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ジャンプ新人オタクが鬼滅アンチになるまで

「鬼滅の刃」の内容に関する記述がありますのでネタバレを避けたい方はご注意下さい。

「過狩り狩り」

「世界観に凄みを感じる。主人公の登場が終盤という特異な構成のため、前半を盛り上げるキャラ達に説明がほしい。」

これは吾峠呼世晴先生が新人賞佳作を受賞した「過狩り狩り」に対する篠原健太先生による講評である。

「雰囲気や匂いを持っている作家さんだと思います」とも書かれており、変わった作品名・作者名にも興味を引かれた私は試しに受賞作を読んでみた。

が、面白いかどうかよく分からなかった。

「鬼滅の刃」を知る今ではストーリーやキャラクターに察しがつくが、とにかく説明がない。
主人公は誰か、何を目的とした話かなど全く説明なく、淡々と物語が進んでいく。それでも読ませる妙な魅力はあるが、最後まで読んでも何の話だったかよく分からない、というのが率直な感想だった。絵もお世辞にも上手いとは言えない。

ただ、独特なセリフの間やコマ運び、障子や着物の細かい描き込みなど、強い拘りを感じさせる部分(腕を爪で傷つけ惑血を出す珠世、惑血を風にのせる珠世、乱れた髪で流血する珠世など)が多く、強烈なインパクトが残った。

と同時に、次にこの人を見るのは他の雑誌かもしれないと思った。あまりにもジャンプに合わない、ストーリーも作風も絵柄もジャンプではやっていけないだろうと。

次回作はきっと他誌だと踏んだ私はそれから定期的に「吾峠呼世晴」「吾峠」「過狩り狩り」「佳作 アフタヌーンっぽい」「佳作 変な名前」と検索し、新作の発表を待つようになった。

「文殊史郎兄弟」

私の予想に反しておよそ1年後、新作はジャンプの増刊誌に掲載された。

「文殊史郎兄弟」である。
しかも誌面デビュー作にしてセンターカラーだった。増刊のセンターカラーは連載経験者の読切や既に何度か掲載し実力を認められた新人に当てられることが多い。にもかかわらずデビュー作でセンターカラー。
これは編集部に期待されているか、よっぽど面白い作品なんだろう。またしても興味を引かれた私は新作が掲載されたジャンプNEXTを発売日に購入し、真っ先に「文殊史郎兄弟」を読んだ。

相変わらずクセの強い絵、独特の雰囲気でジャンプらしくない作品だったが、受賞作に比べると物語の筋が分かりやすくなっており、キャラクターも個性的で親しみやすくなっていた。詩のようなセリフの間、淡々とした静かな世界観も変わらない。今回ははっきり面白いと言える作品だった。

2作読んでみて気になったのは、変わった理屈の会話や一見わざとらしい描写の嫌みの無さだった。要は異質だが奇をてらった感が無いのだ。
作者がキャラクターに言わせている、他の新人と差別化する為に意図的に変わったことをさせている、という嫌悪感がない。文殊史郎馬畝の言動などは一歩間違えるとわざとらしく映るが、独立したキャラクターとして違和感がない。やや歪な描線やセリフのテンポも相まって独自の作風を確立している。それでいてしっかり面白い。

本編の前ページに書かれた作者プロフィールもまた異質だった。

誕生日    水曜日5月春うらら
趣味・特技  もたもた 拒絶 人見知り
好きな漫画  「ジョジョ」から「クレヨンしんちゃん」まで何でも好き

誕生日の表現さえもクセが強い。もたもた、拒絶、人見知りに至っては趣味でも特技でもない。さらに目を引いたのは作者コメントの「お手紙くれた子ありがとう。」という部分だった。
今作で誌面デビューなのにもう手紙をもらっている。つまりHPで公開された受賞作「過狩り狩り」だけで手紙を出すほど熱心なファンがついたということだ。

