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あんのこと

観た。
これまでこのnoteで映画の鑑賞記録は書いてこなかったが、心に突き刺さるものがあったので、書き残しておくことにした。
ネタバレあり。



主人公の杏は母親と祖母の3人暮らしで、母親から家庭内暴力を受けている。母親は杏のことを困ると「ママ」と呼び、頼る。家庭内暴力の典型的な依存状態にある。この辺の詳細は細かく描かれていないが、とにかくその様子が気味悪い。
母親は杏に売春を指示し、家に金を入れさせる。
その過程で杏はシャブに手を出し、薬から抜け出せずにいる。
売春相手と共にホテルでラリって逮捕されるところから物語は始まる。

冒頭で「事実に基づく物語です」との注釈が入る。
実際にこの物語はとある新聞記事の小さな三面記事を元に制作されたという。
ただ、それはあくまでも題材であって、急に子どもを押し付けられるとか、心を開いていた警察官が性暴力で逮捕されるみたいな部分は多分創作なんじゃないかなと思う。
そうであってほしい。
あんなにも、自らの手で積み上げた希望を、自分の意思の及ばない力で何度も掻き消されてしまうなんて、辛すぎる。

この映画をバカみたいな感想一言で片付けるなら「杏可哀想すぎる」に尽きるのだけれども、杏だけに限らず、人間の善悪が随所に描かれた傑作であると思う。

例えば、佐藤二郎演じる多々羅。
彼はシャブ中検挙の過程で杏と出会い、更生の手助けをするも、新聞記者桐野の記事によって、更生施設の参加者に対する性加害が詳らかにされ、逮捕されてしまう。
逮捕の直前、桐野に対し「この事実を記事にして、行く宛のなくなった参加者たちをどうする?」と問う。
この言葉は保身などではなくて、偽らざる本音だったのだと思う。
しかし更生の過程で参加者に対し、立場を利用して性加害に及ぶ、そしてそれを止められない多々羅も偽らざる真実であり、公務時間外であろう時間に更生プログラムを実施したり、杏をラーメンに連れて行ったり、シャブに溺れる杏を抱きしめる多々羅もまた真実の姿だった。

桐野はどうだろう?
正義の名の下、多々羅に接触し、仲を深め多々羅の罪を暴いた。
それは紛れもなく正しいことだった。
けれどその後、拠り所をなくした杏と接触するシーンは一切描かれず、次に桐野が出てきたのは杏が亡くなったあとだった。
桐野は「自分が記事をかかなければ」「多々羅が逮捕されなければ」と自責の念を口にするが、性加害の事実を突きつけられてもなお、多々羅のことを必要とする杏に、桐野が寄り添うことはできなかったのか

母親はどうか。
作中で母親は大ヒールとして描かれている。
杏が母親に包丁を向けた時「そうそうその調子」などと思ってしまったものだ。
杏に感情移入している我々にとって、それほどに母親という存在は憎く、疎ましい存在だった。
けれども、あの家庭には父親がいない。さらに足が悪くてまともに動けない祖母がいる。
こういった家庭環境は、安倍晋三殺害の容疑で逮捕された山上徹也の例が頭をよぎる。
実の娘を「ママ」と呼ぶなんて、まともではない。

祖母だってそうだ。
祖母は家庭内において、杏の理解者として描かれる。
「祖母のことは好きだから、祖母をいつか介護できるように、介護職がいい」とまで杏は言う。
けれども、祖母が杏にしてやれることは何もなかったのだろうか?
作中の祖母は、足が悪く自分1人では動けないような描写はあるものの、年齢は60代とそこまで老け込んでいるわけでもなく、杏が時折実家を訪れる時も、テレビを見て過ごしているなどピンピンしている。
杏が母親に包丁を向けた時も「杏ちゃん...」と言葉をかけるだけの判断能力もある。
それでも杏に暴力を振るう母親を諌めることはない

人間なんて、そんなものなのだ。
善と悪が混ざり合っているのが人間なのだと、この映画は訴えているように感じた。

杏は様々な人の善の面によって、何度も救われかけ希望を見出し、悪の面によって何度も引きずり落とされる。
ようやく手にした仲間や「行かないでー行かないでー」と嘆き悲しんでくれる介護施設のおじいちゃんとの繋がりさえ、ついにはコロナによって絶たれてしまった。

終盤で急転直下の展開で世話をすることになるハヤトは杏にとって、初めて杏を必要とする存在だった
杏はハヤトから自らの存在する意味を教えられた。
そんなハヤトとの繋がりすら、母親によって引き裂かれ、自暴自棄になり薬に手を出した杏が、死を選ぶ直前に向き合ったのは、それまで、ひたむきに積み上げてきた自分自身だった
ひたむきに積み上げてきた自分自身を裏切ってしまった。

それでも、ハヤトのアレルギーが書かれた1ページを燃やさず大切に握りしめていたのは、杏がほんの僅かでも、更生の過程で関わってきた人間たちから与えられていた希望の証なのかもしれない。


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