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未来への手紙 : 大切な人へ伝えたい

一話 青天の霹靂

 昭和時代の町並みは、戦後の混乱の傷跡を抱えながらも、静かな活気に満ちていました。瓦屋根の家々や石畳の道、木造建築やカラフルなパターンで特徴づけられたレトロなデザインの建物が多様に共存していました。古い瓦屋根の家々が連なる路地裏や石畳の小道では、子供たちの楽しげな笑い声が響き渡り、日常生活に温かさを添えていました。そのすべてが心の中で色褪せることなく輝いています。昭和時代の町並みは、時代の息吹を感じさせる貴重な遺産であり、その風情は歴史の尊さを思い起こさせます。

そんな町並みが失われてしまったのは、戦後の急速な経済成長や都市化に伴う近代化の進展です。戦後の復興期には、都市部の再建やインフラ整備が急務とされ、伝統的な町並みや建物が取り壊されて近代的な建築物や施設が建設されることが多かったため、昭和時代の風景が次第に失われていきました。高度経済成長期には、都市部の人口が急速に増加し、住宅や商業施設の需要が高まったことも昭和時代の町並みが失われる理由の一つです。この時期には、大規模な土地開発や再開発が進み、昭和時代の建物や景観が取って代わられることが多くなりました。都市機能や交通インフラの整備が進み、都市部の再開発や近代化が推進されたことも昭和時代の町並みが失われた背景となっています。

 昭和26年生まれの私は、父から目配り気配りを口うるさく言われて育ちました。「たばこを持ってこい」と言われれば、灰皿とマッチも一緒に持っていくことを忘れませんでした。タバコと言われたからといって、タバコだけを持っていったらげんこつが飛んできます。1つ言われたら3つや4つを考えて行動しなければなりませんでした。

 こんなこともありました。部下3人と車で昼食を食べに行ったときのことです。驚くことに、後部座席に我先にと座ったのが新入社員でした。とんかつ屋に入り、一人の部下が水を取りに行きましたが、4人分の水ではなく、自分だけの水を持ってきて飲んでいるのです。食事が終わり、会計しましたが、ごちそうになるのが当然だという態度で、「おいしかったですね」とだけ言って、「ごちそうさまでした」という言葉もないまま後部座席に座りました。運転しているのは彼の先輩です。世間知らずというか、これでは彼が将来先輩になって指導する立場になったときのことを考えて注意しましたが、彼にはその意味がわからないようでした。

これが昭和時代と平成時代の違いの一つでもあるのだろうかと思ったこともありましたが、このような個々の経験や態度は、昭和の時代生まれにも、平成時代生にも当てはまるわけではなく、個々の人格や背景によって異なるものでしょうから一般化することはできません。それぞれの人にはそれぞれの背景や価値観があるのですから。

 山宮純次郎と申します。20歳を過ぎ、嗜好がコーラからビールへと変わりましたが、タバコは吸いません。恋人はおらず、これまで女性とのお付き合いもありません。趣味はフォークソングを聴くことと、旅のパンフレットを眺めることです。そんな私が、コネも特別なスキルもないままこの大企業に入社できたことは、友人知人の間では七不思議となっています。

 応募の動機は、この会社の洗練されたロゴに惹かれたからに他なりません。応募条件に大学卒業が必須とあるのを見落としていた私は、なぜか書類選考を突破し、面接へと進みました。学科試験での成績は最下位に近かったものの、作文で「地域の伝統文化を現代にどう生かすか」というテーマに対して、自宅の庭にある梅の木と、それを使った家族や地域の習慣について綴ったエッセイが高評価を受けました。

 面接でのやり取りは、私の予想外の反応から始まりました。「あなたは何が、できますか?」との質問に対して、「あなたは何で、きましたか」と勘違いをして「はい、電車で来ました」と答え、面接官の笑いを誘いました。このやり取りが、私の人柄を伝えるきっかけとなり、応募者50人の中から1名の採用へと繋がったのです。

 出身は宮城県の小さな農村で、自然と共に育ちました。自宅の庭には梅の木があり、季節になるとたくさん取れます。母が枝をガサガサと揺すると、ポトポトと落ちてきます。それを拾うのが、5軒隣のおかっぱ頭の奈々美と私の役目でした。奈々美は、丸顔で活発な子供時代を象徴するような傷だらけの足を持つ、私の3歳下のお転婆な少女です。

「私ね、大きくなったら純次郎ちゃんのお嫁さんになるんだ」と奈々美が言うと、「そうかい、楽しみにしているよ。その時が来たら、梅干しの作り方を教えるよ」と母は笑って答えていました。山宮家の梅干しは、先祖代々の秘伝であり、村内でも一番と評判でした。

 純次郎は毎年、盆暮れ正月には故郷に帰ってきます。今年のお盆も例外ではありませんでした。縁側でスイカを食べていると、奈々美が現れました。彼女の髪型は、子供時代のおかっぱからお下げに変わり、少女から女性へと変貌を遂げていました。

「久しぶりね、純次郎。すっかり男前になって」という言葉には、遠く離れた都会で生活する純次郎に対する、ほのかな憧れと好意が込められていました。奈々美は純次郎を昔遊んだ河原へと誘いました。彼の兄が二人を後押しするかのように、「行って来い」と声をかけます。周りの人々は、純次郎と奈々美がいずれ一緒になることを自然な成り行きとして受け入れていました。

 河原に着いた2人は、時が経つのを忘れ、夕暮れ時になるまで話し込んでいました。奈々美は、純次郎が都会での生活に馴染んでいるか、そして彼が幸せかどうかを心から気にかけていました。一方、純次郎は、奈々美の成長した姿に新たな魅力を感じ始めていました。彼女の言葉一つ一つに、かつて感じたことのない心地良さを覚えていました。

 奈々美との再会もないまま一年が過ぎていきました。春が訪れ、純次郎は新入社員の純連すみれという女性に恋をします。最初は仕事の手順を教えるだけでしたが、徐々に彼女に心を奪われていきました。純連の手からは、ほのかな緊張感と同時に心地よい安堵が漂い、彼女の笑顔は明るく、純次郎の目には彼女への熱い愛情が宿っていました。風が彼女の髪をなびかせ、彼の頬に触れる瞬間、その温かさに触れ、心が震えるのを感じていました。二人の初々しい恋の空気は、周囲の景色をさらに美しく輝かせていました。

「山宮さん、三番に電話です」という合図を受け、純次郎は喜び勇んでアパートに帰ります。「アパートに私、先に行っているからね」との合図なのです。社内恋愛は禁じられていましたので、お付き合いをしていることは二人だけの秘密となっていました。ワクワクドキドキしながら扉を開けると、純連は笑顔で迎えてくれます。そして二人はきつく抱き合い、接吻を交わすのでした。お風呂から上がると、愛の料理がテーブルに並べられています。純連は料理が得意で、美味しいものばかり作ってくれる、とっても家庭的な女性なのです。