個性的で強烈なのに嫌みのない作風、プロフィールから伝わる作者のクセの強さ、そしてファンがつく早さ。

この人は只者じゃないかもしれない、うっすらとそう感じた。

余談:ジャンプ巻末コメントから吾峠先生に初めて届いたファンレターは「獄丁ヒグマ」の帆上夏希先生からだと判明している。「お手紙くれた子」はもしかしたら帆上夏希先生のことなのかもしれない。知らんけど。

「肋骨さん」

「文殊史郎兄弟」に続く3作目は思いがけず早くやってきた。2014年金未来杯エントリー作、「肋骨さん」である。

私はまずその発表の早さに驚いた。「文殊史郎兄弟」掲載のジャンプNEXTが5月7日発売、「肋骨さん」掲載の週刊少年ジャンプが8月25日発売である。新人の多くは増刊で2、3作掲載してから本誌に掲載される。掲載のペースも人それぞれではあるが仮に半年で2作掲載なら早い方だ。それが3ヶ月ちょっとで2作、しかも本誌掲載。
さらに金未来杯へのエントリーである。多くの連載作家(と結構な数の打ち切り作品)を輩出しているこの企画は実力ある連載一歩手前の新人作家が競い合う読切シリーズだ(と私は認識している)。優勝作品が後に連載されることも少なくない。

誌面デビュー後、3ヶ月で金未来杯にエントリーすること、それは編集部に実力や才能を認められているということだ。

読んでみると確かに素人目にも成長が見て取れた。
「過狩り狩り」ではほとんど無かった設定、能力の説明が入りキャラクターの思考や心理描写がぐっと増えたことで分かりやすく、そしてストーリーを追いやすくなっている。物語を通して主人公の変化も描かれている。珍妙なキャラクターのやりとり、セリフの力、優しさの滲む雰囲気もさらに際立っており、当初は欠点に思われたジャンプらしくないことさえ強みの一つに感じられた。

そして「肋骨さん」を読んだことで吾峠呼世晴先生の魅力は「言葉を操る力」であると確信した。言葉の選び方や間のとり方が情緒的で、作品全体の雰囲気をより印象的なものにしている。これは真似しようとしてもできない才能だろう。

このまま金未来杯を受賞して連載までいくかと思ったが、この年は「肋骨さん」の一号前に掲載された「デビリーマン」が金未来杯を受賞。翌年連載となった。

「蠅庭のジグザグ」

続く4作目「蠅庭のジグザグ」は翌年4月、再び週刊少年ジャンプに掲載された。これもまた、面白かった。

「肋骨さん」のアバラとは真逆の傲慢な男が主人公だが言動の善悪が絶妙なバランスで描かれており不思議と不快感は無い。
強烈な個性を維持したまま画力は上がり、キャラのかけ合いはさらに磨きがかかり、個性と読みやすさを両立させた作品になっている。「過狩り狩り」であれだけ分かりにくい作品を書いていたことが嘘のようだ。

この頃には独特の作風に惹かれたファンも増えてきて、ネット上では相変わらず「ジャンプっぽくない」という声もあったが好意的な感想が多く見られるようになっていた。

解術屋という職業も主人公が人助けをする理由も木槌や植物を用いた戦闘方法も、いかにも連載向きでこれで連載するだろうと思った。おそらく1年以内に今度は新連載としてジャンプに掲載されるだろうと。


しかしこの予想は半分外れた。翌年2月、確かに新連載として掲載されたがその作品は「蠅庭のジグザグ」では無かった。


「鬼滅の刃」である。

「鬼滅の刃」

新連載の予告ページに書かれていた吸血鬼、剣士といったワードから「過狩り狩り」の世界観を元にした作品であることは予想できた。「蠅庭のジグザグ」での連載を期待していた私は少し残念だったが、成長を続けてきた今「過狩り狩り」がどのように描かれるのか楽しみでもあった。
また、連載を記念してジャンプ+で過去の読切4作を配信するという待遇の良さからも編集部の期待が感じられた。

            
2016年2月、「鬼滅の刃」の連載が開始した。1話目から容赦ない展開だったが、それがキャラクターの人柄、言葉の持つ力をより印象深いものにしていた。
個性的で人を選ぶ絵柄のため、読まず嫌いする人もいるかと思ったがネット上では比較的高評価だった。

