パワハラとスポーツ・・・「人前で怒鳴る指導者」からは逃げていい
かつてアタリマエだったものが、時代の変化で、異常になってゆくことがある。人前で怒鳴るような「圧によるマネジメント」もその1つだ。
このnoteでは、そんなマネジメントを受けるor指導される側にとって、
という話をする。
マネジメントするor指導者に対しては、
という問い、そして、
という対応策について、説明したい。
圧によるマネジメントとは、昔は「この苦しさを乗り越え成長するんだ!」という根性ストーリーでもあった。実際、厳しい環境で成長できる場面もあるだろう。
ただ、限度、副作用があるし、その判定基準はシビアになっている。今は基本すべて「パワハラ・モラハラ」だとみなしておくくらいでいい。
(『鬼滅の刃』第26話 無惨さまパワハラ会議 Amazon Prime Video)
そんな環境から「逃げていい」とは、あなたにはその選択肢がある、ということ。自信を持って決め、実行すればいい。
なぜ指導者がそうしているのかというと、単に知らないのだと思う。自分が経験してきた指導を、良かれと思って、繰り返しているだけ。特に「ゆとり教育」以前の35歳以上世代(=1986年以前生まれ@2021年)は、この変化に対応しきれていないことも多いだろう。
どうすればいいのか? noteでは「スポーツコミュニケーション」のカテゴリに投稿をまとめてます ↓
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「感情コントロール」は世界の常識(だが…)
「人前で怒鳴る指導者」とは? まずは経営の話から。
たとえば在米エンジニアさん(という設定の)ツイート ↓
感情をコントロールするのは、人間の社会性の基本。小学1年生でもやってること。指導の場面だけ許されてきた形だが、疑問をもつべきだ。
リプライ欄もおもしろい。本人の後続ツイート:
コメントでは、世界各地から共感が:
一方で、日本(と類似国)は別世界感:
たしかに日本(と類似国)ではこんな文化が続いてきたけど、今度も続くとは思えない。
教わる側の子供〜若者にとっては、マイナスの学習効果がある。スポーツ指導などで、「チームとはこのようにマネジメントするものだ」という経験をしてしまうマイナスだ。その手法は、卒業後のビジネス界では受け入れられなくなっている。
これは正義以前に、まず合理性の問題、知らないと損をしてしまう。
仮説1. 今のビジネス界のニーズに合わない?
「人前で怒鳴る」という手法が機能するためには、前提がある:
この関係があれば、怒鳴られる側も納得するだろう。
社会環境についていえば、正解が明確なら、あとは「実行の量と徹底度」の勝負。そのために、「恐怖という強い感情」を利用できると組織が強い。そしてこの文化に乗っていれば、会社なら出世できる、学校スポーツなら競技で結果を出して推薦で進学・就職できる、等々メリットもある。つまり、怒鳴ること&怒鳴られることには、経済合理性があるのだ。
でも今、そうではない環境が増えている。正解は誰もしらない。(見えている人はいるかもしれないが少なくともアナタには教えてくれない😁)
怒鳴りマネジメントの前提が失われて、「将来性がないスキル」になっていきくかもしれない。
組織構成も、新卒男性正社員だけの単一文化の時代は終わり、女性・中途採用・派遣社員・外部パートナーと多様な人材を活かすようになってきたのは、「NiziU/虹プロ」の例でも紹介した通り:
多様な人たちに対して、「正解を上から与えるマネジメント」は無理。かわりに、それぞれの中の正解を、それぞれ自分で見出す必要がある。
仮説2. 「甘えの構造」?
日本も未来はそうなってゆくとして、なぜ過去こうだったのか? しかも空気を読んで他者配慮しないといけない日本社会で、人前で感情コントロールできていない(ように見える)行動が、なぜ許されてきたのか?
「甘えの構造」の伝統による、という仮説を立ててみた;
という仕組み。1971年の古典で描かれた日本人の心理は、半世紀たっても、いまだ有効なのではないかな?
