた私を、ひかりは見つけて、声をかけた。
 後から聞けば、着ていたカーディガンの羊の刺繍で覚えていたらしい。だからといって、ほとんど初対面の人に声をかけるだろうか。そこがひかりがひかりである所以なんだと、私は思う。
 次の日、学校で横に座らないかと声をかけられ、そのまま私とひかりは大学四年間を共に過ごすことになった。
 きっとひかりが話しかけていなければ、私はあの四年間を一人で過ごしていただろう。ひとりで食事をし、ひとりで授業を受け、体調を崩しても見舞う人もいない。あるいは、卒業すらできなかったのかもしれない。ひかりと出会ったことは、それくらい、私にとって僥倖なことだった。
 なんて、絶対あいつには言わないけど。

  〇

「え、モスキート音って一万六千Hzなんだって。あれ、二万まで聞こえるんじゃなかったっけ?」
 東京行きの新幹線の窓際に座り、おにぎりを頬張っていたひかりがスマホを見ながらそういった。熱心にスマホを見ているなと思ったら、まだ先ほどの話題について考えているらしかった。
「若いと、ってことなんじゃない?」
 自分が買ったランチパックの最後の一口を飲み込み、野菜ジュースを啜る。スマホを取り出して調べものに加わると、すぐに液晶に答えが映し出される。便利な世界だ。
「ほら、二万Hzが聞こえるのは十七歳までって、書いてある」
 スマホを差し出すと、おにぎりを飲み込んだひかりが「あ、ほんとだ」と覗きながら言った。
「じゃあ、人間に二万Hz以上の音は聞こえないってこと?」
「そうなるね。いや、私たちはもう二万Hzも聞こえてないらしいけれど」
 ふ~んと、興味を失くしたようにひかりは窓の外の飛び去る景色に目を向ける。ひかりには、こういうところがある。興味が一過性だし、思い付きで行動する。まるで小学生だ。
 話は終わったかと思い、広げた朝ごはんのゴミを袋に詰めていると、
 「なんかさ、もう聞こえない音って、さみしいね」
ひかりが小さく、そうつぶやいた。

  〇

 ひかりに劇場で声を掛けられる前。まだ友達になると思ってないとき。私はひかりのことを宇宙人のように思っていた。それは、基本的には今も変わらない。
 大学最初の授業で、教授が学生に自己紹介を求めた。名前と、好きなもの。文学部だったこともあり、多くの学生が「読書です」と当たり障りのない趣味を告げて、席に着いていく。面白みのない自己紹介を何十人分も聞くのは、苦痛以外の何物でもなかった
 でも、ひかりは違った。あの高くてスラっとした背中をしゃんと伸ばして、教室を見渡して自己紹介した。
「好きなことは、色々あるんですけど、今一番嵌っているのはスマホゲームです!」
 ほかの学生が小声で、読書だの映画鑑賞だのと当たり障りのない趣味を選ぶ中、彼女は堂々と最近嵌っているスマホゲームの面白い所を語りだした。単純な着せ替えゲームで、コーデでバトルをするとか、世界観が謎だとか、服装で人を倒せるのだとか。あまりに楽しそうに話し、終いには自分で言った事に笑いだす始末だった。
 あほなのか。
 そう思うと同時に、自分やほかの学生にはない何かを、私はひかりに感じていた。
 宇宙人で、決して理解できない。私だったらスマホゲームを自己紹介で話したりしない。あまりに俗的だからだ。けど、ひかりはそれをする。それができる。
 それは、ほのかな憧れにも似た感情。
 ひかりは、私とは違う人間だった。

