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天職

ハンドメイド作家をするのが私の長らく適職だった。アイデアは常に湧いてきたし、楽しかった。「こんなエエ仕事があるんかい」という感じだった。全人類にオススメしたろうか、と思っていたぐらいだ。おそらく「好きなこと」「向いてること」「できること」という曲線がうまく合致していたんだろう。だけど天職じゃなかった。その事実が随分私をこだわらせ、苦しめたと思う。私は生粋の作り人には、なれないのだ。

じゃ、生粋の作り人ってなんだって言われたら、それは難しいけど、たぶんどんな苦労をしても作ることに言い訳しない人なのかなと思う。作ることが好きというより生きること、生まれてから呼吸して、そして作る、ぐらい当たり前に作ることを考えるような人なのかなと思う。

私は23、4歳、ハンドメイド仕事にしようと思うまで、趣味で自発的にものを作ったことがほとんどなかったし(時々思いついたようにミシンでぐしゃぐしゃのものを作った)、ハンドメイド作家を休もうと思ったら、一切手を動かさなくなった。作家であればするべきというようなことが、最後は息苦しく、窮屈だった。

ものを作ろうと思ったら、その大半は恐ろしく地味で退屈な作業だ。地味で退屈な作業だけが本質なんじゃないかというぐらい、地味だ。Aという作業をするためのBという道具を用意する前にCという下準備が必要なのでDという作業を行うためのEがあって・・・、みたいな感じだ。終わりもないし、果てもない。作り人たちはそれを嬉々としてこなすような人たちだ。むしろその退屈な行程の一つ一つを変態的に丁寧にこなして恍惚としたりできるのだ。すごい。けども、結局良い創作物というのは、そういう過程の結果、いい創作物たるのだろう。神は細部にこそ宿るのだ。私はやらなきゃいけないことはやるけど、恍惚とまではできなかった。

私は、作り人だと自分を思い込ませていたのかもしれない。朝起きてから寝るまで創作のことを考えて、すべての行動が創作のためにあって、どれだけ苦労しても、しんどくない「ふり」をしてたと思う。思い込んでいたと思う。

その過程で、本来であれば純粋な自己に近づくはずなのに、自分と乖離していったから、それを認めたくなくて足掻いていたのと思う。いやいや、持てるだけの情熱と時間を注ぎ込んでいるのに、天職じゃないわけないだろう。

もやもやと湧いてくる、「本当にこれが魂からやりたいことかい?」という疑問をワニワニパニックみたいな感じでバンバン叩き潰してきたのだ。

全部の時間と情熱と持てるだけの技術と向上心と、行動力とモチベーションと勉強と計画と、注ぎ込んでも、自分の中でうまく合致してないと、どっかで歯車が、回らなくなる。うまくいかない。心がぐちゃぐちゃになってしまう。心がぐちゃぐちゃになると人は言い訳をするし、いろんなことが認められなくなってしまう。

だからと言って、じゃあハンドメイド作家やったのが間違いだった、無駄だったというふうには全然思わない。というか、続けられるんだったらあと何年でもやったと思う。そんぐらい楽しい部分は楽しい。

だけど、このままズルズル同じことを続けていたら、いつか成長する体力すらなくなって、自分が天職じゃないことを認めたくなくて、自分を守るために、言い訳ばかりするようになっていったんじゃないかと思う。私はそういうところがある。

言い訳ほど栄養価の低いものも、そうそうない。口にすればするだけ、目の奥が卑屈になってしまう。

天職の人しか、ものを作るなとは思わない。適職なだけで充分じゃんかと思う。私は、私がやってきたままで、充分なぐらい愛してもらっていたじゃんか。私の足掻きも、わかってもらえていたし、無理しないで、応援してるって言ってもらった。

けども、魂のワニワニパニックが違う違うといってるのを否定しないようにしたら、現在のようにわけのわからない人になってしまった。

笑わないで欲しいけど、たぶん、いつか、魂と自分が合致する「天職」ってやつにたどり着きたいんだと思う。まだ諦めてないんか。


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