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1Q94

 あれは小学6年生の夏休みで本格的な勉強も部活も始まっていない文字通り、人生最後の気楽な夏だった。
 テレビでは半島の指導者が亡くなり号泣する国民や、鋭く削った鉛筆のような形のミサイルが戦車だかブルドーザーだかの大型車両に搭載されてカメラの前をゆっくりと走っていた。

 算数が壊滅的にできない私は、母親が心配して小3からそろばん教室に通っていた。私一人では行き渋ることを見越してか、年子の兄を先回りして説き伏せ「お兄ちゃんも行くから、行きなさい」と言いくるめられてた。兄は理系でそろばんなど全く不要なのだが、中学に上がっても文句を言わず付き合ってくれていた。

 その日は太陽が本気で稼働するため「暑い」を改めて思い知るような天気だった。
 昼の2時過ぎ頃だっただろうか、歩いて7~8分程のそろばん教室へ二人で向かった。既に夏休み中だったせいか他の生徒はおらず私たち兄妹の二人だけだった。
 「そろばん教室」と言っても専用の建屋があるわけでもなく先生の自宅の縁側を少し建て増し拡張をして、板の間に机と椅子を並べたものだった。
 先生は70代のご夫婦で奥さんの方は身体が弱く、二人の間に子どもはいなかった。女の先生は過去に脳卒中を起こしたらしく、顔面麻痺と言葉が詰まり気味だった。それを近所の大人たちは陰で話題にしていた。顔がきついだの、言葉がつっけんどんだ、等々と。私は稽古をつけてもらっている時の真剣な目や、詰まりながらも熱心に教えてくれる人柄を知っているから大人たちの評価が別人の評価かと思っていた。
 
 下駄箱にサンダルを入れ、母屋に上がると二人の先生はこの暑い中まさか来るとは思っていなかったようで驚いたように「あんたら来たんか」と団扇を仰ぎながら迎えてくれた。男の先生は上は白の綿の肌着、下も揃いのステテコ姿で大変寛いだ格好だった。稽古を始める私たちのために窓を閉め冷房を点けてくれた。筆記用具と問題集、帳面とそろばんを机に並べた。稽古は約1時間だ。割り算、掛け算、伝票算、見取り算の4課題でそれぞれ10分を目安に玉を弾く。試験前はストップ・ウォッチでタイムを取る。初めの2課題は集中力が強く順当にこなしていくが、後半は疲れて思うように正解が出せずいつも苦戦していた。兄は要領の悪い私にはお構いなしでとっくに終わらせて用具を仕舞い、隣の居間で女の先生と寛いでいた。遅れること約10分。周回の時差でやっと私も用具を仕舞った。

 二人で帰りのあいさつをするその時「あんたら、この暑い中を帰るんか。ちょっと休んでいき」と男の先生が言った。私たちは訳が解らずポカンとしていた。先生は奥の和室の襖を閉め、空調の温度を調節して「こっちで昼寝していき」と手招きした。 
 その和室は先生たちの寝室でお習字教室の日だけ新聞紙を敷き詰めた上に入ることが許されている部屋だった。いつも清潔に整っていたのでいくら遠慮知らずの子ども時分でもそこへ入るのは何となく憚られいた。私たち兄妹は一瞬戸惑った。お互いに顔を見合わせ、さてどうするかと声を上げようとした時、兄は「おい、寝ていくぞ」と真っ先に部屋の中央に転がった。私は兄の振る舞いに驚いた。その当時の兄はテレビゲームに夢中で相当やり込んでいたのだ。この稽古が終わったら一目散に家に戻りその続きを没頭することと思っていたからだ。それでなくとも、兄は今でこそ蹴っ飛ばしても起きてはくれないが、子どもの頃は神経質な性格で他人の家で昼寝をするなんてことは私の知る限りあり得なかったからだ。
 男の先生は「うん、うん」と頷きそれから私を見た。私にそれを断る理由はなかった。いつもは入れない先生の寝室。先に横になった兄。私は部屋の一番奥側、兄の左側に寝そべった。男の先生も横になると出入り口の襖から女の先生が覗きながら「あんたらそんな恰好で寝ては冷やすよ」とタオルケットをそっとかけてくれた。 
 部屋は薄暗く、空調は冷え過ぎず、暑過ぎずに快適で、外では蝉が途切れることなく鳴いていた。奥から順番に私、兄、男の先生、文字通り川の字で寝ていた。

 いや誰も寝てなんかいなかったと思う。

 そろばんの試験は1課目が10分単位に区切られている。10分間集中して玉を弾く。10分間なら動かずじっとすることができる。でも20分はきつい。どれくらいの時間横になっていたかと言うと、おそらく、10分以上15分前後というところだろう。そっと襖の引く気配がした。女の先生がゆったりとしたやさしい声で「こっちへおいで。冷たいお茶いれたで」と呼んでくれた。私は一番に起き上がりタオルケットも整えず真っ先に部屋を出た。
 絶妙のタイミングだ。10分は持つ。でも20分は無理だと初めから見切られていた。そしてその打ち合わせはあのご夫婦の間に一切なかった。後から兄が隣に座り並んで麦茶をすすった。最後に寝室を整え直した男の先生が席に座った。いつも履いているスラックスはその日は結局履いていなかった。ご夫婦が寛いでいるそのままの姿で、ステテコのままだった。男の先生も麦茶を飲んでいた。

 それから私たちは帰りのあいさつを済ませ、二人並んで帰りの坂道を登った。傾斜の強い坂道の住宅地に住んでいたのだ。帰宅すると母が「おかえり。いつもより遅かったね」と話しかけてきた。私が返事をする前に兄が「麦茶よばれた。それでテレビみてしゃべってた。北朝鮮のニュースとかや」と応えた。母はちゃんとお礼を言ったのか、いつもお茶を出してくれるのか、など更に訊いてきた。兄はちらと私に視線を向けてから「今日だけや。それに今日は俺らたち二人だけやったから」と適当に返し、テレビゲームのスイッチを入れて質疑応答を打ち切った。私は気の重いピアノの練習をするか、それとも兄のように次々と攻略できず全く楽しめないテレビゲームだが、兄の痛快な攻略手順を観戦するかどうか迷った。しかし、いくらの時間も使わないで観戦コースへ流れた。

 あれから四半世紀以上経った。
ある日、兄に憶えてるいるか?と尋ねた。
兄は遠くの「何か」を拾うような長い視線になり、それからびっくりするくらい静かな声で答えた。「忘れた」

 暑い夏の午後が来ると毎年思い出す。三人で川の字になって寝たこと。よく冷えた麦茶と、先生だけど先生の顔ではなかったあの夏の午後のことを。

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