見出し画像

【雑記】誕生日の、次の日

 昨日、誕生日を終えた。
 何事もない一日だったらよかったのだけれど、仕事でミスを二つやらかした。作った文書には大量に修正が入り、僕の不手際のせいで上司が電話で謝ることになってしまった。とにかく謝罪してばかりの一日で、あまり楽しい日とはいえなかった。
 そのあと家に帰って、ローソンのチキンとシュークリームを買って食べた。ずいふんささやかな誕生日パーティだった。
 200文字以内で誕生日を語り終えてしまったが、そんなにたくさんの出来事が一日に起こっても、それはそれで大変な気がするので、こんなものでいいんじゃないかと思っている。30歳の誕生日なんて、だいたいこんな感じなんじゃないか。

 30代に突入したことで、なにか特別な変化があるのではないかと思ったが、特にそんなことはなかった。周りの何人かが口にするような、絶望感のようなものも感じなかった。昨日までと同じ自分が続いていくだけだった。
 結婚願望もなく、物欲もあまりないので、とりあえずしばらくは本を読んだり、ランニングをしたり、ラーメンを食べたりしながら日々を過ごしたいと思う。目標のようなものを作ったとしても、大抵うまくいかず、途中で挫折してしまうので、あまり力を入れた生き方は向いていないんじゃないかと思う。

 ここ何年か、誕生日になるとソワソワと落ち着かない気分になる。知り合いから誕生日を祝われても、なんとなくぎこちない気分になる。祝われたことに対して、どう反応してよいのかよくわからなくなってしまったからだ。大げさなリアクションをして、喜んでいる風をその人たちに示すべきなのか、それともただ静かに好意を受け入れるべきなのか。もちろん、誕生日を祝われること自体にはうれしさを感じるし、感謝の気持ちもある。周りの人が自分に興味を持ってくれていて、誕生日を忘れずに憶えていてくれた。それは少なからず、自分が周囲に受け入れられ、なじんでいるという証拠になるも思う。
 しかし、その場で瞬間的にどうそれを表現してよいのかがわからなくなった。大きなリアクションをすることで、確かに周りの人は喜んでくれるのだけれど、それは自分の中ではどうしても演技をしている、祝ってくれた人を騙しているかのような感覚があって、やはり落ち着かない。
 みんな、本当はそのことに気が付いていて、僕の心を見透かしているんじゃないかという考えが頭をめぐる。そういう風に考え始めると、なんとなく表情が硬くなっているような気がするし、その感覚を覚えると、さらに落ち着かなくなってくる。
 祝ってくれたことに対する反応を一旦その場では保留して、落ち着いたところで文章で表現し、一日後に返すことができれば、それが一番よいのだけれど。

 子供の頃は、誕生日というのはとにかく楽しみだった。ただその一日を楽しめばよかった。親や友人たちから注目されることも、気分がよかった。純粋に反応することができた。それがなぜ今はできなくなってしまったのか。
 社会人になって、建前を使うことに慣れすぎたせいで、理論的に考えることを意識しすぎてしまっているせいで、自分の心の反応さえも理論だてて一つずつ順番に考えてから外に出す癖がついてしまったのか。

 周りの人たちがせっかく祝ってくれたというのに、それをこんな不満のような形で書き記すことは、とても贅沢でおこがましいことなんじゃないかと思う。でもとにかく今書きたかったことを書いておく。10年後にもしこれを自分で読んだときに、面倒なことをいちいち考えていたんだなあと笑えるようになっていたらとても面白いと思う。

 とりあえずこの週末はケーキと、二郎系ラーメンを爆食いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?