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脱監獄社会

ミシェル・フーコーが書いた『監獄の誕生』という本をご存知であろうか?
近代において、監獄とは収容者を規格化し、社会に適応する者へと矯正する装置である。規格からはずれた者は、異常なものとして社会から排除、監禁、矯正されるため、人々はみな規律を守ろうとするわけである。それは何も刑務所だけでなく、学校、工場、病院など様々な施設が対象である。

今まではこのように、規格から外れた人(法律を侵した人、学問修得していない人、お金のない人、病気になった人etc.)はそれぞれの施設に追いやられ、矯正されてきた。

しかし、現代の状況を見てみると様変わりしているように感じる。

①今まであった規格が疑問視され区分けが取っ払われている状況になっている(LGBT問題、人種差別問題、障害者差別問題etc.)。これは差別をなくす上ではもちろん良いことである。

また、②規格から外れた人がSNSによって可視化されている現状になっている(犯罪自慢、不登校、不適切な発言)。

ところで、フーコーの「監獄」管理システムでは、監視する側とされる側で権力関係が存在することが前提となっている。

しかし、現代において、
①については、思想をアップデートしてる人としてない人の格差や、社会システムが思想に追いついていないこともあり、対立の激化が進んでいる。

②については、監視する側でない人が私的に処罰している(晒し行為、私人逮捕系YouTuber)。

このように、監視する側とされる側がもはやなくなり、混在するようになってきている。
人々がいつでも監視する側にもされる側にもなり得る社会には、秩序が存在しない。このような社会は「脱監獄社会」と言えるのではないだろうか。
文明は秩序があることによって発展してきた。自由主義が発展した結果として現在があるわけだが、秩序を保つための監獄管理システムを失った「脱監獄社会」において、新たな秩序システムの構築が急がれる。

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