鮮魚街道七里半[二巡目]#4
-利根川から江戸川まで-
江戸時代から明治初期、銚子で水揚げされた魚をなるべく早く江戸まで運ぶため、利根川と江戸川を陸路で繋いだ鮮魚街道(なまみち)をめぐる旅の二巡目。
二〇二一年 軽井沢→六実
二〇二一年五月一三日(木)一〇時一三分。
新鎌ヶ谷駅でバスを待っている。一〇時二一分発の鎌ヶ谷市コミュニティバスききょう号東線2に乗るためだ。目の前にはアクロスモールという、もはや死にかけているショッピングモールがでれんと横たわっている。
ぼーっと立ち尽くす私の横を鎌ヶ谷市民は忙しそうにかすめて通る。すると、後ろから優しそうなおばあちゃんが話しかけてきた。
「南線に乗りたいんですけど、どこかしらね」
おばあちゃんは何も知らずにここ鎌ヶ谷市で船橋市民の私にバスの路線を聞くのである。こんな小さなコミュニティバスを待つ私を地元のバスメンと勘違いしたのだろう。
いや、おばあちゃんの勘、
あながち間違ってはいなかった。
私は前日にこのバスのダイヤと路線図、バス停の配置図をジェイソンボーンの如く頭の中に叩き込んでいるからだ。さらにさっき暇なので、他の路線図とダイヤも見てきたばかりである。しかしおばあちゃんには残念なお知らせだ。南線は一〇時〇九分に出発したばかりで、次に来るのは十一時一三分である。
私は即座に「さっき行ったばかりなので次のバスは1時間後ですよ」と答えた。これでいよいよ完璧におばあちゃんは私を鎌ヶ谷市民と勘違いしただろう。そんなことよりも1時間後という事実がよほどショックだったのか、おばあちゃんは私にお礼も言わずにさっさとアクロスモールに消えて行ってしまった。あゝ丁寧に教えて損をした。そもそもこんな片田舎のコミュニティバスになんの下調べもせずにすーっと乗れると思うなよ。1時間に1本あるだけもありがたいと思え。
その後、すぐに私の待っている東2のバスが来た。私はシャア少佐が彼専用のモビルスースザクに乗り込むかのようにエレガントにコミュニティバスに乗り込んだ。もちろん客は私以外誰もいない。ワンマン貸し切りみたいなもんなので運転手と私のツーマンバスである。今回は粟野コミュニティセンターというバス停で降りて、徒歩で鮮魚街道(なまみち)の軽井沢辺りからフェードインする予定だ。
バスの窓からは生憎の曇り空が見える。いつ降ってもおかしくはない。天気予報も午後からは雨だという。
今回は行程を軽井沢から六実までと短めにした。
娘の帰りの幼稚園バスが一四時三四分に来るからである。このバスのお迎えに1分でも遅刻するとどうなるのかというと、なんとバスは冷酷にも娘を乗せたまま一周回って幼稚園に戻ってしまうというのだ。
以前、嫁が遅刻してしまい一周したバスを追って幼稚園に迎えに行くと、かわいそうにわんわんと泣き止まなかったらしい。
バス停に家族が来ず、周りの友達がみんな嬉しそうに家へと帰る中、ひとりぼっちで来た道を帰り、教室で家族が迎えに来るのをひたすらに待つ。
私の趣味の撮影のせいでそんな寂しい思いは絶対にさせられない。なので十二時過ぎには撮影を切り上げないとマズい。と言うわけで今回はショートレンジで街道を刻むのだ。
ざんざと降り始めた雨の中、バスは無情にも粟野コミュニティセンターバス停で私を吐き出した。終点ではあるのだがこのバスはぐるりと回りまた新鎌ヶ谷駅方面に戻るので終着感は無い。
バスを降りたはいいが、まさかいきなり傘を差しての撮影になるとは思わなかった。真夏の雨のムッと湿った空気のなか、一〇〇円ショップで購入した使い捨てのシャンプーハットをカメラに被せ、レンズだけ出して撮影に挑む。
私本来の信条として、雨の日の撮影は行わない。これは故渡部雄吉先生から教わった撮影ルールである。恐らくカメラがまだ高価だった頃の習慣だと思われる。しかし、そんなことも言ってられない。ここからはどうしたって撮影しながら歩かないと帰れないのだ。
