神に愛される竈門兄妹
204話で初めて明かされた炭治郎の鬼の素質
それまで目を瞑ってきたご都合設定の中でもこれは特に主人公補正が強く、作品のシビアな世界観をぶち壊すものだ
そもそも炭治郎の人間化にはあまりにも都合のいい要素が多い
満身創痍とはいえ止められる力を持った人間が集結していたおかげで人を殺さずに済み、しのぶの薬と無惨の細胞に抗体を持つ禰豆子のおかげで人間に戻ることができる
暴走を止められる人が近くにいたこと
人間化の薬があったこと 抗体を持つ人がいたこと
これだけでも都合がいいと感じるのにさらに炭治郎には「無惨や禰豆子を上回る鬼の素質があった」ときた
この設定が出てきたことでこの作品は炭治郎と禰豆子だけが徹底的に神、つまり作者に愛される物語という印象になってしまった
本来鬼の末路は鬼殺隊に斬られるか日光に灼かれるか無惨の死と共に滅びるかしかない
これは望まずに鬼にされた人であっても関係ない
しかし竈門兄妹はその全てを免れる
こんな不公平なことはない
また、鬼の素質が明かされる直前の203話で初めて鬼になる精神の過程が描かれたことも炭治郎の都合の良さが際立つことに繋がった
鬼にされた人は無惨の細胞に取り込まれ抵抗もできず、次第に自我は失われ人間だった頃の記憶も薄れていく
この描写により今まで悪鬼として斬り伏せた望まずに鬼にされた人も最初は炭治郎と同じように神に祈り、人間のままでいたいと苦しんでいたと想像できる
鬼になることがいかに理不尽な不可抗力かが描かれた直後に主人公だけは運に恵まれ、死なず殺さず人間に戻れるというご都合主義が発揮されるのだ
他の鬼に人間化薬や日光の効かない素質があっただろうか?暴走を止められる人が運良く側にいただろうか?
3つどころか1つもないのが普通だろう
薬も抗体を持った人間もいないため鬼となることから避けられず自我を失い家族を殺し、食うために人を殺せば悪鬼として斬り殺され日の光の下を歩くこともできない
こうしたあらゆる悲劇から炭治郎と禰豆子だけが逃れられる
そして悲劇に見舞われた人々を滅ぼし、平和が訪れたと喜び、隊士からは幸せを願われる
悲劇によってキャラを立たせることが多かったこの作品で作者の不平等な愛が唐突に出てきた「鬼の素質」によって明確に可視化され作品の公平さは大きく損なわれてしまった