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友達ってなんだろう。42歳おっさんコラム


最近オフィスに子どもがよく来る。
小学生の息子と、その友達である。遊ぶ場所がないので、仕方がなくオフィスを開放して、子どもたちのスマブラ戦場と化している。

息子の友達の一人は、「僕の同級生の息子」。つまり42歳の同級生の友人の、息子同士がスマブラで対戦しているのだ。

なんかええ話やん、と思ってその友達にLINEを送る。

「そういえば俺も慎太郎の家でかまいたちの夜やったよな」と言っていた。そういえば、エヴァンゲリオンが流行ったときも、うちでみんなで見たあと劇場版エヴァンゲリオン使徒新生を渋谷まで観に行った。

そしてあまりの意味のわからなさに完全に死んだ。完全に死んだ。トラウマを超えるトラウマ。本当に意味がわからなかった。

だけどぼくらは碇シンジと同じ14歳であった。あまりにも未熟で、本当に辛かったが、今思うと良い時期であった。

そして時が経ち、42歳の大人になった。エヴァンゲリオンを初めて見てから28年が経った。そんなに生きるとは思わなかった。42歳になっても、まだ手つかずの人生が目の前に残っていて、不安や苦悩ばかりが並んでいるとは思わなかった。

もっともそれについては、父も母も、祖父母も、その祖先もみんな、誰も安定した人生など送っていない。父は経営者であったが、本当に大変そうだった。祖父は双方とも、借金で首が回らなくなって苦労したことがあると言っていた気がする。母方の祖父は、戦争で中国にも行っている。

40を過ぎると、この世で最も愛される機会が少ない、中年男性という属性になる。35くらいまでは若者感があるし、38くらいまでは何とか延命できる人もいるのだが、42になるともう駄目だ。完全なるおじさんである。

おじいさんは愛されやすいが、おじさんは愛されづらい。恐らくそれは、おじさんは野心を持っているからだと思う。これからの人生で成し遂げたいことがたくさんあるからだと思う。それはある種の臭気となる。

40代というと立派なおじさんであるが、おじさんの世界では一番の新米である。経験も浅く、実力も乏しい。

人間の知性の絶頂期は50代と聞いたことがある。そう考えると、40代のおじさんなど子どものようなものなのだ。


さて、この間炎上した。

大した炎上じゃないから気にしないでいいよと僕は言ったし、実際に後から見てみると大した話ではない。いやいや、大事だという人は、ほとんど事情を知らないのである。

さておき、その時、僕が一番驚いたのは、面識がある人、一緒に酒を飲んだことがある人、自宅に招いたことがある人が、みんなSNS上に好き勝手なことを書いていたことだ。

その時、単純に思った。

ああ、この人達は友達じゃなかったんだな、と。

僕の話を直接聞いたらいいのに、ヤフーコメントやらコタツ記事やらを見て、てんやわんや。火を消すどころか次々と大きくしていった。自分は関係ないから叩かないでくれ、自分はあいつと友達じゃないから関係ないんだ。そういう趣旨の書き込みなんだろう。

ぼくは友達だと思っていたのだが、そこは非常に残念であった。しかし友達はうつろっていくもの。それは仕方がないことだ。残念だなと最初は思ったし、苦しさもあった。でも、そんなところに立ち止まっているわけにはいかない。

ぼくがやるべきことは……。

SNSでぼくのことを勝手に語る人に取り入っていくことではない。そんな人はどうでもいい。またこちらが必要になると思ったら話しかけてくるだろうし、そうではないならここでさようなら。

自分の仕事をしっかりとしていくことだ。自分がやるべきことは明確だ。

自分で仕事が作れるよう、自分の作りたい本が作れるよう、自分の出版社を作った。それを成立させること。

そして、自分が望む作品を作って行くこと。

ほんとそれだけ。友達は大事だけど、友達ではない人は大事にする必要はない。

とはいっても寂しさはあるものだ。

そんなときに、わざわざメッセージで連絡をくれた人がいる。

「大丈夫?たとえ何があっても自分は味方だからね。またいい文章書いてね」

——。もしもぼくが逮捕されて牢屋に入ったとしたら?