「純連、明日休みだから、泊まっていかない?」と純次郎が言うと、躊躇しながらも、「純次郎さん、駄目よ。結婚もしていないのに」と答えますが、「純連と過ごしていたい」と頼むと「そこまでいうのだったら」笑顔で渋々答えます。

 幸せな日々が過ぎていきました。そんな時です。父の与三郎から電話がありました。「純次郎か、父ちゃんだ。大事な話がある。今からちょっと家に戻ってこい」との重い言葉が伝わってきました。純次郎は、すぐに車を飛ばし、実家へと向かいました。

 夜の十時、純次郎は実家に到着しました。仙台の夜はこれから始まりますが、この農村には街灯もなく、車も通らない。星明りだけが静寂を照らしていました。家に入ると、囲炉裏を中心に家族が座っており、その中に奈々美もいました。

「純次郎、お前はとんでもないことやらかしたもんだ。この赤ちゃんはお前の子だ。奈々美さんとお前の間にできた子供だ。この赤ちゃんに父親のいない不便なことはできないぞ。お前は父親としての責任があるんだ。けじめをつけろ。明日役場に行って籍を入れてこい。結婚式は身内だけでやるから」と父から告げられました。

純次郎の頭は真っ白です。想像もしていなかった出来事が起こり、心の中は混乱の渦に巻き込まれていました。彼は、あの夏の日の過ちを思い出し、後悔と罪悪感に苛まれました。しかし、もう遅いのです。現実は変わりません。どうすることもできないのです。

彼の行動は、計画性や責任感の欠如を露呈させ、周囲にも大きな影響を与えました。そのことを純連に伝えると、何も言わずに突然依願退職し、会社からも純次郎からも去っていきました。何もかもが青天の霹靂の如く、突然の出来事でした。

 三年が経ち、奈々美との日々が積み重なりました。娘の麻美子は、生まれてきてくれた幸せな存在です。その愛らしさは、目に入れても痛くないほどです。これからも、父親としての責任を感じ、家族のために生きていかねばなりません。そう決めています。それなのに悲しいことに、純連のことを思い出してしまいます。なんて情けない男なんでしょう。純連を忘れたいが、忘れられないのです。そんな気持ちを吹き飛ばしたくて、仕事に没頭していると、皮肉なものです。営業成績は上昇の一途をたどっています。

仕事で疲れ果てて帰宅したのは八時前でした。奈々美の髪は乱れ、枕元には娘の麻美子のお気に入りのぬいぐるみが置かれ、部屋の隅には小さな絵本が積まれています。奈々美はいびきをかきながら麻美子と一緒に寝ています。そんな姿を目の当たりにすると、自分の未来が見えてきて情けなくなってしまうのです。

奈々美が悪いわけではありません。私が正しいわけでもありません。ただこれから、夫として、父親として、家族と一緒にどう生きていけばいいのか、何を共通の課題にすべきか、そして創造力と喜びをどのように分かち合うか、それがわからなくなっていました。

 窓辺に差し込む柔らかな光が、春の訪れを告げていました。会議室の雰囲気は穏やかで、書類の山が机の上に積まれています。時計の針がゆっくりと進み、静寂が広がっています。

「山宮君、おめでとう。栄転だよ。東京本社営業三課の係長に昇進です」と仙台支店長からの内示を受けた純次郎は、驚きと喜びで胸が高鳴りました。地方採用の者が東京本社に転勤することは前例がなく、このまま地方で定年を迎えるのだろうと思っていました。その本社で係長としての新たな挑戦が待っていることを知り、心は躍り、窓の外に広がる景色は、まるで未来への扉を開くように見えました。

喜び勇んで家に帰り、その喜びを奈々美に伝えると、「良かったわね、すごいわね。私も係長の奥さんなのね」と喜んでくれましたが、予想外の反応が返ってきました。
「幼稚園やご近所付き合いもあるから、私は行かない。やっと手に入れたこの家から離れるなんて嫌よ。お父さんもお母さんも私のために近所に引っ越してきたんだから。行くんだったら、あなた一人で行って」

純次郎は言葉を失った。奈々美の反応に驚きと戸惑いが入り混じる。彼女の言葉は冷たくはあったがそれは現実的なことでした。新しい職場での挑戦に胸を膨らませていた純次郎は、家庭の現実と対峙することになったのです。

リビングの柔らかな照明が二人を包むなかで、娘の麻美子が寝静まった後、奈々美と改めて話し合った。

「奈々美、わかってるよ。君の気持ちも大事だ。でも、これは僕にとって大きなチャンスなんだ。君も一緒に来てほしい」
「純次郎さん、私だってあなたの昇進は嬉しい。でも、麻美子の幼稚園のこともあるし、私の両親も近くにいる。家族全体のことを考えなきゃならないのよ」
「少し時間をくれないか。僕も考えてみるよ。どうすればいいか」

二人はこれからの生活について深く考えた。未来への扉が開かれた一方で、少し離れることで奈々美との絆が深まるかもしれない。新たな経験を通じて成長していけるかもしれない。そんな期待感も膨れ上がり、純次郎は単身赴任を決めたのである。

 二年の月日が流れ、単身生活にも慣れ始めたある日、奈々美から突然会社に電話が入った。その切羽詰まった声から、麻美子に何かがあったのではないかという心配が頭をよぎった。仙台に戻ると、奈々美ではなく、彼女の母親が迎えてくれた。

「お義母さん、ご無沙汰しています。お元気そうで何よりです。変わりはありませんか?」と挨拶すると、テーブルには一人分の夕食が用意されていた。
「奈々美は外出しているのですか?仕方ないですね。本当にすみません。お義母さんにご迷惑をおかけして」
「純次郎さん、奈々美のことなのですが…」
「どうしました?奈々美に何かあったのですか?」
「奈々美も麻美子も、もうここには戻ってきません」と言いながら、茶色の封筒からグリーンの枠組みの離婚届の用紙を取り出した。奈々美はすでに署名しており、純次郎の部分だけが空白だった。
「純次郎さん、この離婚届に署名してください。」
「お義母さん、意味がわかりません。どうしたのですか?」
「奈々美は男の子を出産しました」
「男の子?そんな大ごとなこと、奈々美はどうして私に教えてくれなかったのでしょうか?」
「日本人同士では絶対に生まれない肌の色でした。誰から見ても純次郎さんの子供ではないことは明らかでした。」と義母は言った。そして何も話さず、沈黙が続いた。
「純次郎さん、実はですね」とやっと口を開いた。
「奈々美ですが、今はその男性と一緒に暮らしています」
純次郎は言葉を失った。驚きと呆れ、そして情けなさがこみ上げた。
「奈々美に何を言ってもダメなのです。これに署名してもらってきてと、一歩も譲らないのです。これは全部、私の育て方に問題があったのです。悪いのはすべて私です」

