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安楽死:オピニオン

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安楽死に関する私の考え方、スイスの団体とのやり取りなどをまとめます
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#安楽死

「日本人」の同調圧力:安楽死か「生きろ」か、はたまたこの二つだけなのか

祖母の死ぬ瞬間は、壮絶だった。 テレビやアニメの影響からか、「死ぬとき」は、ベッドで「うう」と小さく呻きながらも、静かに眠るように、スッと死んでいくものだと思っていた。 が、全く違った。そこは、家族にも苦しみの禍根を残すほどの修羅場だった。 私のお祖母ちゃんの最後:修羅場以外の何物でもなかった呼吸器をつけた祖母の口呼吸は激しく、顔は歪んでいた。痛みや苦しみにも関わらず、力がはいらないためか、歪み方が不自然だった。見たこともない、激しい口呼吸の中、祖母の目は白目と黒目を彷

より良く生きるために―安楽死

2016年に初めて安楽死について知った。きっかけについてはまた書きたいと思う。 現在36歳で、会社の健康診断もほぼA。持病や病気の症状はなし。食事(自炊・飲酒なし・喫煙なし)や生活スタイル(11時前に就寝・運動習慣)を鑑みても健康だと思う。 <人生プラン:ネットの情報は私にとって偏っていた>独身で子供はいない。今私は結婚したいとは思わないし、していない自分に引け目も感じない。子供は社会の宝だと思うし、ぜひ子供のために私の税金を使ってもらいたい、と心から思うが、私自身の子供

自己決定ができる「私」:安楽死の可能性

「安楽死をしてもいい」社会は、「死んでもいい」社会につながる。社会的弱者や障害者は、いずれは「死んでもいい」という風潮の社会に繋がることを懸念する。 こういう意見の記事を最近良く見る。 私は、安楽死を「私が」したいと思う。それと同じくらい、「生きたい」と思っている「私ではない他の」方々の権利と主張を全力で支持したい、と思う。 言い換えれば、「私が安楽死をしたい」という言説は、「社会が安楽死を推奨していい」言説には絶対なりえないし、「私」ではない「他人」が、「安楽死をすれ

プシューケーとエロースと喜びと

絶世の美女プシューケーは、美の神ウェヌスの嫉妬を買った。ウェヌスは息子、エロース(ラテン語のクピド・英語のキューピッド)が、プシューケーに矢を討って卑しい男と結婚させるよう仕向ける。間違って、エロースはその矢を自分に当ててしまい、プシューケーの虜になる。紆余曲折(二人の試練)を経て、最後は神々の前に祝福を受け、プシューケーとエロースは「結婚」し、ヲルプタスを生んだ。 「恋愛」の概念のもとになったこのギリシャ神話。 私はむしろ、この物語を読んで、恋愛という概念が生まれる前の