最初の何週かは掲載位置が後方にあることが多く13話目にしていきなり鬼舞辻無惨が出てきた時は打ち切りかと思ったが、我妻善逸と嘴平伊之助が出てきた辺りから少しずつ作品の空気が変わっていった。
善逸の喧しさ、伊之助の騒がしさはそれまで真面目で優しい部分が目立っていた炭治郎のさらなる一面を引き出し、読切の頃から冴えていたキャラクターのかけ合いがより魅力的に描かれるようになったのだ。

3人で行動を共にするようになり間もなく始まった那田蜘蛛山編では、何度かセンターカラーを飾り少しずつ人気が上昇。
2017年7号で連載一周年を待たずに2度目の表紙、巻頭カラーを飾り、5月には新宿駅地下に掲示された巨大広告にて6巻でコミックス累計100万部を突破したことが発表された。

さらに6月、煉獄杏寿郎が亡くなる回のジャンプ発売日には作品に関する複数のワードがTwitterのトレンド入りし、高い人気を裏付けた。

その後の遊郭編、刀鍛冶の里編で柱と共闘して上弦の鬼を倒していく構図が出来上がると人気は安定し、売上も少しずつ伸びていった。

アニメ化

連載開始から2年4ヶ月後の2018年6月には、TVアニメ化が発表された。
驚いたのは同年の12月には鬼舞辻が産屋敷邸を襲撃し、鬼殺隊の面々が無限城へと足を踏み入れる展開に入っていたことだ。

キャストやスタッフが公開されアニメ開始に向け様々な企画が動きだしているにもかかわらず、物語が最終決戦に差し掛かっている。
3年弱で最終決戦に入ることは長年ジャンプを読んでいる身には早すぎるように感じられた。

当時はまさか本当に最終章ではないだろうと思っていたが無限城編が始まって早々に胡蝶しのぶが亡くなり、登場人物が次々に因縁の相手と対峙し始めたことで終わりが近づいていると分かった。

連載が佳境に入る中、1〜5話の特別上映版の制作発表、追加キャスト発表、主題歌アーティスト発表などアニメの情報が少しずつ解禁されていった。書店での大々的なプッシュも多くなり、アニメ放送前にシリーズ累計は450万部を突破した。


そして4月6日、アニメが始まった。

1話目を見て動きの滑らかさ、背景のリアルさに感心したがそれ以降は見なかった。多くの作品と同じように、しばらくはアニメ効果でコミックスが売れてアニメが終われば少しずつ落ち着いていくはず。そう思っていた。

異変

最初に異変を感じたのは8月中旬だった。
本誌で上弦の壱戦が展開していた頃、Twitterでどんな言葉を検索しても鬼滅に関する何かしらが目につくことに気付いた。アイコン、ユーザー名は勿論、アニメの感想やコミックスの画像などが鬼滅とは無関係の言葉を調べていても必ず出てくるのだ。

アニメの19話が凄いらしいとは聞いていたし確認する度に累計発行部数が跳ね上がっていることも知っていたが、それでも一般的な知名度はまだまだ低いと思っていた。

しかし、アニメ放送終了後の10月には明確に人気を実感することになった。

コミックスが売り切れるようになり、売上ランキングが鬼滅で埋め尽くされた。
コラボグッズには朝から行列ができた。
やたらと和柄をプッシュする店が増えた。
ゲームセンターに怪しい鬼退治グッズが溢れた。
すれ違った子どもが主題歌を口ずさみ、下校中の子どもは水の呼吸の使い手になっていた。

気付けばアニメ開始時は10万弱だった公式アカウントのフォロワーは50万まで増えていた。

累計発行部数もまた、デタラメな推移を見せていた。10月に17巻が発売された時は1200万部だったはずが、2ヶ月後の12月には2500万部を突破し、18巻で初版100万部を達成。アニメ開始時に450万部だったことを考えると、もう訳が分からないくらい売れていた。
12月に入りテレビでも特集されるようになったことも影響したのだろう、最新刊の100万部もすぐに売り切れ、既刊も並べたそばから売り切れる状態となった。