純次郎は、それ以上何も尋ねず、書棚の引き出しから印鑑を取り出し、離婚届に署名・押印した。その離婚届を手にした途端、義母は何も言わず、振り向くこともなく、テーブルの上に鍵を置いて嵐のように部屋を出ていった。

純次郎は、離婚届に署名することに対して驚きや呆れ、そして情けなさを感じていた。奈々美が別の男性との間に子供をもうけた事実や、その子供が自分のものでないことを理解したことで、深い葛藤や悲しみを抱えていた。義母からの必死の訴えや、奈々美がその男性と一緒に暮らしているという現実の複雑さによって、離婚届に署名することが避けられない選択となったのである。

落ち着いて部屋を見渡すと、寝室にも押入れにも、奈々美の荷物は何もなかった。これが縁切りの象徴なのだろうか。縁が切れた。ただそれだけのことだ。青天の霹靂ってこんなことをいうのだろうか、そう思った。

 家族のあり方や生活の形は一様ではありません。規範や常識にとらわれず、自分たちらしい幸せを築いていくべきです。結婚も離婚も、お互いが幸せであればそれで十分であり、離婚するのが嫌だからと言って苦しさを我慢しいがみ合う日々を送るのは、本末転倒です。奈々美と麻美子がそれで幸せであれば、それで良いのです。これからは奈々美と麻美子の人生です。離婚を引き伸ばしたところで、心が離れた家族には興味はありません。家族という体裁などくそくらえです。
この家に住む理由などありません。住んでいれば不快な感情が湧き出てしまいます。もうこの街には戻っては来ません。すっきりと過去を忘れ未来志向で生きることにします。

二話 春の軌跡振り返る桜の下で
  
 春の風景が広がる車窓からは、雪が溶け始めた地面と新緑が目に映る。その美しい風景は、発車のベルが鳴り響くことすら忘れさせるほど心を打つ。それは、日常から一歩離れ、自身をリセットするための旅の始まりを告げている。映画「男はつらいよ・車寅次郎」のように、純次郎は長い休暇を利用して一人旅に出ている。

彼の旅は、特定の目的地を決めず、ただ列車に乗り、何もない駅で長時間待つこと、風景を眺めること、駅のベンチで昼寝をすること、地元の人々と同じように立ち食うどんを楽しむことで、時間や予定に縛られず、風に身を任せて旅をする。その自由な時間が心地よい癒しとなっている。列車が静かに動き始めると、朝の光に照らされた静かな田園風景が窓の外に広がる。鈍行列車の揺れるリズムは心地よい。車内の乗客に目を向けてみると、それぞれが自分自身の世界に閉じこもっていて、会話はない。

本を手に取り、読書にふけることもある。窓の外をただ見つめることもある。その顔には静かな微笑みが浮かび、その瞳には旅の喜びと冒険の期待が宿っている。そんな彼の心は自由そのものである。

時々、停車駅のアナウンスが聞こえてくるが、駅名は気にならない。気に入った駅であれば下車し、そこで新たな体験を楽しむからである。しかし、そんな目的のない旅は長くは続かなかった。根っからの仕事人間として、彼の心は休息を許さないのだ。どうしても考えてしまうのである。列車の窓から見える風景が変わる度に、心は遠くの景色とは別の現実に引き戻される。あの案件はどうなっているのか、きちんと部下たちは対応しているのだろうか、売上は目標達成したのだろうか。外見は『男はつらいよ・車寅次郎』のようになっているが、頭の中は仕事モードのままとなっている。悲しいサラリーマンの性である。

潜在意識なのか、未練なのか、旅の風に任せて純連が生まれ育った街に来ている。あの時の彼女の溢れんばかりの涙は、どれだけ時間が経っても、心から消え去ることはなかった。彼女はどこにいて、何をしているのだろうか、幸せに暮らしているのだろうか。

 純連は幼少期に父親を失い、母子家庭で育った。自分が味わった父親のいない孤独さを愛する純次郎の子供に味合わせたくはなかった。辛くて寂しい別れであっても、純次郎の前から姿を消した。それに、そのまま純次郎の近くにいては、理性を失い、嫉妬に囚われた女性になってしまうことを恐れたのだった。いつまでも純粋で愛らしい自分でありたかった。だからこそ、彼女はすべてを捨て、生まれ育った故郷に戻り、叔母の勧めで見合いをした。純次郎を忘れることができれば、相手は誰でも構わなかった。そんな打算的な結婚である。

 純連が嫁いだ先には、明治時代の風情を色濃く残す姑が待ち受けていました。姑の視線は常に厳しく、一度その視線に捉えられると、冷たい氷のように身に染み入りました。純連は家政婦のように扱われ、時には冷酷な支配を体感する日々を送りました。最初の半年間は、私に対して「可愛らしいねえ」や「同居してくれてありがとう」という言葉で気遣ってくれ、寝坊をした時でも「疲れているんだからゆっくり寝なさい」と許してくれました。しかし、そのような寛大さは最初だけで、その後の姑の振る舞いは徐々にその本性を現していきました。

姑は冷酷な支配者のように振る舞い始め、「私が死ぬまで、この家を支配するのよ」「ここをもっと掃除しなさい」「こんな料理、しょっぱくて食べられないわ。私を殺す気なの?」これで洗濯したの?ここの汚れ取れてないけど。洗い直しして」と、その言葉は常に厳しいものでした。

純連も誠心誠意、尽力して生活を送ろうと心掛けましたが、家庭の風味や生活習慣、味覚、金銭感覚など、非常に多くの「違い」が存在していました。初めは些細な違和感でしかありませんでしたが、時間が経過するにつれ、その違和感は溝となり、反感や不満が募り、憎しみや恨みにつながっていきました。

そんな状況下で、純連は子供を授かりました。子供の誕生は新たな絆が生まれるかもしれないという期待を胸に秘めていましたが、現実は程遠いものでした。

 それは三人目の子供を授かった時です。「うちの家系では子どもは二人までよ」と冷たく言われ、その言葉は精神的にも肉体的にも痛みをもたらし、その精神的ダメージで、切迫流産で緊急入院。そんな危機に直面した時でさえも、「無駄な金を使って」と容赦のない言葉が続きましたが、純連は希望を捨てずに生き続けました。生きることが彼女の人生そのものであり、母親への恩返しでもあったからです。

 純連が聡明な女性に育つことができたのは、幼少期から母の背中を見てきたからです。母はどんなことがあっても、弱音を吐くことはなく、人を恨むこともなく、明るくほほ笑み周囲を楽しくさせる太陽のような存在でした。母が描く希望と夢は、自分だけが楽しく何不自由のない生活を送ることではなく、ともに良くなっていくように努力することで、他者に安心をもたらす仏の慈悲の働き、「抜苦与楽」のそんな姿でした。