「甘え」が「構造」であるとは、社会全体で双方向に成り立っている(いた)ということでもある。相手がそれを納得しているのなら、進歩的インテリが何を言おうと、長いものに巻かれておいたほうがトクをする。少なくとも20世紀の日本はそんな社会風土が主流。
しかし、相手方の受け止め方が変われば、一方的で独りよがりな「甘ったれ」なり「甘やかし」なりに変質してしまう。片側の前提が失われるわけだから。
たとえば僕の1980年代、中学の時、周りのハードな運動部で見かけたのは、顧問教師が(演技的に)キレてみせて、キャプテンとかが怒りをなだめにいく、という(儀式的な)怒りと宥めのコミュニケーション。このキャプテン側の行動も代々受け継がれていて、演技的儀式的な相互行為なのだ。そううけとめている限りはストレスもなさそうだ。これは、「構造として安定した甘え」と見ることができる。
ただ、後輩へ伝承されてゆく中で、どこかで断絶が起きて、この演技性を理解できない相手が現れると、途端にパワハラ扱いになる。また、保護者なども傍からみていて、怒りをコントロールできていない「甘ったれ」とみなすようになったりする。
現実: 日本のジュニアスポーツ指導
この「怒鳴るマネジメント」は、日本では、子供〜少年少女へのスポーツ指導にいまだに多い。先日も、国際人権団体、ヒューマン・ライツ・ウオッチ(HRW)が「数えきれないほど叩かれて」と題した調査報告書を発表した。記事:
日本に限った話ではなく、アメリカ人も軍隊映画などからスパルタ指導とか大好きなのがわかるのだが(音楽映画なのに超スパルタな『セッション』 Whiplash=『ラ・ラ・ランド』の監督の出世作=とか大笑)、「存在する」のと「普通に多い」のとは違うので。
その背景には、「修羅場を乗り越えて成長する」ストーリーへの信仰があると思う。肉体的なリスクある状況は、修羅場を一瞬で作り出すことができ、それは体罰が愛用されていた大きな理由だと思う。(僕は1980年代の地方公立中高出身で、そういうの日常の一部だった)
スポーツの(狭い)世界では、その価値観によって成功体験を得ることもできるかもしれない。問題は、引退しビジネス界に進んだ時、その体験を活かせるか?
これからの時代状況でその成功体験は有害にすらなりうるかもしれないよ?という説明を、これまでしてきた。まあどうなるかは誰にもわからないが。
大学入試でも、少なくとも今年はスポーツ推薦の基準の場がなくなり(高2の成績基準でいくらか取っているとしてもはさすがに限界あるし)、一方で総合選抜(旧AO入試)が急速増加中だ。
総合入試では、大学教授の先生方が、これからの社会に必要な人材像を考えて、それに近いタイプの高校生を、自己推薦と面接とを手がかりに採ってゆく。その中で、怒鳴られて=つまりは絶対的正解を前提に育ってきた高校生は、どう判断されるだろうか? まあどうなるかは誰にもわからないが。
スポーツ推薦にむけて力を示す場とは、甲子園が典型。そういえば僕が大学院にいたころの法政は見事に甲子園上位校出身者で固められていた(で東大に負けてたり) それが1年限定とはいえ、なくなった影響は残るかもしれない。
日刊ゲンダイ8/9に「甲子園が暴力を生みメディアが助長している」との元永知宏氏インタビューがあった。暴力批判的なタイトルだけど、「空白期間ができて、頭をリセットされる効果」に触れているのは興味深い。批判だけで動かないものも、当事者が自ら体験し実感することで、変わるものはあると思う。圧をかけることが子どもたちのためになると信じているわけだから、内側から気づくキッカケが必要。
「大人の学びは痛みを伴う」とはアメリカの社会学者、ジャック・メジローの言葉。子供はただ吸収すればいいが、大人には経験からくるプライドがあるから、その価値観にかかわるような新しい知見を受け入れるために、自己否定が必要なことがある。(「日本のラグビーコーチは学び続ける。日本ラグビー協会のコーチ勉強会「ユース・リソース研修会」がオンラインに」2020.08.12 多羅正崇より)
転換期
平成(1989年1月〜)の30年とは両者間の過渡期。ちなみに「ゆとり世代」とは、一般には、1987~2003年生まれ=18歳~34歳(2021年現在)
令和、そしてTOKYO2021後の日本では、その後の世界が切り替わった後の世界にある。
その1つ、「コーチング」の手法も、平成初期にコーチA(=コーチ・トゥエンティワン社)などにより日本に紹介された時期に始まって、平成を通して浸透してきた。TBSドラマ『私の家政夫ナギサさん』でも多部未華子さんが新人リーダーとしてチャレンジしていたけど傾聴しているつもりで質問しまくっていて、がんばって習得してほしい感じだった笑、画像は公式Youtube)
なお多部さんが読んでるのは僕の師の一人、小倉広さん『任せるリーダーが実践している 1on1の技術』 (日本経済新聞出版 2019)、ややマニア度が高いので、新しい『コーチングよりも大切な カウンセリングの技術』がマンガ込みでわかりやすい:
まとめ
オリンピックすら延期され、いろんなものがリセットされている時間の効果は、これから顕在化してゆくかもしれない。
(私、不定期で、このための新たな指導法を、JSPO「公認スポーツ指導者」制度の「更新研修」でお伝えしています。「スポーツ指導者とアスリートのコミュニケーション」について、3時間3千円のセミナーを、主に東京代々木にて。JSPO公認スポーツ指導者「更新研修」対象)
<トップ画像は虎さん>
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