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山崎豊子『二つの祖国』は人を殺す力を持っていると思う

先日、3月頃から読んでいた山崎豊子著『二つの祖国』(新潮社)を読了した。

苦しさに満ちた本だ。扱われるのは太平洋戦争中の日系人たちの悲劇。祖国とは何か、国を愛し、国に仕えるとは何なのか、アメリカと日本の狭間で苦悩する人々の姿が描かれている。日米開戦後の日系人の強制労働所への収容、アメリカへの忠誠を誓い、アメリカの軍隊として戦う日系二世たち、日本に残された日系人、原爆投下、終戦、東京裁判…、あらゆる局面で二つの祖国を持つ者たちの極限の葛藤が現れてくる。

この本を読むのは二度目だ。以前に読んだのは確か中学3年くらいの時。そのラストに衝撃を受けたのを覚えている。今回読み進めながら、物語の中の様々な苦しみがラストにつながることを意識し、読み始めてすぐの段階から「人を殺す力を持っている」というフレーズが思い浮かんだ。アメリカも日本もない、ただただ人の営みが人の存在を否定していく。ひずみはより大きなひずみとして一ヵ所に集まっていく。それを見つめた時に、「どう生きたらいいか」という問いがあまりにも酷なものとなるんだなと思い、悲しくなった。

より個人的な話をすると、僕はこの本を「印象的な本」として記憶していたのだが、「原爆が扱われる」という記憶は正直無かった。大学で「広島県からアメリカ西海岸への移民が多かった」と学んだ時、この本のことは思い出しもしなかった。もちろん本の内容をずっと覚えていることなんてできない。ただそれでも、当時と今の「原爆」というものへの感度の違いは感じざるを得ない。そして、せめて今回は、この本がどう血肉となっているのか、可能な範囲で自認しておきたい。忘れてしまっても身にはなっていることはたくさんあると思おうのだけど、今の自分にとってはこの小説は忘れたくないものだから。

山崎豊子氏の作品は作中の歴史的事象の出典や扱い方について指摘が入ることも多いと聞く。今回あらためて読んでみると、確かに僕でも突っ込みたくなる点もそれなりにあった。おいらも少しばかり知識がついているんだなあと思ったりして、自分の変化を感じる。ただ僕自身知識の裏付けをはっきりと示すことのできる状態に今はなく、ましてそういったことを裁くことなどできやしない。自分も歴史的事実から物語を作るものとしては、「誠実に事実と向き合う」としか言えないし、山崎氏が誠実に向かい合ったのかを見極めるだけの眼は備わっていない。それでも、これだけのテーマに立ち向かい、これだけの作品を書き上げたという熱量は確かに感じる。圧倒される。飲み込まれる。飲み込まれながらも、自分を保っていたいなと、思ったりもする。

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