 以心伝心なのでしょうか。どんな意地悪なことをされても笑顔で触れ合っていると、お義母さんが変わっていきました。優しくなったのです。人というものは増悪の心もありますが、仏のような暖かく包み込む心もあるのだと感じました。自分が変われば相手も変わってくれる。そう実感しました。そのようなお義母さんも5年前に旅立ちました。その7年後、二人の子供が結婚し、孫の顔を見ると安心しきった顔で、夫も旅立ちました。もともと病弱な夫でした。医者からは「よくここまで長生きできました」と言ってくれました。

 今年も桜が咲く季節がやってきます。桜が満開に咲き誇り、そしてなごり雪のように桜が散っていきます。そんななごり雪のような桜吹雪を見上げると、思い出します。あの若き日のことを。そして胸がキュッと痛くなります。私が愛した山宮純次郎さん、今はどこで何をしているのでしょうか。まだあの会社で頑張っているのでしょうか。それとも定年退職して、奥様と幸せに暮らしているのでしょうか。

 煌々と降り注ぐ陽光が美しい半島を包み込み、微かに香る潮風が心地よく、空気は清々しく暖かさが広がり、青空にはゆらゆらと浮かぶココナツの実が目を楽しませます。ホワイトクリスマスイブとは対照的に、短パンとTシャツで心地よく過ごせます。この街が、純連の生まれ育った街です。

出世コースという決まった道を捨て、純次郎は会社を退職しました。彼はレストラン「純連」を開業することで、いつか純連が訪れてくれるという夢を抱いてオープンしました。自らの幸せな場所を見つけ、新しい道を歩むことの困難さを知りながらも、その道を踏みしめました。

店内からはジャズやボサノバ、クラシックなど心を落ち着かせるメロディーが流れ、穏やかで癒やしのある雰囲気が漂っています。外観は淡いベージュと白を基調とした小さな木造の建物で、緑豊かな庭には色とりどりの花々が咲き誇り、訪れる人々を優しく迎えます。

レストランの入り口に足を踏み入れると、心地よい木の香りが漂い、アロマキャンドルからは微かな香りが漂います。落ち着いた照明が、優雅なダイニングエリアに暖かな輝きをもたらします。窓辺の席からは、青々とした海と真っ白な砂浜が一望でき、夕暮れ時には夕日が美しく沈む光景を眺めることができます。

レストラン「純連」は、料理の美味しさに加えて、その落ち着いた雰囲気と息をのむような景色を提供しています。訪れる人々は、心と体が癒やされ、日々の喧騒から離れて至福の時を過ごすことができるでしょう。

メニューには、地元の漁師が毎朝獲りに出かけた新鮮な海の幸がふんだんに並び、シェフの繊細な技術でアジアンフレーバーとヨーロピアンのエッセンスが織り交ぜられたフュージョン料理が楽しめます。アツアツのパスタや熱々のスープが運ばれてくる際にも、料理の香りがテーブルを包み込みます。一皿一皿の料理には、シェフの心意気が込められています。食材はできる限り地元の漁師や農家から仕入れ、シェフの独創的なアイデアと融合させ、新しい料理を生み出しています。

この街に永住してから、純次郎の考え方が変わりました。仕事や人生を『ほどほど』にすることの大切さを実感しています。目指すべき高みはあるものの、そこに到達したとしても欲望は決して満たされることはありません。出世や名誉、物質的な欲求を追い求めることに命を削るほどの価値があるのか、疑問を持ちました。バランスの取れた生き方が、純次郎には合っているようです。

 ある日、「シェフを募集していませんか?」と突然現れたのは、インドネシア生まれの日本育ち、鈴木恭介でした。彼は顧客として毎回レストランを訪れており、純次郎の人柄や情熱、創造力に感銘を受け、ここで働きたくなったようです。恭介は斬新なアイデアを持ち、次々と新しいメニューを開発し始めました。

その中で特筆すべきは、「ルート66」と名付けられたロールです。これは、巻物をロールと表現し、海苔はインサイドアウトに巻かれています。中には天ぷらエビ、アボカド、カニカマが入り、オン・トップにはウナギが乗っています。このロールは他の寿司店にはなく、レストラン「純連」でしか味わえない特別な一品となりました。

さらに、「ハート・オブ・ジャパン」と名付けられたロールは、白身魚とカニカマ、マヨネーズのマリネを巻物の中に入れ、オン・トップにマグロをのせ、ハートの形に仕上げました。このロールは一口食べると口の中で広がる爽快な風味と独特の食感が楽しめ、その名前通り、ダイナマイト的な味わいを醸し出しています。

次々と新たな料理メニューやサービスの改善を通じて、レストラン「純連」は繁盛していきましたが、それに伴い競争が激化し始めました。大手のレストランが3軒隣に新規オープンしたのです。これは地域の飲食業界全体に大きな衝撃を与え、レストラン「純連」にとっても厳しい競争相手となりました。

 ビジネスは戦いです。その戦いに負けそうになりました。顧客が激減し、以前の半分しか売上がなく、経営を維持することも困難となりました。純次郎は「万事休す。やるべきことはやった。もう悔いはない」と諦めかけましたが、恭介は違っていました。「純次郎さん、諦めるのはまだ早いです。原点に帰りましょう」と励ましてくれました。「そうだな。ここで負けてたまるか、だね。ところで恭介、大手にできなくて、私たちのできることは何だろうか」と2人で朝方まで知恵を絞りました。

それは機動力の問題でした。レストラン「純連」には大手にはない動きやすさと速さがあり、これを利用すれば負けるはずがありません。それを起点に接客の充実、味とボリューム、それらに重点を置き、付加価値をつけたのです。特に、お客様一人一人に対する丁寧な接客は私たちの強みであり、それを生かしていったのです。

3日が過ぎ、3週間が過ぎ、そして3ヶ月、そんな地道な戦いを続けることで、ビジネスが少しずつ好転していきました。決して一夜にして成果が出たわけではありませんが、日々の積み重ねが大きな成果となりました。それもこの激動に逃げずに挑んだからこそ得られたことでした。

恭介と共に過ごした日々から得られた最も価値あるものは、共有の価値観を築き上げたことでした。共に困難な時期を乗り越える中で、私たちは強い絆を形成し、それが私たちのビジネスの礎となりました。また、それが私たちに新たな挑戦に立ち向かう勇気を与えてくれました。

とはいっても、いつまた激動が訪れるかわかりません。それがビジネスだということを痛感しています。戦いは一生続くのでしょうから、これからも前を向いて進み続けるつもりです。

 それにしても、思い出すのは純連のことです。あのままの別れはつらすぎました。もう一度一緒に過ごせたらと思っています。いつかこのレストランの名前を知り、訪れてくれるのではないか。そんな願いを込めて、レストラン「純連」を盛り上げています。

三話 虹のかかる駅:純連との再会

 穏やかな春の日、レストラン「純連」には明るい笑顔が溢れていた。店内には自然光が心地よく差し込み、ウッディな調度品と季節の花々が飾られ、香ばしい料理の匂いが広がり、食欲をそそっていた。客席からは爽やかな笑い声や楽しい会話が絶え間なく聞こえていた。

