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被爆電車特別運行プロジェクトに参加した話

2019年8月4日(日)、中国放送と広島電鉄の共催する被爆電車特別運行プロジェクトに参加した。参加して大分たってからになるのであいまいな部分も多いが、せっかくなので何かしら書いておく。

被爆電車特別運行プロジェクトとはなにか。ざっくりというと、被爆電車に乗って原爆についての話を聞くイベントだ。原爆投下当時運行していた広島電鉄の路面電車は、今も数台が現存している。本プロジェクトで使われているのは653号。被爆当時の色を再現している車両だ。

私は今年の3月にハトノス旗揚げ公演『始発まで』を上演したが、劇中ではまさに「被爆電車特別運行プロジェクト」という名前の企画が登場した。執筆時点で同プロジェクトの存在は知ってはいたが参加したことは無い。劇では実際のプロジェクトに私の希望も多分に込めた上での企画内容として書かせてもらった。だからこそ、後追いとはなってしまったが、是非とも実際のプロジェクトにも参加してみたい、そう思ってわくわくしながら参加を申し込んだ。

無事当選。嬉しい。

当日、参加者は広島駅から被爆電車である「653号」に乗り、広島の街を横断して西広島駅まで向かう。西広島にて少し休憩した後、再度市内に戻り、原爆ドーム前にて下車、約1時間のコースだ。運行中は社内に設置されたモニターにRCCの作成した映像が流れる。原爆についての説明や被爆直後及び復興していく街の様子、本プロジェクト開催の経緯などについて、5分程度の映像を6,7本見た感覚だ。(正確な数字は覚えていない…)


本企画を通じて、広島で起きたことを後世に伝えようという意志を感じた。原爆の風化が叫ばれる中、引退したはずの被爆電車に価値を見出し始まった本プロジェクト。”原爆の悲惨さを伝える”のが原爆について学ぶ際の一つの「様式」であるが、ここではそれ以上に広島の歩いてきた道のりを伝えていこうとする人がいることを感じた。

時代とともに語られ方は変わっていくものだ。「原爆を体験したことのない人が原爆の悲惨さについて語るのは説得力に欠けるのではと思ってしまう」という言葉も私の周りでは沢山耳にする。そんな時代になってはいても、「原爆を伝えたい」、「原爆を否定したい」という”意志”を伝えることはできるはずだ。そう思っているからこそ、この企画からは新たな原爆の語りが広がっているのを感じた

ただ同時にその”語り”の難しさも痛感している。
実は「被爆電車特別運行プロジェクト」に対してかねてから思っていたこととして次のことがある。

「原爆について考えるのに被爆電車に乗る必要ある?」

企画を否定するかのようなこの問いだが、少なくとも参加前の私は歯切れよく答えることができなかった。

なにせ乗車する653号は被爆電車とはいえ数年前まで現役で通常運行していた電車だ。『始発まで』の劇中、653号の車内について「床が木だし昔の電車だなって」という台詞を書いた。なんと内容の無い台詞だろうか。けれども電車オタクでもない人間が今の653号から感じ取るのは”原爆”ではなく、単に古いということだけだ、と僕は思っている。被爆電車と原爆の距離感について、過度な期待はしていない。「原爆が落ちた時も走ってたなんて思うと感慨深いな」、こんな台詞を書く気にはなれなかった。



めっちゃわくわくしながら、でも頭にはそんな考えもありながらの乗車となった。私自身、体験してみてどう感じるのかが楽しみだったのだろう。

走行中の電車という舞台は大変効果的に機能していたと感じた。なによりテンションが上がるし、それによりなんとなく集中力がアップした気分になる。モニターを見つめる子供たちの眼も真剣だ。参加者の中に「電車に乗り合わせた仲間」とまでは言えないまでもそれに近いような緩い連帯感も生まれつつある。一人一人が「自らが乗り合わせている」という感覚が強くなることが、ただ「原爆についての話を聞く」ことと比べた時の本企画の強みかなと感じた。

でもやはりそれは、乗車するのが653号である必要はないのかもしれない。広島の街は「走る電車の博物館」、広島電鉄は様々な車両を所有している。もし被爆電車以外の息の長い車両で本企画が行われた時、僕は現場でその違いを感じる自信は無い。


もちろん「被爆電車が今走っていることに意味があるのだ」という人はたくさんいるし、私もそれは否定しない。「被爆電車に乗る」という企画でなければ集客力は減るだろう。本企画において集客力の減少は知ってもらう機会が減ってしまうということでもある。それは避けたいよね。

自分でもこの問いの答えが出ないままにつらつらまとまりのない文章を書き連ねてきた。一旦自分でも整理してみる。「今、1945年の物理的な傷跡はほとんど残っていない」という現実がある。「被爆電車」なんて名前がついていてもそれは同じだ。恐らく被爆電車だけでなく原爆ドームとかも「1945年の物理的な傷跡」というとかなり怪しいものになっている気がする。

それでも語りたいという意思がある。語らなければいけない。だめだ。これ以上はまとまらない。とっちらかってしまう。原爆について語るなんて一言で言っても、切り口は無限にあるんだ。被爆電車特別運行プロジェクトからその全てを見る事なんてできやしない。書き始めたときはこんなにまとまらない文章を書くとは思わなかった。「被爆電車特別運行プロジェクト」、これは完成しイベントではない。僕はそう思っている。まだまだこれから新しい道ができていく。

いつもこうやって奇麗なことを書いている。ごまかそうなんて思っていないのに、ごまかしているみたいだな。やだやだ。


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