  〇

「熱海着いたらさ、どうする?」
 窓の外を眺めていたひかりに、そう声をかけた。
「ほら、MOA美術館行くって以外、なにも決めてないじゃん」
 いつもの私だったら、下調べをしてタイムスケジュールを組むところだけど、今日は違う。ひかりの思い付きの旅行だからだ。美術館で目当ての展覧会を見ること以外は、全くのノープラン。私一人だけだったら、きっとこんな旅行の仕方はしていない。
「ぜーんぜん、なんも考えてない。調べよっか」
 そういって、再びスマホを取り出す。行きながら調べてもなんとかなるのだから、便利な世の中だ。
 私も、ひかりに倣って検索窓にキーワードを打ち込む。
『熱海 旅行 おすすめスポット』
 いくつか古い神社があるらしい。歴史的なものは好きだ。熱海城は海が見渡せるが、城自体は再建されたもの、か。国指定史跡の起雲閣。ああ、文豪ゆかりか、いいな。広大な植物園のハーブガーデン、女子旅向きだ。
 検索結果をスクロールしていくと、一枚の写真が目についた。巨大なサメの絵に食べられそうになっている人の写真。更にスクロールすると、こんどは大きな猿に掴まれるように見える写真。どうやら、目の錯覚を使って色々な写真を取ることができる施設らしい。
  わざわざ熱海まで来てやることではないな。
 そう思い、親指で写真を上へと動かす。
「あ、ここ、どう!」
 やけに興奮した声で、ひかりが私の目の前にスマホを突き出した。そこには、今しがた私が画面外へ追いだした写真が写っていた。

  〇

 成長するにつれて、私たちが多くの物を置いていく。
 カエルが跳ねれば捕まえて、蝶がひるがえれば追いかける。そういう衝動や、眼差しを捨てて、大人になる。
 ブランコがあれば駆けて行き、ソフトクリームが売っていればはしゃいで食べる。山のようにそびえる雲に目を奪われ、夜空のように深い海に思いをはせる。
 日がのぼり、沈む。その運行にときめかせていた心を、私たちはどこに置いてきてしまったんだろう。

 まるで聞こえなくなっていくモスキート音のように、欠落していく感情。
 二万Hz以上の、聞こえない音。
 私たちが、忘れてしまったもの。

  〇

「なんかさ、もう聞こえない音って、さみしいね」

  〇

 ひかりは、私が捨ててきたものを全部持っていた。
 私は、自己紹介で嵌っているゲームなんて言わない。面白みのない、無難な答えを選ぶ。だって、それが大人だってことだから。
 私は、たまたま劇場で見かけた知り合いとも言えない相手に、声を掛けたりしない。だって、きっとそれが普通ってことだから。

 でも、ひかりは違った。
 彼女はためらいなく笑い、ためらいなく声をかけ、ためらいなく走り出す。
 私たちが失くした二万Hzを、ひかりは生きている。

 それは、時に言葉にないことを感知する。
 例えば、吐きそうな程に苦しい夜に届くLINEだとか。例えば、同じ速度になった歩幅だとか。

 本当に、変な奴。

  〇

「じゃ、そこいこっか」
 そう返すと、ひかりは驚いたようにまばたきをした。
「なに、いきたいんじゃないの?」
「いや、こういうとこ嫌かなって思ってたから」
「まあ、一人じゃ行かないよね。絶対」
 そう言うと、楽しそうなのにと、すこし落ち込んだ声を出す。感情がわかりやすいところも、くるくると変わる表情も、やっぱり子供っぽいと思った。
「ひかりと一緒なら、行ってみてもいいかもなって。そう思っただけ」
 パッと、ひかりの顔があかるくなる。
「楽しみ」
「うん」
 行く場所も決まって、私たちは体力を温存するために、それぞれ身体を座席に預けて目をつむる。
「……さきちゃん、変わったよね」
「そうかな」
「そうだよ」
 もしそうだったら、それはやっぱりひかりの影響だろう。調子に乗りそうだから、絶対いってやらないけれど。
 私には聞こえない二万Hzの失った音。ひかりには聞こえるその音を、一緒に私も楽しみたいと、そう思ってしまう。
「……私も、聞こえるかな」
 失った音をいつか一緒に。
「なにが?」
「なんでもない」
 新幹線は愛知県を抜けて、東へと向かっていた。


*****

今年の二月、仲さんが『二万Hz以上の音を文章で表現するには』という課題を出され、note内で何名かの方がそのお題についての書かれていました。

このお話は、その時に冒頭部を書いたまま、放置していた掌編です。
遅くなったうえに、二万Hz以上の音を表現できているとは言えないのですが、途中だったものを書き終えられてよかったです。

仲さんのお題が出された経緯は以下のnote。

二万Hzに参加された方のnoteはこちらにまとまっています。


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