「今日も素晴らしい一日だな」と純次郎は心の中でつぶやいた。周囲の温かな雰囲気が、彼の内面にも微笑みを浮かべさせているのだろう。

今日は予約してくれた純次郎の同期が夫婦で来てくれる日。彼とは退職してから何年も会っていない。

「すごいね、さすが山宮本部長だ。」
「もう本部長でも何でもないよ。今はただのこのレストランのオーナーさ。」
「しかし、思い切ったものだ。出世コース一直線だったのに、そのまま役員になると誰もが思っていた。それなのに突然退職だもの。退職といえば、突然退職した純連さんのこと覚えている?このレストランと同じ名前の純連さんだけど。」
「純連?」そう言って、動揺を隠して話を濁した。
「純連さんの退職理由を聞いたことはなかったですか?」
「聞いたことないよ。」
「そういえば、彼女は結婚して、子供もいると。幸せに暮らしているようです。そんなことを街の端にあるカフェのマスターが言っていましたよ。」
「カフェのマスター?そうですか。幸せなことはいいことです。」

純連のことを忘れたことは一度もなかった。彼女の存在は常に心の片隅にあった。この街で暮らし始めたのも純連の生まれ育った街だからである。彼女に会いたいという強烈な願望があったからレストラン「純連」と名付けたのである。

 純次郎は街の端に位置する小さなカフェに行ってみた。扉を開けると、コーヒーの芳香と軽快な音楽が満ちていて、訪れる者を優しく迎えてくれた。彼は一角の席に座り、手を古い木の机に置き、カウンター席にいるマスターに声をかけ、純連の写真を見せた。

「この女性をご存知ありませんか?名前は純連さんといいます。結婚して姓は変わっていると思います。」
マスターは写真をじっと見つめ、微かな笑みを浮かべながら、静かに語り始めた。
「若いころの純連さんの写真を見せてもらっても…時間は経ちすぎていて、その頃の面影を思い出すのは難しいのですよ」と言いながら深いため息をついて続けた。
「これは縁の問題なのです。会えるかどうかは運命や偶然が絡む場合が多いものです。」マスターはゆっくりと思慮深い表情を浮かべながら、「そのまま、心の奥にしまっておいた方がいいのではないですか?思い出は美しい方がいいのですよ。時として、過去の思い出を鮮やかに保持することよりも、静かに心の中にしまっておくことで、その美しさや尊さが増していくこともありますからね。」彼の言葉には、過去の深い感情や記憶に対する敬意が感じられた。「思い出は、時折私たちを過去に引き戻す力を持っています。しかし、それは必ずしも過去に囚われることではなく、未来に向かって前進するための一部として捉えるべきものでもあるものですからね。」マスターは微笑みを浮かべながらそう言った。

 彼の言葉には、過去の思い出を大切にしながらも、現在と未来への希望と向上心がにじんでいた。そうかも知れない。これは縁なのだろう。会いたいからといってこの縁を無理にこじ開けても会えるわけではない。縁があればいつか、どこかで会える日が来るのだろう。そう思いながら純次郎はカフェを後にした。

 純次郎は鈍行電車の旅に出ようと駅に向かっています。駅構内の売店でビールと弁当を買い、電車に乗ろうとした時、遠くから彼を呼ぶような気配を感じました。振り返ってみましたが、誰もいませんでした。乗り過ごした電車はゆっくりと出発し、トンネルに消えていきました。慌てることはありません。急ぐ旅ではありません。次の電車に乗ればそれで十分です。

「すみません、次の電車は何時ですか?上りでも下りでもどちらでもいいのですが」
「お客様、上りも下りも3時間待ちです」と駅員が教えてくれました。

時間はたっぷりあります。さっき買った缶ビールを待合室で飲んでいました。一体どれだけのビールを飲んだのでしょうか、気持ちの良いうたた寝です。うたた寝ほど気持ちのいいものはありません。

「純次郎さん、私ですよ」と、遠くから声が聞こえました。それは、彼がかつて心から愛した、純連のような声でした。そんな偶然があるわけがない。もしかしてベンチに座ったまま、あの世に行ってしまったのだろうか、と夢心地のなかで純次郎は思いました。

「純次郎さん、純次郎さん」と、また聞こえます。今度は肩を揺らされました。ゆっくりと薄目で左目を開けました。うそだろ、純連が目の前に立っています。このような出会いは、テレビドラマのようです。

どれだけ長い時間、純連に会いたかったことだろうか、どれだけ探し求めたことだろうか。こんなこと現実に起きるはずがない。もしこれが現実であれば、純連との出会いは運命なのだ。とそう思いましたが、これは夢なのです。ぬかよろこびなどしたくない。そう思って再び目を閉じて眠りにつきました。

「純次郎さんでしょ。額の右に大きなホクロがあったからすぐわかったわよ」とまた聞こえてくる。両目を開けると、正真正銘の純連だった。

頭の回転がおかしくなっている。これが現実なのであれば、これはもう奇跡だ。もうこれが夢だろうが、現実だろうが、もうどうでもいい。数十年ぶりの思いを込めて、思い切り抱きしめ、深い接吻をしました。誰が見ていようとこれは夢の中なのだからと…。

夢でもし逢えたら素敵なことね。あなたと巡り逢うまで眠り続けたい。あなたは私から遠く離れているけど、逢いたくなったら瞼を閉じるの。吉田美奈子の「夢で逢えたら」の曲がどこからともなく流れてきました。

 再会は奇跡でした。それも運命の再会でした。そんな運命に導かれて2年が経っています。入籍はしていませんが、私たちは夫婦となりました。それも人々が羨むほどのお似合い夫婦です。

駅のベンチで酔っ払って寝ている人が純次郎さんだとは思いませんでした。決め手はあの首筋のほくろです。そのほくろは私のお気に入りでした。膝枕をしてあげていた時、何度も撫でていました。忘れるはずがありません。私は感じています。赤い糸は存在しているのだと。

 私にも純次郎さんと別れてからの過去があります。純次郎さんにも過去があると思います。過去は過去です。たとえどんなに多くの女性とお付き合いをしていたとしても、全く気になりません。

私が大切にしているのは今と将来です。過去は変えられませんが、今を変えれば良くも悪くも未来は変わります。純次郎さんとの再会は今を変え、そして未来を良き未来に変えることです。残された人生は確かに短いです。だからこそ短ければ短いほど未来が大切だと思っています。

 二人で感じてきた過去、そして二人で感じる現在と未来。その今と未来を楽しく愉快な人生を過ごしていきたいと思っています。

四話 凍てつく冬から若葉の春へ

 日常生活の中には、見過ごされがちな美しさや喜びが溢れています。単純な生活のパターンや日々のルーチン、それぞれの行動は、私たちの生活に意味と価値を与えています。

午前3時、まだ夜の静寂が残る中、純次郎は目を覚まします。外はまだ喧騒から隔離された平和な空間となっています。彼は一人、静かに過ごしながら、夜が明けるのを待っています。

