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街中で推しを見たい!という話

12月、年末である。

年の暮れは一年を纏めるものと相場が決まっている。今回は僕もこの流れに乗っかり、いわゆる”推し活”の総括をしてようと思う。つまり、推しの何が好きなのか、何故好きなのかを自分なりに書いて、自分の中で整理してみようというわけだ。
似たような文は去年も書いたが、こういうのは何度書いても良いのだ。

とはいえ、毎回同じことを書いても芸がない。
そこで、今回は僕が「街中で見られる推し」が何故好きなのか、という点に絞って書いてみる。

昨年と同様、「こういうオタクもいるんだな~」程度の軽い気持ちで読んでいただければ幸いだ。

さて早速、「街中で見られる推し」とは何ぞや?と思われるだろう。具体例を挙げよう。例えば「駅前のデカいスクリーンに映っている推し」がその典型だ。ヘッダーの写真がそれに当たる。
他にも駅ナカのポスターだとか色々な形があるので、一般論をドンッ!と示せないことはご容赦願いたい。

僕はこの「街中で見られる推し」が好きだ。オタクは普段、推しをスマホやPCの画面内でしか拝めない。だから何の脈絡もないような街中で見られると、なんだか特別な一日を過ごしているように感じる。細かい理屈は抜きにして、ファン冥利に尽きるというやつだ。

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「街」は面白い場所だ。「街」では毎日、幾千万の見ず知らずの人間が交差する。そして、その人間一人一人には必ずそれぞれの「日常」が存在する。駅ですれ違ったあのおじさんも、僕とすれ違うその瞬間までに、朝起きて歯を磨いて、出勤のついでに奥様にごみ捨てを頼まれたりした...のかもしれない。そして、「街」にはそんな「日常」が、すれ違う人数分だけ存在する。「街」とは日常の集合だ。

「街中で見られる推し」は、その幾千万の「日常」に自然と刻まれることになる。たとえ見た人が意識していなかったとしても、その人が生きたとある一日の「日常」に「推し」が存在したことは、純粋な事実として残る。
駅前のでかいモニターに映る「推し」や、アドトラックに描かれた「推し」。彼女らは「街」に来た人間一人一人の、それぞれの人生の一部として、残り続けるのだ。

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例えばコチラ、品川駅の写真だ。ぼかしをかけているが、東京らしく数多くの人間が行き交っている。オタク的には、推しが風景の一部と化している時点で感動ものだが、この通路を通ったその時から、ここを歩いた人の人生それぞれに「推し」の存在は刻み込まれている。
そう思うとなんだか壮大だな。

ファンは自分から見に行くから置いておくとして、街中には僕の「推し」を知らない人間もいる。そのような、普段なら接点を持つことが無いであろう人達の人生にも残り続ける。だから僕は、「街中で見られる推し」が好きなのだ。

インターネットが発達した現代だが、人間が物理の体を持つ現実の存在である限り、現実の「街」は特別な意味を持つと思うし、それ故に「街中で見られる推し」も同じく特別なモノだと僕は信仰している。人類が完全に電脳化したら話は違うかもだけど。
もちろん、これは僕が勝手に信じているだけなので、これが正しいんだ!とは言わないし、押し付けるつもりもない。

あと数日で4周年。
少し早いけどおめでとう。

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