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溺れて藁を掴んだ人の、そのこどもだった

幡野広志さんのnote『溺れる人に藁を掴ませる人。』を読み終わり、
わたしの母は溺れている時に藁を掴んだ人だなと思いながら、
今noteを書いている。

私の母は私が小学生の頃に溺れた。子供をお腹の中で亡くして。

頼りにならない父も、そして他の子供である私たちも
母の藁にはなれなかった。母は生きていくために宗教という藁を掴んだ。




子供を亡くした親に、差し出される手は少ない。

同じ親としての悲しみを持つパートナーと共に共有することができないと、彼らは孤独に陥りやすい。
亡くなった子供のことは、近しい兄弟・両親ですら語るということが躊躇される。また近いからこそ、その死に対する考え方や感じ方が異なっていることが当人からすると受け入れにくく、安易な言葉に傷ついてしまったりしやすい。
子供を知っている共通の親しい友人がいれば、悲しい気持ちの話をすることもできるかもしれないが、死産の場合はその存在自体が最初から秘すられていることも多く、話したいと思った時には、誰かに語るということが難しくなってしまう。
また話を振られる聞き手としても、何を言えばいいかわからない人の方が多い。
そして、子供を産む年齢においては、友達も子供を産み育てていることが多く、子供を見ること自体が辛い中で、親はだんだんと孤独になっていく。

私の母は、
私の弟が亡くなった痛みや悲しさを、
父と共有できなかったのだろうと思う。

そして私たち子供は、そのまま生きることができなかった命を思い出させる辛い存在になったのではないかと思う。


そういう心理的に彼女の手を伸ばしてくれる存在は少ない中で、
『溺れる者に藁をつかませる人』が差し出した藁を母は掴んだ。


母が掴んだその藁である信仰は、
「信じていれば、いつか来る楽園で、死んだものも皆救われて幸せに過ごせる」そういうものだった。

子供を亡くした親にとって、死んだ子供が救われるというのは心の底から願うことであってもなんらおかしくはなく、もともと哲学や物語が好きだった母には母が欲しいまさにぴったりの藁だったのだと思う。

商品を販売や説明するWEBサイトは分かりやすく、末期がんでも完治すると謳い、お子さまのためにと一番弱い弱点を突いて説得してくる。そして薬漬けにされるなどと標準治療の不安を煽り、不安から守ろうとしてくれる。

はっきりいうけど、インチキ医療の勧誘は病院で説明される医師の難しい説明よりも、分かりやすくて親身なんですよ。正しい医師の難しくて正しい説明は、悪徳業者の分かりやすい簡単なウソに負ける。

幡野さんも書いている通り、『溺れる者に藁をつかませる人』の、その説明は、分かりやすくて親身である。上手に不安に寄り添う。
そしてその誰かはわざわざ会いに来て話を聞いてくれる。
そして不安な時は、人はそれだけで救われてしまう。

そうやって、母はその藁を掴んだ。


幡野さんが書いている効果がない代替医療と、
信仰を同列に話すのは違うのではないか、という意見もあるだろう。
特に私の母が信じた宗教は金を執拗に求めるものではなかったし。

信じることで穏やかに救われるならいいのではないかという意見もあるかもしれない。現に私も母が穏やかであればいいのではないか、と思うこともあった。

ただ宗教というものの中で、
特に信者を獲得するために活動する部分が強い宗教においては、信じるものだけを救うという側面をどうしても持ちやすい。そこには無意識化での他者への不寛容さがある。

近づくときはまるで寛容であるように、親身に、そして善意を持って近づいて。そして無意識化で「やらなければ不幸になる」「救われない」を刷り込むことがある。
そして『溺れる者に藁をつかませる人』が掴ませようとするものの多くは、それ以外の藁を掴むことを良しとしなかったりする。

そうすると、それを掴まない選択した家族や関係性の中で軋轢を生む。


私は子供の頃、母につられて一緒に藁をもらって
藁をぶらぶらと持って過ごしていた。私は少し大きくなり、私はこの藁が必要ないということに気づく。

けれど、その藁を信じている人からすれば、捨てるということは許されることではないのだと感じた。その行為を拒絶されることを許せない。そして無意識に強い言葉を投げつける。幡野さんに色々進めては強い言葉を投げつける人たちみたいに。


母はその藁に救われたのかもしれないが、
私がそこからもらった幸せはなかった。

私は藁を捨てようとすることで私と母の関係は、ダメになってしまった。
関係性としては、幡野さんに代替え医療を勧める人と幡野さんぐらいの距離感に私の心はなってしまった。


私の母は、一途にまだその藁を持ち、今も救われることを信じている。
私はその効用を否定できない。

信仰者となって家族で過ごす時間を減らし活動をして、
そして今では『溺れる者に藁をつかませる人』をやっている。


母はその藁を差し出してもらって救われたのは事実なのだ。

けれど、だからこそ
そんな母をみていると少し悲しくなる。

子供を亡くした悲しみと辛さから救われたくて選んだ手段で、さらに子供を失っているのに、気づいていないということに。


と、まあ溺れて藁を掴むと
こういう苦しみが生じる場合もあるということをだらだらと書いてみた。


でも、じゃあ。
子供を亡くした母は藁を掴まずにどうすればよかったのだろうか。
ということを書き連ねていたけれど、

うまくまとまらず。
ひとまず終了



果ノ子
(色々たくさん思っていることがあるけどまとまらない。結論なしのchipsとして書けばいいのかなー。)
(私が幡野さんの記事が気になってしまうのは、お子さんが可愛いのが一番だが、こういう諸々にすっきりと意見をいける部分に敬意を抱くから。いくら眉唾物でも、真摯に勧めてくる善意さをきっぱりと断わるというのは、それだけで怖いことだと子供の時に経験して知っていて、その経験から彼の動向に自分を重ねる部分もある。)
(毎回、グリーフサポートの紹介まで行きたいのに行かずに終わる。)
(弟と私の話として、こどもの私がどう、その死を受け止めたかはまとめています↓)


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