朝6時、心地よい光が部屋を満たし始めます。その温かな光は、新しい一日の到来を告げます。純連もまた、この光に呼ばれてゆっくりと目を覚まします。窓から外を眺め、今日も素晴らしい一日になることを感じています。

純連は、6時半から公園で始まるラジオ体操を終えて、朝食の準備に取り掛かります。米を研ぐ音、みそ汁の具を切る音、それらがキッチンに響き渡り、新しい一日の始まりを象徴します。キッチンから広がる熱々のご飯と香ばしい焼き海苔の香りが、朝の空気を満たします。

テーブルの上には、ご飯とみそ汁や漬物が並び、二人は笑顔で食卓に座ります。朝の光が二人の笑顔を照らし、温かな雰囲気が部屋全体に広がります。「いただきます」と口々に言い、新しい一日の始まりを祝います。そんな二人の朝食の光景が心に残ります。

この普通の日常の中にある美しさと喜びは、私たちが日々の生活で見逃しがちな価値を思い起こさせます。朝の風景は、ありふれた幸せと平和が息づく日常を象徴し、その様子は心温まる風景を描いています。

日々の生活には、見落とされがちな深い喜びと美しさがあり、私たち自身の日常の中にも、発見の価値がある喜びと美しさが存在しています。純次郎と純連の朝の風景は、日常の中に存在する幸せと平和を象徴するそんな幸せな朝が彩っている様子が、ほのぼのとしています。

「純連の生活って本当に素晴らしいよね。毎日が幸せに満ちていて。なんの苦労もしていないから、羨ましいわ」と友人たちが言うたび、「あなたが支えてくれたからやっとこんな生活が送れるようになったのよ。感謝しています」と微笑んでいる。あの時、こんな優雅なこんな幸せな日々を迎えられるなんて、生きてきてよかった。諦めないで生きてきてよかった。そう思っています。

 そんな純連、振り返るのも辛い日々だった。前には姑が、左にはダウン症の娘が、右には引きこもりの長男が、そして後ろには無口で何事にも無関心な夫が、同じ屋根の下で暮らす家族だった。

 純連の亡き夫は、落ち着いた雰囲気を漂わせ、常に穏やかな表情を浮かべていた。感情をあまり表に出さず、冷静沈着な態度を取ることで、信頼できそうな人物に見えていた。しかし、その冷たいマスクの奥には、深い内面の闇が隠されていたのである。彼は常に自分の欲望を優先し、家族の望みや感情に無頓着で、家庭を省みることなく、ギャンブルに大金を賭けることも厭わない。信頼を裏切ることに躊躇することもなく、責任や約束を破ることにも何の後ろめたさも感じない自己中心的な行動を続けていた。

 姑からは、「そんなギャンブル依存症になったのはあなたが悪いのよ!」と全ての責任は純連にあると罵られる。家族との信頼関係は崩壊寸前で、暗い影を落とし、大きな苦痛をもたらす存在となっていた。

 そんな時、長男を出産した。これで変わってくれる。父親としての自覚を持ってくれる。責任ある夫になってくれる。そう期待するが、ギャンブルは一向に収まらない。生活が厳しくなり、3歳になったばかりの長男を姑に預け、近所のスーパーで働き始め、その収入でなんとか生活を維持していた。

 長男が小学校5年生になった時、異変が起きた。部屋から一歩も出なくなった。純連が働いている間、姑からの愚痴を聞かされて育ち、幼い彼の心は夢と希望の光が閉ざされていき心が病んでいったのである。もう誰にも会いたくない。顔を見るのも嫌だとコンピューターゲームが心の安らぎとなり、部屋の中からはコントローラーから発せられるゲームの音だけが鳴り響く。その音に身を委ね、虚構の中に逃げ込んでしまうのだった。

 純連は二人目を授かった。出産は順調だと思っていた矢先、医者から「お子様はダウン症の可能性があります。ダウン症候群は、21番目の染色体が通常2本のところ染色体3本のようなのです」と告げられた。

 冷たく非情な一言が、左から右へと流れていった。「うそでしょ。どうしてなの?」純連は呆然と立ち尽くし、幸せの絶頂から絶望の谷底へと突き落とされた。どうしても状況を飲み込むことができず、何度も医者に聞き直しても返事は変わらなかった。

 姑の鬼のような仕打ちにも耐えられる。夫の無関心さにも耐えられる。長男の引きこもりにも耐えられる。それらはいつかは治ってくれるが、ダウン症はそうはいかない。心の中で葛藤が渦巻いていた。

 ダウン症のことを夫に伝えた。「産む産まないはお前に任せる」と言って、夫は顔色一つ変えなかった。その数秒後、「生まれてくる子を不幸にしてはいけないでしょ!」姑は目の色を変えて部屋に怒鳴り込んできた。

 普段、どんなことでも反論などしない純連であったが、新しい命の誕生ともなればそれは全くの別次元だった。

「命は平等です!ダウン症の子がこの世に生まれていけないはずはありません。不幸になるのか、幸せになるのか、それは、この子が決める問題です。この子が幸せと感じられれば幸せなんです。不幸じゃないんです。この子が幸せになるために手助けするのが家族じゃないんですか!それが私たちの使命ではないですか!」と純連は叫んだ。

「それはわかるわ。才能が開花して立派な大人になる子もいる。でもね、それは稀なことよ。不幸な人生を送らせるのはわかっているのに。それは親のエゴよ。授かった命を大切にしなくてはならないと世間は言うけど、他人事だからそんなことを言うの。ダウン症の子を育てる?そんな綺麗事で育てるなんて!それでも産むのだったら勝手にしなさい。あなたたちの子供なんだから!」と姑は厳しい口調で反論した。

 純連自身も出産するかどうか内心迷っていた。この子が苦労するのではないか、不幸にさせるのではないか、そんなことばかりが脳裏を駆け巡っていたが、「新しい命、守ってあげよう。見守ってあげよう。応援していこう」と純連は決意したのである。

 日に日に大きくなるお腹。普通の家庭であれば里帰り出産なのだろうが、実家は六畳一間のアパート。親子二人で生活できる状況ではなかった。

 出産日が近づくにつれ、エコーを見たり、そんな日々を過ごしていると陣痛が突然やってきた。予定日より2週間も早い。出産が迫っていると夫に伝えても、残業で帰りは遅くなると言って病院にはやっては来なかった。そんな心が凍てつくなか無事に出産した。

 小さな手、手の平にすっぽり収まる頭、どこも変わらない普通の可愛い赤ちゃんである。ただ長男と大きな違いを感じていた。あんまり泣かないのである。それに助産師さんがミルクを与えてもあんまり飲まない。純連は女の子だからかなと思っていた矢先、助産師さんから、「先生からお話があります」と伝えられた。

