FC町田トウキョウという名称への変更についてサポーターとサイバーエージェントの社長がかみ合わない理由
この件については諸々の考察が出ているので、何も付け加えることはないなと思っていたのですが、意外にも本質的なところが抜けているんじゃないかという気がしたので、そこを付け加えようとお思います。
※追記
前日にこちらのブログを読んだことが影響して、この記事を書きました。あといぬゆなさんの記事。
※本文に戻る
事の経緯を簡単に説明します。
サイバーエージェントというIT系企業が町田ゼルビアに投資をする代わりに、経営戦略を大きく変えようとしています。
その中で論議になっている最大のポイントは、「クラブの名称をFC町田トウキョウに変えること」です。
この名称は流石に撤回されるとは思うのですが……。もしそのまま使うことになった時に町田サポの皆さんが気の毒なので言いづらいのですが……。
正直言って今まで聞いたことがある全てのサッカークラブの名称の中で、一番ダサいです。
カタカナでトウキョウと書くのも、町田トウキョウという地名(漢字)+地名(カタカナ)という並びも。トウキョウ付けたら投資が増えるとは主張されているものの、日本国内からは逆に投資されないんじゃないかなぁ……。
なんて思ってしまいますが、これはぼく個人の感覚です。投資家たちが「町田トウキョウ!素晴らしい!投資しよう!!」と思うという見込みのようだし、そもそも投資家の気持ちはぼくはさっぱりわからないので、そういうものかもしれません。
まぁまぁ、それはいいんです。問題の本質はそこじゃないんです。多分あの話は1000回やっても1000回揉めます。名前がサポーターにとってクソダサいものであったかどうかも紛糾する要因でしたが、そうじゃなくても多かれ少なかれ揉めたと思います。
今日はその単純なメカニズムを説明したいと思います。
世の中には「理屈の人」と「感情の人」がいます。
よく職場で揉めていませんか? 理屈の人と感情の人。
飲食店の現場でマネージャーがやってきて「こうこう業務改善しなさい、何故ならこういう効果があるから」と説明しているのに、マネージャーが帰った後に「あいつは気に食わない。信用できない。」などとぶーたれている店長を見たことがありませんか?
ないかな? ぼくはよく見てきました。それは飲食とか肉体労働系などの現場で働くことが多かったからかもしれません。あるいは50名ちかいバスケチームの運営で四苦八苦したからかもしれません。
理屈の人と感情の人は、そう簡単に折り合いがつきません。理屈の人は、理屈が整っていれば通じると信じています。一方で、感情の人は、仲間とか家族など心を許した人に言われたことしか聞きません。
感情の人が子供っぽいという説明も出来ますが、それはある程度正しいです。と、同時に、感情で判断する、誰が言っているかによって判断を変えるというのは、人間にとって原初的な行動原理だとも言えます。
誰もが元々そうだったわけです。だけど感情的な人が成長していないというのも少し違うかなと思います。「人の感情」とはこの世で最も尊いものの一つだからです。このへんの話は小説版『2001年宇宙の旅』(アーサークラーク)でも是非読んでください。
というようなことを最近まで考えていたのですが、「理屈の人」と「感情の人」という分類は、不完全であることにも気づいてきました。
一人の人間の中に「理屈の人」と「感情の人」がいるからです。仕事は「理屈」で出来るけど、趣味の領域になると「感情」が優先するという人はいると思います。
「いつもは穏やかなんだけどねー サッカーについて話すと人が変わっちゃうのよねー」
そうです。私たちがサポーターです。
サポーターは、「理屈」ではなく「感情」でサッカークラブを応援しています。それは、子供に対する無条件の愛のようなものです。ぼくは生まれ育った葛西という小さな街を愛しています。
だけど、それは愛するべき根拠があるからではなく、生まれ育ったという愛着があるからです。恋愛の相手もそうでしょう。もちろん、最初は色々理屈をつけることもあると思いますが、好きなものは好きで理屈なんかありません。ぼくも結婚を決めた理由は感情でした。
ぼくがFC東京が好きになった理由は、何となくの感情です。そのへんは拙著に死ぬほど書いたのですが、最終的にはFC東京が好きという感情で動いています。東京ヴェルディではなく鹿島アントラーズでもなく川崎フロンターレでもなくFC東京である理由は、FC東京が何となくしっくり来るからです。後から理屈はつけられますが、最初は感情でした。
サポーターというのはそういうものだろうと思います。理屈で考えればサッカークラブのサポーターになるというのはお金と時間の無駄です。投資対効果は皆無に近く、どれだけ期待してもたいていの場合は優勝できません。だから藤田社長自身はサポーターにはならないんだろうと思います。
サイバーエージェントの藤田社長が、1年でJ1昇格、4年でJ1優勝、5年でACL優勝というプランを立てた時に、感情的に反発しました(ぼくも結構怒りました、Jリーグなめんなよ、と)。そうはならないことを経験的に味わい尽くしているからです。
サッカーメディア界の「理屈派」は、藤田社長の言っていることは間違っていないと主張していました。実際に理屈上正しかったとしましょう。
だけど、彼はそれを理屈で言うべきではなかったわけです。何故ならサポーターは感情的な生き物だからです。
「なるほど。確かに町田ゼルビアが存続し、かつ、ビッククラブへと進んでいくためには、トウキョウというネーミングを付け、ACLで優勝することを掲げながら投資を集めていくべきだ。ただし、自分はビッククラブを応援することを好まないため、現在J3の別クラブのサポーターになろう」
ということにはならない。