この頃から「鬼滅の刃」に対する自分の評価と世間の評価が大きく乖離し始めた。

完結

年が明けても熱狂は冷めることがなかった。
紅白でアニメの名場面をバックに主題歌が披露されたことは新規ファンの獲得に繋がったらしく、相変わらず書店では購入制限がかけられ、アニメの続きにあたる7巻から先は売り切れになっていた。
普段マンガを読まない友人も読み始めた。
あらすじを説明する人を見かけることも度々あった。


どこへ行っても鬼滅の状態になったのはこの頃からだ。役所の掲示板、神社の絵馬、ボールペンの試し書き。
何気なく訪れた先で炭治郎や禰豆子が描かれている。お菓子売り場でもコナン、ピカチュウ、ルフィといったお馴染みの面々の中に炭治郎が現れ、100円ショップでは市松模様の便乗品が売られている。
探さなくても必ず目に入る。

ジャンプ本誌での連載がまさにクライマックスを迎えていたことや、コロナによる巣ごもり需要の高まりなどもブームが続いた理由だろうが、連載開始時から作品を知っている身には少し不気味に感じられた。

右も左も鬼滅鬼滅鬼滅。

大層な考察本にも、出遅れた新聞の特集記事にも、つい1年前まで鬼滅を知りもしなかったであろう芸能人のコスプレにも少しずつ嫌気が差すようになった。

そんな世間が鬼滅一色になっていた5月、連載が最終回を迎えた。これでようやく少しずつ落ち着いていく、街から鬼滅が減っていく。そう思うと安心した。

読切から、もっと言えばその前の新人賞結果発表ページから興味を引かれて追っていた新人作家の初連載が、見事な大成功を収めて完結したのに、もはや何の感慨も無かった。既にこの時私は鬼滅アンチと化していたのだ。

映画公開

連載が終われば狂乱も終わる、という考えは甘かった。
連載終了後もコラボグッズは次々と発売され、和柄の商品が街に溢れかえった。テレビをつければ主題歌が流れ、Twitterでは毎日鬼滅関連の言葉がトレンド入り。社会現象を舐めていた。

それもそのはず、まだ映画が控えていたのだ。
連載時に作品の人気を確かなものにした無限列車編。特に反響の大きかった煉獄の死。
本誌でも煉獄の新作読切や外伝が掲載され、映画公開前には22巻が発売、累計発行部数は1億部を突破。
再び熱狂的なブームが訪れることは明白だった。

それでもアニメからは1年が経ち、連載も終了しているのだからせいぜい映画公開前後に一時的に盛り上がるだけだろうと思った。

この読みも、甘かった。

10月16日に映画が公開されると、あらゆる記録を塗り替える程ヒットした。チケット予約にアクセスが殺到しサーバーダウンした、と聞いた時から嫌な予感はしていたが想像を遥かに上回る盛況ぶりだった。

そして再びすべてが鬼滅一色になった。
満員の映画館、ヒットの理由を分析するテレビ番組、キャラの魅力を解説するネット記事、聖地と化す神社、入荷日未定の貼り紙。

もううんざりだった。

「妹が鬼にされてしまい、人間に戻す為に炭治郎は…」
聞いた。それもう聞いたよ。去年も散々同じ特集テレビで見た。ループしてんのか?

スカスカの鬼滅の棚、見飽きた。また売れるか。まだ売れるのか。

馬鹿の一つ覚えみたいに全集中。鬼滅に絡めたボケ。くどい。

お前らの戦いは終わったんだよそのツラ見せるな炭治郎。何も食わないのに食い物の宣伝するな禰豆子。コスプレで媚びるな芸能人。的外れなこじつけ記事書くなライター。

もうすべてが耐え難い。気持ち悪い。
何故ここまで嫌いになったのか?
考えて3つ、答えが出た。

過大評価

読切時代から追っていた私が鬼滅アンチになった理由、1つ目は「過大評価」である。

今でこそ「鬼滅の刃」は「少年漫画史に残る天才漫画家の傑作」のような扱いだが元々は「未熟な部分も多いが王道のエッセンスと作家の強い個性を両立させたジャンプの中堅漫画」、「好みが分かれる作風だが熱心なファンによる根強い応援でファンと二人三脚で歩んできた玄人好みの作品」でしかなかった。

