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誕生日。 その幸せなお祝いの日に、happyという形容詞をなんだかうまくつけられなくなった。それはいつからなのだろう。 たぶん本当は子供のころからそうだった。 でも、その日は子供の私にとっても同じく子供の友達からしても、誕生日というのはハッピーバースデーという日だった。 それはhappy birthdayとしてあった。 そうありたいと思ったし、そうであってほしいと願っていた。 happyに込められた、「しあわせな・嬉しい・幸福な・祝福された」 そういう一つ一つと、私の
分類すること。 あるべきものをあるべき場所に置くこと。要は整理整頓。 そういうことだけで、物事は大きく変わったり 付加価値がついたりする。そう思う。 わかりやすいところだと、ビーチコーミング。 砂の中に埋もれたガラス片を集めれば、それを使ってアート作品ができたりする。 流木を集めれば、アクアリウムが趣味の人に売れたりする。 砂つぶだって種類ごとに集めたら、地質を示す標本が出来上がる。 誰かが集めて。 集まったところに、集まったものに、 人々は集まってくる。 集まった
前回、「人が居るということ」という記事を書いた。 その時の気持ちの方向性は 人がいることを、わすれないようにしなきゃねぇという方向性だったと思う。 ただ、ここ数日お茶をしながら、ZOZO関係のニュースとか見ながら思う。 あー、なるほど。 何かを売りたいなら 何かになりたいなら、 何かを作りたいなら その「人」というものは見えない方がいいのかもしれないな。 そんなふうに思った。 例えば物語で一つの文章に感銘を受け、大好きで大好きで仕方なかった時に 著者近影を見て、な
私たちは、とかく「そこに居るのは人である」を忘れがちだなあと思う。 システムの裏には人がいる。 私たちが相、対しているのは人である。 人はいろんなものをシステム化することで、 無機質化して「人同士の接触」をなくすことで 何かに集中するための時間を作り、気をすり減らすことを減らし、 発達したり、効率化をあげたりしてきているけれど。 そういっても。 ちゃんと扉を叩いて、やりとりをしていけば そこにいるのは人である。 なんてことを、最近メルカリを使い始めて思った。
今日は6時半に起きた。隣の部屋のソファベッドにはAが寝てる。 人がいる気配の中、眠りにつくのは久しぶりで、夜中に何度かもう朝かな?と目を覚ました。 起き上がって、まだ寝ているAを見て、改めてAにベッドを使って貰えばよかったと思う。ソファで丸まって寝ているのはやはり狭そうだ。 次の機会があったらそうしよう。 そのまま、そっとシャワーを浴びて、家仕事をした。Aを起こす時間としてはまだ早い。自分以外の人がいると、水場の扱いや衛生観念にいつもより気を使うなと思いながら、昨日飲んだグ
ここ最近考えていること。 それは「わたしの薄皮」について。 「薄皮」 それはツイッターのタイムラインに流れてきた、東畑開人さん(心理学者)のネットのエッセイの中に書かれていた。 そう、薄皮一枚って、本当に大事なのだ。 私たちの生きている世界は、自分を偽らないこと、「ありのままの私」であること、自然体であることが良きことで、仮面をかぶらず、素顔のままでいることが推奨されがちだ。 自己啓発本なんか読むと、自分の中に潜んでいる「本当の私」を発見して、本当にやりたいことに正直
宝物入れの上に乗せて保管していた、レターボックス。 小学生からの手紙が入っている。 手帳を整理したその後、手紙を整理していた。 麻ひもで、ある程度束になっているけれど、 もはやどんな分類でまとめたか、わからない紙類。 紐を解いて、ひとつひとつ手にとった。 封筒の消印、名前、その文字の形で手紙を置き分けていく。 たくさんやり取りしている友達はそれでひとまとめに。 おかあさんからのものはこっちに。 おばあちゃんからのはこっち。 年賀状はその年ごと。 捨てずに残してい