「もう一度もっと詳しくダウン症の遺伝子検査をしてみます」と医師が告げてきた。
「先生!間違っている可能性は?」と震える声で尋ねた。
「確率は非常に高いです」と医師の答えに覚悟はしていたが、どうしても信じることはできなかった。

 夫と姑がやってきた。開口一番「俺はこれから障がい児の父親になるのか」と言い放つ。姑も「これで我が家は障がい児の家系となったのね。これからはあなたたちは一生苦しまなくてはいけないのよ」と冷酷に言ってきた。
 生まれたばかりの子供の無事を心配する前に、体裁しか考えられないこの家族に涙した。最低だなと思った。そんな中、引きこもりの長男だけは違っていた。優しい眼差しで見つめている。今まで見せたことのない笑顔だった。妹の誕生がよほど嬉しかったようである。

 押しつぶされそうな気持ちで、無事に出産したことを母に伝えました。「お母さん、女の子が生まれたよ。でも、ダウン症なんだ」

「驚くのではないか、悲しむのではないか」と思っていたが、母はそんな風には言わずに返しました。「ダウン症?それが何か問題なの?私のパート先の店長の娘、ダウン症なのよ。とってもいい子で命が綺麗なの。私も色々感じているわ。教えられている。あなたは私の娘よ。家族よ。辛かったらいつでも帰ってきておいで。一緒に育てていこうね」

 号泣してしまいました。この母の娘でよかったと。母は明るくてポジティブでほんとに強いと尊敬してしまいました。

 姑からの過酷ないじめはさらにひどくなっていきました。ダウン症の娘には全く手をかけない。それが幸いだった。

 ある日のことでした。テレビから流れる音楽に敏感に反応するのだった。誕生日のお祝いにオモチャのピアノをプレゼントすると夢中になって奏でました。今まで耳で聞いていた音源が蓄えられていたのだろうか、彼女の清らかな心から流れる美しい音色が、姑も夫も長男の心に深く響き渡り、幸せと感動をもたらしていった。

 その奏でる音で、長男の引きこもりが徐々に変わり、夫のギャンブル依存症も回復に向かい生活態度も変わり、家にお金を入れるようになっていきました。

 小学校に入学したお祝いに、なんと姑がグランドピアノをプレゼントしてくれました。そこから彼女の才能が一気に開花しました。

 純連はそんな娘を何度か音楽コンクールに挑戦させましたが、彼女の自由奔放な演奏はいつも最下位に終わりました。彼女はピアノを見ると所構わず弾き出します。楽譜などない。全てアドリブ、自由奔放にその時感じたことを音で表現します。

 ある時のことでした。彼女は屋内広場に置いてあるピアノを見つけると、まっしぐらに向かい無心で弾き出しました。そこに居合わせた一流ディレクターの耳に演奏がとまりました。ディレクターは驚きました。「なんと澄んだ音色なんだ。細かい技術などを超越している。自由で人々に夢と希望を感じさせてくれる」と絶賛しました。彼女の旋律は一般的なピアニストとは異なり、その音楽性は人々の心に染み渡ります。聴き手一人一人の人生模様に合わせるかのような、音に変わるのでした。

 それからは彼女は、その優れた音楽の才能と清らかな心を持って、世界を代表するピアニストへと躍り出ました。彼女の演奏は、ただ技術的な完璧さだけでなく、心からの感情が込められており、聴衆の心に深い感動を呼び起こします。その美しい音色で魂が揺さぶられます。彼女の演奏会は世界中で熱狂的な歓迎を受け、その旋律は、人々に希望や勇気を与え、彼女自身もまた、その音楽を通じて自己表現し、世界に感動を届ける使命を果たしていきました。

 引きこもりだった長男は、ゲームソフト開発の世界で輝かしい成功を収めていきます。自身の人生経験を糧に、夢と希望に満ちたゲームソフトを創造し、その才能を世界に示していきました。そんな二人の子供たちは今、日本から世界へと駆け巡っています。

 姑は純連に感謝の言葉を残し、霊山へと旅立ちました。そんな優しい夫も旅立ってから15年の月日が流れています。純連がかつて住んでいた家は、区画整理地となり、道路となっています。純次郎の「レストラン「純連」」は、若手シェフに譲り、新たな息吹を与えています。

 夕陽が空を染め、その金色の光が純連と純次郎の窓辺に差し込みます。二人は笑い合い、涙しながら、共に夢を追いかけています。老いても、互いの手を握りしめ、愛に満ちた旅路を歩み続けます。これから二人が共に歩む幸せの旅路は、物質的なものではなく、二人が共に過ごす日々こそが、二人の真の宝物です。純次郎と純連は小さなアパートで幸福を謳歌し、二人の愛は時を超えて輝き続けています。

五話 家族の絆と喜びの旅路

 野村克也元監督の名言、「仕事は世の中にたくさんあるけど、妻という女性は一人しかいない」という言葉は、夫婦関係の重要性を象徴しています。彼女を失った後の苦悩は、想像するだけでも心が痛みます。

仕事やキャリアに没頭する中で、多くの人々が大切な人々を見過ごしてしまうことがあります。野村克也元監督はこの言葉で、仕事や社会的な成功よりも、家族やパートナーとの関係が人生で最も価値のあるものであることを教えてくれました。彼の言葉は、単純なように見えますが、その奥深さには言葉に表せないものがあります。

妻を亡くした後の苦悩は、その言葉の奥にある深い愛情と絆を示しています。彼女との別れは、彼の人生に大きな影響を与え、生きることの尊さを再認識させてくれました。

彼は80歳を過ぎてから、ますます意気消沈し、生きる意欲を失い、自らの鈍感さを嘆きました。さらに、周囲の友人や同僚が次々と亡くなる中で、終末への受け入れが近づいていることを感じつつも、人生の最後に何をすべきか見つけられないと苦しんでいたようです。

「沙知代はいい死に方をした」と、彼女が逝った時、涙を流すことなく、自らもそのような平穏な最期を迎えたいと願っていました。

そうなのかもしれません。どんなに成功や名声があっても、愛する人を失うことは内面的な苦悩や無力感をもたらし、最終的には最期への受け入れにつながっていくのだろうと思います。

 80歳を超えたら「大往生」と言われていますが、私にとってはそのような概念はありません。純連には1日でも私より長生きしてもらいたいのです。彼女を失うことになったら、私の心の傷は本当に深いものになるでしょう。

私は純連より先に逝くと思っています。それなのに、もしもの時のためにと通帳や印鑑などの保管場所を伝えてくれるのですが、私は聞いていません。聞いてはいても、覚えておこうという気持ちが湧いてこないのです。

純連が健康なうちに行動を起こしています。彼女が怪我をしたり、病気になったりしたら、そんな日々を思い浮かべると胸が痛みます。そんなことは決して起きてほしくありません。もし彼女に何かが起きたら、私だって野村克也元監督のように100%まともな生活はできなくなるでしょう。だから常に注意を払い、事故を未然に防ぐことを心掛けています。