しかしアニメのヒットを受け次第に「好みの分かれるジャンプの中堅」から「売上ランキングを独占する話題作」、「社会現象を巻き起こす大ヒット作」、「知らないと恥ずかしい全世代に愛される国民的ヒット作」へと変わっていった。

この現象を簡単に説明するならば「面白いがクセの強い作風によって敬遠されていた作品が、クオリティの高いアニメによって大衆の人気を獲得した」ということになるのだろう。

しかし私はこういった世間での評価が過大評価に思えてならない。右に倣えの国民性や同調圧力、あらゆるタイミングにより異常なほど売れただけに過ぎず、マンガそのものに社会現象を起こす程の力があるとは思えないのだ。

そもそも鬼滅はアニメが放送するまで、特別売れていたわけではない。勿論アニメ化までしているのだから全く売れていなかったとは言えないが、歴代のヒット作と比べるとやや低空飛行だった。

鬼滅の連載後に限ってみても、約半年後に連載開始した「約束のネバーランド」は4巻で累計発行部数110万部を突破しているし、現在連載中の「呪術廻戦」は13巻(0巻含めると14巻)でシリーズ累計1000万部を突破、「チェンソーマン」は9巻で420万部突破と、いずれも鬼滅より早く、そして多く売れている。

他にも過去の人気作品と比較してみるとアニメ前の鬼滅の売上がいかに低かったかが分かる。

現在の熱狂を異常と見るか妥当と見るかは結局、大ヒットした今と低空飛行の3年間どちらに標準を合わせるかの違いでしかない。
1億部売るポテンシャルを秘めた作品がそこまで売れていなかったことが異常なのか、いまいち伸び悩んでいた作品がアニメをきっかけに1億部売れることが異常なのか。

私はアニメになるまでの評価こそが「鬼滅の刃」という作品への適切な評価だと思っている。連載中漫画賞とは無縁だったことも突出した作品ではなかったことを物語っている。

決して面白くないわけではないが、売上に対して内容が釣り合っていないのだ。特にコミックス16巻から始まる最終決戦は非常に粗が目立つ。この点については長くなるのでまた別の記事として書くことにする。

要は自分にとっては平均的な作品が、世間で持て囃され傑作と称えられ、日常が染まっていくことで少しずつ反感を抱いていった、ということだ。

初めてマンガにハマったのであろう人が少年マンガではありふれた要素を非凡なものとして称賛し他作品と比較していかに鬼滅が素晴らしいかを鼻高々に語り、ただの素人の考察が事実として広まり、テレビはしつこく特集し続け、ビジネスや時代背景と結びつけたこじつけ記事が毎日のように公開される。どこへ行こうが見飽きたキャラと模様が目に入る。

そんな環境で生きているうちに少しずつ、鬼滅に関するミュートワードが増えていきテレビから聞こえたらチャンネルを変えるようになったのだ。

同調圧力

鬼滅アンチになった理由、2つ目は「同調圧力」だ。

アニメになって売れに売れたことで、今や鬼滅は誰もが読むべき傑作の扱いとなっている。読んでいなければ時代遅れと見なされ、読むことを強要される。読めば称賛以外許さない。

これだけ売れた作品を読むのは常識、ハマるのも当たり前、それが当然。そんな思考。

私は連載中から読んでいるので無理矢理読まされることにはならないが、それはそれで厄介なことになる。
新人賞受賞作から読んでいたと言えば古参アピールと見なされアニメになる前から読んでいたと言えばマウントと取られる。設定や描写の細かい部分に触れればオタク呼ばわり。