「関係ないよ。出てきたら飲もう」

ああ、そうか、ぼくにも友達はいたのだ。良かった。救われた。友達の数は多くないかもしれないけど、ちゃんといたのだ。僕の仕事がわかってくれている人もいたのだ。

なんだ、それで十分じゃないか。

そこから、地に落ちた評判を戻すため……、というよりも自分たちの仕事の意義をしってもらうため、YoutubeLIVEを立ち上げ、毎週放送することにした。最初は10人も見てくれる方はいなかったのだが、今では同時視聴で30人ほど、後から視聴をいれると100〜200人も見てくれている。

たった、それだけと思うだろうか。いや、そんなことはない。それが1人であろうと1人いるだけで、僕は物書き、表現者でいられるのだ。もちろん、売上を考えるともっともっと知名度がなければいけない。しかし、そんなことは考えなければいいのだ。

金を稼ぐならタクシーに乗ればいい。表現するのは生きるためにやっているのだ。誰かの人生を肯定し、意義づけし、歴史に残すためにやっているのだ。もしかしたら、現世の間はまったく売れず、評価されないかもしれない。数少ない友達と、安酒を飲んで笑っているだけの人生になるかもしれない。

それでもぼくは誇りを持って言える。自分の思うとおりに生きた人生だったと。そういう風に人生を組み立てて生きたいものだ。

友達とは、ピンチのときにも友達でいてくれる人のことであったのだ。当たり前といえば当たり前だけど、その当たり前が何よりも価値があることだ。

そう思って、消息不明になっていたりいちに、何度目かのメッセージを送った。

りいち、僕は君がどこへいっても、表現者をやめたとしても友達だからね。また飲もうぜ、りいち。りいちがいないと寂しいよ!

確かこんなメッセージであったと思う。もちろん既読はつかなかった。しかし、それから半年以上経った後、突然返事が返ってきて、彗星のようにりいちが戻ってきた。

りいちは師匠なんて言うから、みんな師弟関係だと思うだろうし、またどこかのライターに「弟子取りごっこをしている」なんて書かれるかもしれない。もしかしたら彼は師匠面したくて若者を集めたけど、みんなにそっぽを向かれた過去があるのかもしれない。

りいちは友達なのだ。それ以上でも以下でもない。口喧嘩することもあるし、ぼくが平謝りすることもある。ぼくはりいちのことを尊敬しているし、りいちもきっとそう思ってくれている。友達なのだ。

そして、僕には一人馬鹿な友達がいる。
一緒に仕事をしたこともあるし、飲んだこともある。
自意識過剰でうるさいやつなのだが、ぼくは友達だと思っている。

彼は大きなことをやろうとして、壮絶にすっころんで挫折して、大爆発をした。かなり派手に打ち上がったと思うし、過失もあるのだろうと思う。

どうだろう。みんな離れていったのかもしれない。しかし、ぼくは彼にメッセージをした。一度飲んだやつは友達だからね。また外に出たいときは表方でも、裏方でも何でもするよ。

本を出して一発逆転をしてもいいし、Youtubeで笑い飛ばしてもいい。

そんなメッセージを送った。傷ついていると思うからすぐにはどうこうできないかもだけど。僕が彼の友達で居続けるかはわからない。だけど、大爆発したところで、友達をやめる理由にはならない。

もっとも、1回むかついたことがあって、おまえのここがいかんと思うとメッセージで送りつけたことがある。そしたら、謝ってくれた。だから友達なのだ。

というわけで、僕はこの文章を彼に送りつけようと思う。

特に何らかのアクションをすることはなくても、飲みに行ったり、仕事をしたりすることはなくて、僕は友達だよという意味を込めて。

もしかしたら、彼の人生に多少は貢献するかもしれないし、何の役にも立たないかもしれない。友達というものはその程度のものなのだから、それでいいのだ。



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