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「伝わる伝わらないは、ルールの向こう側にある」

アニメ「ちはやふる」で、主人公の千早ちゃんと同じカルタ部の、かなちゃんが、後輩のすみれちゃんに言った言葉。

短歌が5:7:5:7:7の句で編まれたからこそ、1000年もの時を経て残った。伝えたい思いを、言葉を、ただぶちまけるではなく、ルールに乗せて伝えたからこそ、短歌は残って「今」の私たちにも伝わった。

これは青春真っただ中のアニメ・漫画の高校生限定の話だろうか。

私は、社会人になった今でも「私はちゃんと言いました」、「メールしました」、「ちゃんと〇〇さんに伝えました」と言っていることがある。でもあの人は分かってくれない。伝わっていない。そんなことがままある。

振り返ると、それは、私が「ルール」を勘違いしている時に良くあったと思う。

伝わった感なし?:すみれちゃんの太一君への片思い

すみれちゃんは、千早ちゃんの幼馴染の太一君のことが入学してからずっと好きだった。

ある日、すみれちゃんが太一君が好きだ、と第三者に話しているところを太一君に聞かれてしまう。ショックを受けて部室を出ていくすみれちゃんに、かなちゃんが追いかけて、タイトルの言葉を言った。

「あんな言葉で、部長(=太一君)に花野さん(=すみれちゃん)の思いが伝わると思いますか?」

私自身振り返ると、手段や内容だけにフォーカスして、伝え方や相手の状況を無視した時に、伝わっていないことが良くあると思う。

相手が同じ温度でプロジェクトに向き合っていない時、相手が別の仕事や私生活の事で心が囚われている時、いくら丁寧に手段や内容を凝らしても、相手には届かなかった。

そうした相手の状況を理解した上で、相手への伝え方を工夫した時、「伝わったな」と初めて実感出来た。

伝わるルール:相手が心も体も聞く状況にあるか

ただ、大きな組織で働いていると、「相手への伝え方の工夫」は、非効率な行為になる。人数が多い分、プロジェクトを理解していない人が多くなりがちだからだ。

出世する人達は、「言いました」「伝えました」「メールしました」で、自責の状況にならないように、上手く渡り歩いていた。

資本主義的観点では、効率的な選択だと思う。理解しない人たちに時間を割かない、という選択もあるのだと思う。

私は、「私」が伝えたいことを、真摯に時間をかけて考えて、「言葉」にして、伝えられる働き方を追求することにした。

「私」が伝えたいことなら、「私」は「非効率」だと感じないし、「相手が理解していない」ことに対して、無駄な「あの人仕事できる・出来ない」思考に陥らない。

伝わるルールの一丁目一番地は、相手が話を聞く準備が出来ているかだと思う。同じ目線にいて、聞いているふりではなく、聞こうとしてくれる状況にあるか。仕事でも、親子でも、夫婦でも、恋人でも、政治演説でも。

私は、「プロなんだから分かっていて当然」とか、「普通こうだったらこうだよね」という「私の当たり前」に立った時、「伝わるルール」を勘違いしがちだったと思う。

「同じ思いの人はすぐ気づいてくれるから」

ただ、はなから伝わりにくい人達を相手に、自分を消耗する必要もないと思う。自分をすり減らしてでも、伝わるルールを徹底したい人は、実はいないと思う。

私にとって一番「いいな」と思えるのは、「プロフェッショナル」を追求できる場所で、本当に私が伝えたいことを、「私の当たり前」の感覚を「誰かを傷つけることなく」発揮できる場所だと思う。

せっかく仕事をするなら、同じ思いの、温度の、目線の、より上を目指そうとする人達と、「伝える・伝わる」を試したい。

宇宙より遠い場所」の最終話(13話)で、主人公のキマリちゃんが、最後に言った言葉;「同じ思いの人はすぐ気づいてくれるから」。

「仕事だから辛くて当然」「お金貰っているんだから、多少変な人がいても、合わない人がいても我慢しなきゃ」

新入社員の時から、ずっと言われてきたし、そう思わなければいけないと思っていた。そして、ある意味正しいとも思う。

自分が良い方向に変われるのであれば、仕事が辛くても頑張れる。変な人がいても、自分の凝り固まった「当たり前(=偏見)」を気付かせてくれるのであれば、その出会いは価値あることだと思う。

でも、自分を良い方向に変わらせることが出来ない、理不尽な論理や、硬直的な「文化」に染まるような場合、正しいとは思わない。

大組織だろうと、どんな職場だろうと、私生活だとしても、私と同じ思いの人は、一生懸命伝えようと紡いだ「私」の言葉を、きっと「すぐ気づいてくれる」はずだと思う。

私の「伝えたい」を知ることが実は一番難しい

何故なら、私の伝えたいことこそ、一番知ることが難しいことだからだ。

私は大学生など若い時、この「私の伝えたいこと」の正体が分からなくて、政治や哲学に走ったことがある。「格好良さそうな」言葉、「しっくりきそうな」言葉を見つけては、自分の伝えたいことに変換していた。

でも、結局借り物の言葉は、決して私の言葉にはならなかった。

この音とまれ」のさとわちゃんが自分の音を聞いて、初めて「こんなんじゃお母さんに伝わらない」と気づいたように、「宇宙より遠い場所」のしらせちゃんが、死んだお母さんを求めて行った南極で、しらせちゃん自身のお母さんへの溢れる思いのメールを見つけたように。

「私」の声を「私」がちゃんと聴くことは難しい。私の思いを、ちゃんと私が把握しているかは確かではない。

そして、その分苦労して、一生懸命見つけた「私」の声は、きっと、苦労して他でもない「私」が聞いたからこそ、きっとちゃんと「相手に伝わる言葉」になる。

ここではないどこかへ行きたいと思ったからこそ、ここが愛おしい場所だと知ることが出来る。


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