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たかが花の一本を、

兄の遺体を安置させてもらっていた場所へ
母に案内され行った時、何もないその部屋に
今までの私の家族の有り様を見た。

花の一つすらない、その部屋に

母と共にそこを後にした後、
何だかんだ理由をつけて別行動をして。

連絡なく再度行ったら葬儀社の人の迷惑になるかもしれないと、
わざわざお供えをしたのかと母が不満を持つかもしれない、
そう思いながらも

花と、忘れてしまったけど飲み物を何か買って
兄がいるその場所を訪れた。

快く部屋を開けていただいて、お礼を言って、お花を置かせていただいた。

何もないよりはずっといい。

明日母に何か言われるかもしれないけど。


ただ私は、花の一本すらない。

そのことが
さみしかったのだ。

いつもなんでも
すぐ、全てを何かの良し悪しの話にされてしまう。

けど、そういうことではなくて

私が花を渡したいのは、
理屈なんて本当は抜きで
理由なんて意識することもなく、ただの私の感情で。

寒そうな人に毛布を渡したい。
ずぶ濡れの人に傘を渡したい。
さみしそうに見えるから、花を、
いろんな想いを込めて花を贈りたい。

ただ、それすらただ肯定されない。

それすら説明が必要。

私はそういうのにちょっと疲れた。


私は、一体何本の花束を贈らずにへし折ったのか。
何本のカーネーションを、思い浮かべてはゴミ箱に捨てたか。

たかが、花の一本を渡すこともできずにいる私。

たかが花の一本を渡したいという感情すらなかったかのように扱う方が、楽な日々。


いなくなったあの人に花を贈りたい。
大切なお母さんに花を贈りたい。

そういう、理屈ではない感情を、肯定されないから
私はいつもどこかで私はおかしいのかと不安を持って、
日常と社会をじっと見比べて
それでも、と思う方を選んでいた。

いつも母の日には、カーネーションの花の一本を持ち歩く、大人に、こどもに、偽りなく、とても幸せな気分を感じる。
けど、同時にそれに幸せを感じれるほどに、自分自身のドアがパタンと閉じているのも強烈に感じるから、すこし悲しい。

たかが、一本の花。
されど、一本の花。

理屈でへし折らさせた、私の中の花は、届けられることはない。

私には、もうあの人たちを愛しているのか、わからない。


先週は少し感傷的だった。

久しぶりに漫画「彼氏彼女の事情」を出してきて全巻読んだ。
文庫本の7巻から。

愛されなかったことで苦しんできたのなら有馬はもっと乾いた人間になった気がする けどそれは違うよ私は有馬の奥にはもっとたくさんの感情があるような気がするの 思うんだけど自分で気づいていないところでもうひとつ殺している感情があるんじゃないの?有馬はさ あなたはずっと 人を、愛したかったんじゃないの

宮沢が出す答えと、それを受けての有馬のモノローグは未だ考える。

僕が耐えられなかったのは愛する気持ちを踏みにじられつづけたこと痛くて死んでしまいそうだったから深い心の闇の中に隠してしまったんだね…

私の愛する気持ちも踏みにじられつづけたのだろうか。だから、苦しいのかと、たまに考えていたことを、考えながら寝落ちした。


起きてしまえば、
結局は親に本音、もしくは最善と思う演技さで話せていないから苦しいのだろうなと結論づく。

私の一声で、親が変わるその変化は怖く、
もしかしたらあるかもしれない修羅場を想像しては萎え、
その責任は負えないとも思う。
自殺、心中、傷害。安易に想像できてしまう。
彼らには、彼らを支えるものが少ない。関係性も理由づけも。
私も多い方ではないけれど、彼らはどうやって保っているのか。
不思議になるくらいだ。

そのリスクをわかっていながら安易なことはできないと。
だから決定的なことはしないできた。

私はあの人たちを負いたくない。これ以上。


ただ、同時にわかってもいるのだ。

そういったって結局現時点で苦痛を感じるほど負ってるし。
ならば言いたいことは言うべきでは?と。

そして言葉をどう受け取るかは、私の問題ではなくその人の問題だと。
その人がどう生きるかはその人のものだ。

だったら、私は私の問題を果たし、それを軽くするしかない。
幸い彼らは私の庇護すべき子供でもないのだ。
ただの一介の大人。
生きれなければそれはそれで仕方ないと、どこかで思ってしまう。

どこかで認知するたびに私は冷たい人間だと思う。
そういう自分に気づくと、人のための仕事をしている自分が嫌になる。

ずっと合わせてあげられなくてごめんね。
だって、もう死ぬまで変わらないってわかってしまったから。
私が棺に入ったとしても、それはきっと変わらないじゃん。

そういう自分と、白と黒でしか考えられないのか。グレーで接してあげればいいのに。血縁だからできることもあるのに、優しくしてあげないのか。
たった一人の残った子供のくせに。

その考えで、揺れるけど。

まあでも、なぁ。痛くても進んでいかなくてはね。
人に伝えるってほんと苦手。


と感傷からの再試行。

あー、啖呵切れるヤンキーになりたい。


もしくは父性的な愛情で叱責したい。
受け入れるばかりが愛ではないのだ。



ひとまず了

果ノ子

(ちょっと感傷的になったので殴り書き。マイナスを書くときはゼロまで持っていきたいけど、なかなかギリギリな文章。)

(花の一本、そのイメージの先が目を閉じた時にもっと浮かべばいいんだよね。焚火で燃やすでも、誰か別の人にあげるでも、いつか親の棺に入れてあげるでも。)
(↑多分、こういう認知行動療法?、イメージからの再構成・捉え直しみたいのは、子供の頃からやっている。大人になってから、あれは心理学的な技法だったのか、と知った時面白かった。私が感じる・思うことは多くの人も感じていると言うこと、そういうのがもう本になっていることに)
(父性愛ってなんだろうはいつか思ったことを書き出してみたい。)

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