思えば一巡目も同じ地域の佐津間で雨に降られ、この時はサブで持っていた雨に強いコンパクトカメラ、SONY RX一〇〇で撮影を続行したのだった。今回はすっかりサブ機を忘れて持ってきていない。だから、常時カメラバッグに入れっぱなしのシャンプーハットなのである。
粟野コミュニティセンターには空(から)のコンビニ袋を持ったジジババが並んでいた。なにかをタダでもらえるのだろうか。シャンプーハットを袋代わりにシラこいて並ぼうかという考えが一瞬頭をよぎったが何せ時間がない。諦めて鮮魚街道の続きの地点に戻ることにした。
航空基地の南端、軽井沢。それが前回の続きの地点だ。もちろんあの軽井沢ではない。軽井沢という地名は結構あるらしい。
この航空基地の外周をトレスして本来の鮮魚街道に戻る。実際の鮮魚街道は基地の中なのである。当然軍事施設なので立ち入り禁止区域だ。それを一巡目は北に迂回し、今回は南に迂回する。公式には北の迂回路が正しいが、それとて戦後にこしらえた後付けの街道設定に過ぎない。
とにかく本当の鮮魚街道はこの航空基地の滑走路を横断するのである。それが出来ないなら、なんだっていいじゃないのよ。ってことで航空基地沿いを南に歩いて本当の鮮魚街道が分断された地点まで歩くのだ。
益々激しくなってきた雨の中、右は基地のフェンス、左は町工場や畑が延々と続くというボーナスステージが現れた。
晴れていたなら自衛隊員のジョギングなどがみれるだろうが、さすがに雨だと何もない。町工場もシャッターを半分降ろしているので作業音だけ聴こえる程度。
スマートフォンの地図を見て唖然としたのだが、北から南に縦に伸びる滑走路の端からぴったり真ん中辺りまで、この退屈な直線の景色は延々と続くだろう。
一巡目の時は鮮魚街道の分断地点を間違えたので、今度はちゃんとルートを辿ろうと思う。この直線が左に逸れたらそれが鮮魚街道の分断地点の合図だ。
雨は気まぐれに降ったり止んだりを繰り返し、壊れたピアノのように路上のキーをでたらめに叩く。私はその度にカメラバッグから傘を取り出したりしまったりした。
やがて左に曲がるカーブが見えてきた。もうすぐ基地外周やから離れるというタイミングで景色が変わり始める。
遠くにC-1輸送機が見えてきたのだ。この自衛隊輸送機には馴染みがある。まだ小学生だった時、校舎の窓からこの飛行機がぎりぎりの低空飛行で飛ぶ姿だった。輸送機は習志野自衛隊駐屯地上空で、まるで金魚のフンのようにお尻からぽとぽとと落下傘を落として去ってゆく。それを次から次へと間髪入れずに何度も繰り返すのだ。
夏は航路が家の真上に来るので、夏休みの昼間っからテレビなんか観てるとキーーーンという飛行音と電波の乱れで暫し放送が中断するほどである。
今では演習の回数もずいぶんと減ってしまったようだ。そんな習志野自衛隊の落下傘の飛行機がここから飛び出すのを知ったのは最近である。
この鳥達がどこから来てどこに行くのかとか全然興味がなかったから。
なだらかな南佐津間の坂を下りながら、街道は東武アーバンパークライン六実駅に向かって伸びて行く。
雨もいつのまにか止んでいた。
途中にぽつんとあった焼肉屋はコロナウイルスの影響なのか閉店していた。特別行きたいと思ってもいなかった店だが、潰れてしまうのなら行ってみてもよかった。
駅前にはラーメン屋があった。一瞬入ってみようかと思ったが、店の入口にあるメニューを見てやめた。
三代かけて作り上げた味噌たれ
味噌ラーメン 八〇〇円
チャーシューの煮汁を使用した
醤油ラーメン 七五〇円
塩本来の旨味を引き出した
塩ラーメン 七五〇円
正直、気分は醤油ラーメンだったのだが、この店は味噌が推しだったのだ。
船取線を越えて六実駅に近づくと、商店が並び始め車の交通量も増えて、鮮魚街道は一気に賑やかになる。田舎道はこの辺でお終いで、あとは松戸のゴールまで町歩きが続く。
次は六実駅から五香駅まで。
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