あの日から14日後のメモ * 例えば、絵を描いたら楽になるのか、とか思う。 死ななければなんとでもなるっていうのは本当だなー。しなかったことを数えるのは胃にくる。 でも同時にされかのせいでもなんのせいでもないと思う。言いわけではなく、そしてだから兄のせいでもなく。選択は必ぜんなんだろうか、とさえ思う。けど 誰のせいでもないからこそ、きっと何かできたとも思う。でもそれを誰かや何かの所為にできるほど、感情的にはなれない。でも、できることはたくさんあったと思うほどにはうぬぼれて
病院の帰り、図書館に行った。 なんでか、あの「静かである」が普通の空間が好きだ。 文字とにらめっこして、ただ棚の前に立ちすくむことを 許された空間が好きだ。 静かでいることが、最適であるとされる。 思えばそういう環境は好きだ。美術館。音楽ホール。 呼吸をそこに忍ばせるみたいな空気感。 あいうえお順にならぶ、本の背表紙に久々にワクワクとする。 知った名前も、見覚えもある名前も。 いっとき読んで、購入しても、 もはや手元から離れた、当時の本たちが並ぶ様。 私は、図書館があ
水差しに差していた、花が枯れた。 しおれ始めから「ああ、そろそろおしまいかな」と、 そう思うまでの間は、ほんとうあっという間だ。 むかし、 お花屋さんで鮮やかに咲いている、切花が苦手だった。 だって、もう「それらは切られてしまっている」から。 地面から切り離され、彼らの鮮やかさの後ろには、 腐るか枯れるかの未来しかない。 もし買って帰ったら、 私は綺麗なこの子たちの腐る様を見ないといけない。 咲き切った、命が尽きた彼らを 燃えるゴミに出すか、そんなに興味はないのに
そう思って、図書館に行ったら、休館日 というのはまあよくあることだ。口惜しい。 最近、noteも含め、素人も玄人もその道のプロの言葉も戯言も ごったかえした文章を色々ネットでみているにつれて。 なんだか、改めて「製本された、研鑽された、研究された」、 過去のあるものにちゃんと基づいた、ちゃんと分類された文章を読みたい、そう思った。 読む文章と運命的に出会うのは楽しい。 ネット上で文章に出会うは、その記事が作られたタイミングとか検索の運とかかなり大きく、だからこそ面白い。
瀬戸内海の粟島に、漂流郵便局という名前の郵便局がある。 宛がない。誰に届けていいかわからない。 送りたい人はもはやいない。 そういう漂わせるしかないような、 誰かに宛てた手紙を、そっと受け取ってくれる。そういう郵便局である。 といっても実際に日本郵政が経営している郵便局ではない。 粟島の使われなくなった郵便局を、久保田沙耶さんが瀬戸内国際芸術祭2013でプロジェクト型アート作品として使用した、そういう場所だ。 2013の芸術祭が終わった後も、漂流郵便局はそ
私が星野源さんを知ったのは、絵本からだった。 本屋で表紙に惹かれて手に取った絵本『ばらばら』のその詩に惹かれた。 (一部引用) ”せかいは ひとつじゃない ああ そのまま ばらばらのまま せかいは ひとつになれない そのまま どこかへいこう” 二十歳過ぎの当時、世界は一つになれるという人たちと それを素晴らしいという考えに疲れていた時だったので、 (あ、ひとつになれなくてもいいんだ)と 絵本の詩と、平野太呂さんの淡い水色の穏やかな写真が見せてくれるものに
変えるために触れることは、痛い。 私が触れることで変わる何かが、怖い。 だから それはできたら避けたい。 けれど前の記事で書いた、 私の中にある生きるために変化に触りたいという感覚。 それらの感覚をなんとなく遊ばせる中で、なるほどと一つ気づいた。 私が働く場所にとして、病院が割と性に合うのは、 触れる人たちがすでに変わる過程にある人達だから というのが、大きいのかもしれない。 私が触れることで、 ガラッと変わること・変えることを 恐れなくてもいい、ということは 私の臆