町田ゼルビアのサポーターにとっては、町田ゼルビアのサポーターで居続けることしか選択肢はなく、そうである理由は町田ゼルビアが大好きで大好きで仕方がなく、町田ゼルビアと一緒に一生を過ごしたい、死ぬまで一緒にいたいからである。他のクラブのサポーターになるという選択肢がない以上感情的に反発するしかないのである。
生まれ育った街を潰してダムの建設をする話と似ている。同じ機能を持った街は他にあるかもしれないが、共に過ごしてきたものを変更されるのはやはり嫌なのだ。嫌なものは嫌なのだ。ただ、ダムの建設の場合「公共性」が必要となり、八ツ場ダム様のおかげで我々江戸川区民の生活は助けられたという事実もある。本当にありがたい話であった。
一方で、愛着のある町田ゼルビアという名前を捨てることに公共性はない。ACL優勝を目指してサポーターをしているわけではなく、町田ゼルビアが好きだからサポーターをしているからだ。
理屈での説明ではサポーターはなかなか納得しない。保険プランの変更とか、税金の支払い方法とか、どの毛生え薬が効くかとか、体重計の性能とか、理屈で判断できるものもある。そして、藤田社長にとっては、サッカークラブの経営も理屈で出来るものなのだ。というか経営者はそうじゃないといけないと思うのでそこは間違っていない。
では何が間違っていたのか。
順序が逆なのだ。
理屈で説明をして、大反発を喰らった後、藤田社長はサポーターとの懇親会に精力的に顔を出した。
逆なのだ。先に飲み会に顔を出して、全員と握手してからだったら、もっと理屈を受け入れられたのだ。
流れ駄目を喰らったことで有名なサッカー界屈指の格好いいネーミングを持つV・ファーレン長崎は、ジャパネットたかたの高田社長による強力なリーダーシップによって生まれ変わった。
今回の町田の件と長崎の件で決定的に違うのは、高田社長が地元の名士であり、長崎の人に「感情的に受け入れられた状態」が最初から作られていたことだ。経営者なので、もちろん理屈で物事を判断するとは思うのだが、彼がつぶやくのは……
サッカーには夢がある
これは感情的な言語であり、サポーターに発言を寄せていると考えられる。あるいは彼自身の中にサポーター的な部分があるのかもしれない。
藤田社長は、まずサポーターに会い、酒を飲み交わし、意見を聞き、感情的に受け入れられるべきだった。サッカークラブの経営の話は封印し、町田という土地についての魅力を語り、町田と共に生きていきたいと語るべきだった。
その上で、プレゼンでは「サッカーには夢がある!!町田の皆さん共に夢を見ましょう!!」というような感情的な話をするべきだった。
その上で、FC町田トウキョウにしたいと告げられた場合、前述した通りネーミングセンスが感じられないので反対はするものの「藤田さん、それはちょっと違うよね。考え直そうよ」というようなもう少し柔らかいあたりになっていた可能性は高い。
と、書いていて思ったのだが、政治の世界も似たようなメカニズムになっていると思う。会社もそうなんじゃないか?違うのかな?人間社会って理屈では動かないと思うんだけど違うのかな?
川口マーン惠美さんの『そしてドイツは理想を見失った』(角川新書)でも、理屈っぽいドイツ人が実は理想に向けて感情的に動く人達であることが描かれている。
ヨーロッパのスポーツ関係者は理屈っぽいようで、結構うっとりするような夢の実現のために本気で頑張っているようなイメージはある。というか儲けるとか稼ぐとかいうことを最優先するタイプの人はあんまりサッカーのことをやらないのかもしれない。
2013年に書いた記事では、スペイン人バスケコーチのセルヒオについて書いた。彼の口から出るのは冷たい理屈ではなく、愛であり夢だった。
某IT社長が交際している某タレントさんの肩を抱いて、「あのテレビ局を手に入れるよ」と語ったという本当か嘘かわからない話を大学生の頃に読んだ。思えばこれもそうだ。大事なのは手に入れることではなく、どんな夢を実現するために手に入れるかなのだ。
サッカークラブを手に入れるのは、今「流行り」なのだが、ストーリーに夢が見えるとやはり納得しやすい。それがなかったから揉めたんじゃないかな。
サッカークラブの運営はみんなの夢を担保する仕事だ。もちろん現場はハードだし、シビアな理屈で判断しないといけないことも多いのだろうけど、やはりトップは夢を語らないといけない。
町田ゼルビアがあることで、町田に住む人達や、そこに育つ子供達はどんな幸福を得られるのだろうか。どんな不幸にならずに済むのだろうか。
ぼくが観に行った今治には、確かに夢があった。
岡田武史という人にはサッカークラブの本質がわかっているのだろう。一方で、藤田社長は今勉強中ということなのだろう。
サッカークラブとはみんなの大切な子供なのだ。我が子に対して「金を出してやってるんだからおまえの人生は俺が決める」と発言する親がいたら顔をしかめてしまうだろうが、それと似たようなことが起きている気がする。
サッカークラブとは、会社のようにシビアに運営する必要があるが、それだけの存在ではない。今回の件の紛糾は、サッカークラブに対する思いの量の違いでもある。
というわけで、結論は出ないし、あまり賛同が得られないかなぁとも思うのだが、ここらへんで文章を閉じようと思う。
そこに浪漫はあるのかしら?
もちろん、サッカーには夢がある!!
追記
多分、サッカークラブを通じて、町田の街を世界へと届けますとか日本最高の都市にしますとかいう言い方をしたら良かったんじゃないだろうか。
追記2
駄文ついでにちょっと前に書いた駄文も載せておきます。町田の特異性にリスペクトを込めてふざけました。反省はしていません。
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