同じタイミングで同じように流行に乗り、同程度の知識を持つことしか許されない。

その空気の息苦しさ。容赦ない同調圧力の不快感。
この1年毎日のように晒されてきた。

マンガに限らずいかなる娯楽も触れるか触れないか決めるのは個人の自由。ハマるハマらないもその人次第。他人が口出しすることではない。その大前提を無視して作られた空気は作品さえ嫌いになる程苦痛なものだ。

また、私が鬼滅ブームに対し異常だと感じていることも同調圧力に強い嫌悪感を抱くことに繋がった。

「鬼滅の刃の人気は異常だ」と言うとブームに乗れない哀れな人、逆張りだのと見なされがちだが私は鬼滅ブームに対し異常だと感じる人は大きく2種類に分けられると考えている。
ブーム以前から「鬼滅の刃」を読んでおり元々のジャンプ本誌での立ち位置、コミックスの売上などを知っている人と、単純に作品を面白いと感じない人だ。
私は前者にあたる。

今までに流行した作品と違い、鬼滅のブームにだけ異常さを感じるのは「アニメ化するまでの知名度、売上の低さ」が理由である。

例えば連載開始時から評判を呼びコミックスは爆発的に売れ、クオリティの高いアニメが作られて更なるヒットに繋がるという今までのヒット作と同じパターンだったら、それほど異常さを感じない。

それがアニメをきっかけにせいぜい中堅レベルだった作品が突然売れだしたから、1年以上ずっとブームが続いているから、異常だ奇妙だと言うのである。
これはヒットしてから作品を知った人には分からない。3年間地道に連載しファンと二人三脚で歩んできた作品に対し急に老若男女がヒイヒイ言い出したのが不気味で仕方ないのだ。

しかしブーム以前から読んでいた人とアニメをきっかけに読み始めた人では圧倒的に後者が多いため、異常さを訴える声は批難され掻き消される。そしてここでも称賛一択の同調圧力に晒される。

同調圧力自体も不快だがそれ以上に嫌なのは同調圧力をかけてくる人間の方だ。
その多くはやはりアニメ後に作品を知った新規ファンであり、あえて意地悪な言い方をすれば世間の熱量でようやく作品を知った売れるまで見向きもしなかった人だ。

そんな人々には今まで見向きもしなかった絵画に価値があると分かってから、急に才能やセンスを評価し始めるような白々しさを感じてならない。

また、流行に乗らないことを揶揄し時には仲間外れにするような人もおそらくリアルタイムで連載を追っていない、世間の熱に煽られて読んだ口だろう。そういう手合いは自分こそ連載時の熱狂から一周も二週も遅れていることを自覚すべきである。

そんな価値を測る物差しが人任せ数字任せになっているような人々が今更騒ぎ出した挙句、キメハラときた。

こんな人間がのさばり多様な意見を許さない空気がはびこれば、新人時代から追っていようが連載を欠かさず読んでいようが作品を好きで居続けるのは難しい。
こうして気付けば鬼滅だけでなくファンに対しても良い印象を持たなくなっていったのだ。

そして、私を鬼滅アンチにした決定的な理由こそがこういったファンの一部であり作品にとって害悪でしかない存在、「鬼滅キッズ」である。

鬼滅キッズ

鬼滅アンチになった理由3つ目、「鬼滅キッズ」の存在。

鬼滅キッズとは他作品にやたらと因縁をつける、売上でマウントを取るなどの迷惑行為を繰り返すとにかく幼稚で攻撃的で悪質なファンの総称である。やはりアニメによって爆発的に人気が出てから現れた厄介者だ。

元々鬼滅ファンはやや布教熱心ではあったが、他作品を貶したり何かと売上を持ち出したりはしなかった(そもそも誇れる売上ではなかったこともあるが)。

それが鬼滅キッズの出現によりここ1年で著しく民度が低下した。マンガだけでなくあらゆるものにケチをつけ方々に喧嘩を売る奴等には、作品に対する愛と作者に対する敬意が大きく欠けている。

