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はなさないで。いる

「絶対にはなさないで。」

 通学路、僕は急に路地裏に引き込まれた。
 むぐっ。
 そしてすぐに口を手で塞がれる。
 誰だ? と目をやると同じクラスの酒井さんが僕の制服を掴んでいて、緊張した面持ちでどこかを見ている。
 酒井さんのキリッとした眉が美しい。実は密かに憧れていた。同じクラスだけど、こんなに近くで彼女の顔を見たことはなかった。

「……っ。」
「しっ。黙って。」

 酒井さんが声をひそめて言った。

「いるから。」
「……?」

 黙ってって言われても、酒井さんに結構強い力で口を押さえられているから喋れない。
 酒井さんがそっと指で示した方向、一見僕にはいつもの通学路に見えたが、思えば僕ら以外誰もいない。この時間に誰も通らないなんてありえないのに。
 そう違和感をおぼえたら、急にそれの存在も感じられるようになった。
 確かに何かいる……。

「……きっと、あいつはあなたを狙っているんだ。」
「……!」

 狙ってる? 僕を?
 僕の心臓が跳ね上がった。
 今までモブのように生きてきた僕が狙われるなんてことあるのか。酒井さんみたいに美人で、クラスの人気者で。僕なんかがこんなに近づいていい存在じゃない、特別な女の子ならともかく。
 この僕が?

「これを持って。」

 酒井さんはいつの間にか手にしていた赤い紐を僕に持たせた。
 赤い紐の片方の端を僕が持って、もう片方を酒井さんが持っていた。

「絶対に離さないでね。」

 よくわからないけど僕は無言で頷いた。
 もう酒井さんは僕の口から手を離していて、僕の顔には彼女の手の感触とぬくもりだけが残っている。

「……こっち。こっちに来て。」

 酒井さんはそう言って僕の袖を掴んで、路地裏の奥へと僕を引っ張った。
 待って。そっちに行くとどうなるの?
 酒井さんはずんずんと進んでいく。
 僕はついていくだけで必死だった。
 さっきから知らない道を行っている。
 酒井さんを見失ったら、僕ひとりではきっと戻れないという恐怖があった。
 空は静止したみたいに変な青。塀の向こうの家から人の気配は何も感じられない。誰もいない。誰ともすれ違わない。
 酒井さんだけがこの世界で存在感がある。

 時間の感覚がおかしくなる。
 いつまで歩けばいいのか。この街、こんなに広かったっけ?
 何もわからなくて、何も教えてもらえなくて、僕はだんだんと疲弊してきていた。
 酒井さんはさっきから何も喋らなくて、振り向きもしないから表情も見えない。
 ……本当に酒井さんのことを信用してもいいの?
 僕がつい疑念を抱いてしまった時、酒井さんが立ち止まったので僕はドキリとした。

「……やっぱりダメか。私は話しちゃったから。」

 そうつぶやいて振り向いた酒井さんは突然、手を広げて諦めたような仕草をした。

「私はここから出られない。私と一緒だとあなたは帰れない。」

 酒井さんの顔は暗くて、どんな顔をして言っているのかわからない。
 でもなんだか声は……悲しげに感じた。

「ここからは一人で行って……。」

 そう言われても、酒井さんを置いていけないよ。
 僕が動けないでいると、酒井さんは僕を力強く押して突き放した。
 そして目の前からいなくなった。

 僕の心に後悔が芽生えた。
 僕が一瞬でも酒井さんを疑ったから、酒井さんは消えてしまったのではないか?
 ごめん。
 ごめん……。
 急に現実が向こうから近づいてきた。
 周囲からいろんな人の声が聞こえてきて、体中が痛くなる。
 冷ややかな地面の感触が感じられて、徐々に僕は道路に倒れているのだと認識できた。
 そうだ。
 僕は通学中に……信号機は青だったはずなのに、車が来て……。
 ……酒井さんは僕の少し前を歩いていた……。
 救急車の音が近づいてくる。
 そこで再び僕の意識は遠のいていく……。

 待って!
 行かないで!
 君の赤い紐、僕はまだ離してないよ!

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