鬼滅キッズの振る舞いで私が特に腹が立つのは、他作品への侮辱及び売上マウントと鬼滅連載前の作品にすら及ぶパクリ認定である。

真面目に考えるのもバカバカしいような連中ではあるがすぐに他作品を貶し売上を比較する鬼滅キッズは、他人に対して威張れる話題を常に求めている人なのではないか。人よりも優位に立てるものを持っていない人がヒット作の功績をさも自分のことのように語っているのだ。

そして鬼滅への評価や塗り替えた記録を己の手柄だと思い込み、鬼滅は凄い、鬼滅が好きな自分も凄い、と勘違いする。

結局その対象は鬼滅でなくてもいいのだ。その時に他を圧倒するコンテンツにすり寄って優越感に浸れれば何だっていい。そこに愛はない。
ただ一つ言いたいのは「鬼滅は凄い、と語るお前は何も凄くない」ということだけだ。

また、鬼滅キッズの口癖「鬼滅のパクリ」にも思うことがある。

実際に明らかにパクっていると思われるものに対して使うのなら理解できるが、ごくありふれた要素や設定への軽率なパクリ認定が多すぎる。

中には鬼滅の連載以前から存在するものに対する難癖も多い。そういったものは愚の骨頂だが私はすぐにパクリだと騒ぐのは「普段マンガは読みません、鬼滅が初めて読むマンガです」と言っているのと同じだと思う。

なぜならヒット作には共通点や多く見られる要素があるということを知らないから。

鬼滅はモチーフもストーリーもあらゆる設定も、描かれる全てがありふれたもの。少年マンガの王道をうまく押さえているだけで、オリジナルの要素はほとんど無い。

今まで描かれた少年マンガの王道のエッセンスが多分に含まれた上に非凡な言葉選びのセンス、切り絵のような趣のある不均一な描線といった吾峠先生の個性や確固たる強みが存分に生かされたことで唯一無二の作品になってはいるが、特に今までにない発想や画面作りがあるわけではないし基本的な構造は歴代のマンガ作品にも見られる普遍的なものにすぎない。

そもそもヒットはそれまでに確立されたメソッドや作劇の技術の上に作家個人の持ち味、個性を発揮することで生まれるもの。多くの人に支持される作品に少なからず共通項が存在するのは当然のことなのだ。

日頃からマンガを読んでいれば、他作品と似ている点があってもよくあるとしか思わない。それを知らないということは普段はマンガを読まないということだろう。

鬼滅キッズはとにかく「鬼滅の刃」を基準にものを見すぎなのだ。ただ他の作品をろくに知らないだけなのにストーリーの展開や設定、キャラクターの特徴など全ての原点に鬼滅を置いて比較し、波風を立たせる。
鬼滅がオリジナルだと思っている要素があろうが、そのほとんどは古くから伝承されてきたものだ。決して鬼滅キッズにとっての原点が少年マンガの原点ではない。

口を開けば「鬼滅のパクリ」と騒ぐのは己の無知と軽薄さを露呈するだけの愚行であり、狂信的で攻撃的な人間は作品を遠ざける存在にしかならないことを理解すべきである。

「鬼滅の刃」に対してもその他多くの作品に対しても失礼で非常識な鬼滅キッズの姿勢、これこそが過大評価と同調圧力によって日々積み重なっていた鬼滅への嫌悪感にとどめを刺したのだ。

これから

随分長くなってしまったが、以上がジャンプ新人オタクとして吾峠呼世晴先生を追っていた私が鬼滅アンチになるまでの顛末である。

もはや鬼滅に関する一切のものを目にしたくないというレベルにまで達してしまったが、今後もその望みは叶いそうにない。

近くコミックスの最終巻が発売され、累計発行部数だけでなく実売で1億部を突破する日もそう遠くないだろう。来年には画集やファンブックの発売も控えている。
また、おそらく映画の興行収入が歴代1位になることも避けられない。

今後もあらゆる作品に対しパクリだと騒ぐ輩は変わらず現れるだろうし、これから5年、長ければ10年は鬼滅に影響を受けた新人が後を絶たないだろう。

なかなか終わらないお祭り騒ぎの中でこれからも生きていかねばならない私が願うことはただ一つ。
鬼滅ブームの終息だけである。