 純次郎の兄は副業でミツバチを飼っていた。花が咲き誇る頃になると山へ巣箱を運び、慣れた手つきでトラックから巣箱を下ろす。しかし、慣れは恐ろしい。ある日、巣箱が崩れ落ち、彼はその下敷きとなり、帰らぬ人となった。

「結婚もせず、孫の顔も見せず、親より先に逝くなんて、この親不孝者め」と父は号泣していた。

兄には結婚相手がいましたが、その女性との結婚には消極的でした。それは、価値観を共有できる相手ではないと感じていたからです。兄が一人で働いているときでさえ、彼女は協力しようとはせず、仙台に行って映画を見たり、友達とレストランで食事をしたり、デパートで買い物を楽しんでいました。

兄が亡くなると、彼女は大声で泣き叫びました。父はそんな彼女に「よくそんなに泣けるものだ。そんなに悲しむのだったら生きている時どうして支えてやらなかったのか」と言いました。彼女の見せかけの愛情を見抜いたようです。

 純次郎の父が元気だった頃、「この家を譲る。受け取ってほしい」と言われていました。そんな彼も5年ほど前に亡くなってしまいました。その2年後、母も後を追うように逝ってしまいました。それ以来、家には誰も住んでいません。そのような家があちこちに点在し、この街は今、ゴーストタウンのようになっています。

かつてはこの家での生活も考えましたが、この街にはクリニック、スーパー、コンビニ、電車、バスなどがなく、純次郎と純連にとっては住むには不便な状況です。さらに、自給自足するための知識や経験もありません。彼らは先祖に感謝していますが、この土地に縛られるのではなく、自分たちの人生を全うしたいと願っています。これが長男と次男の違いなのでしょうか。

「いざ、買い物へ!」
「うーん、でも、もっとのんびりしたいなぁ」
「何言ってんの?朝ごはん食べてからグータラしてるじゃないか」
「でも、こんな贅沢な時間滅多にないんだから」
「滅多に?いつものんびりじゃないか?」
「だって、これまでバタバタと生きてきたんだもの。ちょっとくらいゆっくりしてもいいじゃない」
「だったら愚痴らないの。太ったとか、食べすぎたとか」

買い物カートを手に持ち、40分の道のりをかけてスーパーへ向かう。1キロをのんびりと17分のペースで歩く。それなのに純連はヒーヒー言いながらついてくる。純次郎の自己ベストタイムは1キロ14分だが、それだと距離がどんどん広がる。純連に合わせてまったりとしたペースで歩いている。
 
歩く道筋の中、純次郎は姑が言うように純連に口やかまく注意をする。「道路にはみ出さないように。路地から無謀な車が来るかもしれないから注意して。横断歩道を渡る時は要注意だからな。ここに段差があるぞ」と繰り返す。そのたびに彼女は「そんなことは分かってるわ」と言っている。

そして、段差でつまずく。つまずいてよろけても手に持っているソフトクリームは離さない。結局、顔から落ちる。時間が経つにつれて目の下が徐々に黒くなり、青タンができる。その青タンを見て、純次郎へ冷ややかな目線が送られる。「ひどい亭主よね。奥さんを殴るなんて」という囁きが聞こえてくる。

買い物リストを何十分かけて冷蔵庫をチェックする。
「いつまでチェックしているんだよ」
「余計な物を買っちゃうからダブルチェックしてるの」
そこまではいいのだが、そのメモを忘れ、まだある食材を買って冷蔵庫の前で仁王立ちしてため息をついている。
「まあいいか。いつか使うから」と言って納得している。

 純次郎がサラリーマンを辞め、レストラン業に足を踏み入れた時のことです。長年にわたりレストラン業界で経験と知識を積み重ね、多くの人々から尊敬と信頼を得ていた人物がいました。その方の支援と指導は、新たな挑戦者たちにとって、頼もしいかつ不可欠な存在でした。

彼の信頼性を揺るがしたのは、内なる欲望との闘いに敗れた姿でした。ギャンブル、お酒、そして女性への執着心に囚われ、心は欲望と理性の間で引き裂かれ、信頼を失い絆を断ち切ってしまったのです。そんな彼から学んだことがあります。それは自身の欲望に警戒し、信頼を大切にすることの重要性です。どれほど成功を収めても、内なる欲望に負けたその結末がいかに破滅的であるか、その見本となる姿を示していました。欲望という正体の知れないものに心を支配されると、尊敬される者でさえ破壊的な結果に導かれることを忘れてはなりません。

今日も1日が過ぎて、窓の外から見える校舎が夕焼けに染まり、日常が静かに流れ、曜日の感覚を忘れさせるほど穏やかです。 70歳を過ぎて現役時代から解放され、曜日を意識するのは、テレビの番組を録画するときだけです。「こんなのんびりとした生活ばかり送っていると脳が鈍ってしまう」と言って、自らの生きがいを見つけようとしている純次郎と純連の姿は、時には切なく、時には微笑ましい光景に映っています。

 純次郎の娘、麻美子は学生時代、英語教師と恋に落ち、母である奈々美と同じように、できちゃった婚で結婚した。その男性の帰国に伴い、アメリカのマイアミでの生活を始めるようになったのである。

マイアミでの日々は、太陽が輝くビーチでの穏やかな時間が広がっていた。波の音が心地よく響き、砂浜に広がる白い砂が足の裏を気持ちよく包み込む。朝日が昇ると、海はキラキラと輝き、カラフルなアートや音楽、アールデコの建物が街を彩り、壁に描かれたグラフィティが街角に現代的な魅力を添えていた。ラテンのリズムやカリブのメロディはいたるところで聞こえ、彼女の心を躍らせ喜びに満ちさせていた。

しかし、その幸せな生活は最初の3年間だけだった。夫のギャンブル依存症が発覚したのである。夫の病気は、家庭に暗い影を落とし始めたが、彼女は希望を捨てずいつか治るという信念を抱きながら立ち向かっていた。

 息子が高校生になった時である。彼は薬物中毒に陥ってしまった。初めは気付かぬ間に始まった小さな問題だったが、次第に深刻化し、彼の人生に暗い影を落とし始めた。彼の回復を願いながら、治療やサポートを探し、何よりも希望を与えることに全力を注いだが、病状はますます悪化し、彼は早すぎる死を受け入れざるを得なかった。それが原因なのか、夫のギャンブル依存症はさらに悪化し、借金取りに追われ家には戻らなくなり行方不明となった。

 結婚を最後までまっとうし幸せを掴む人もいる。離婚して新たな道を進んで幸せを掴む人もいる。麻美子は後者を選び、新たな生活に挑戦することを決意した。離婚が成立すると、「マイアミでの生活には何も思い残すことはないわ。全てをやり遂げたから」と語り、日本に戻ってきたのである。

最初に向かったのは、今は亡き母、奈々美の眠る墓だった。その前で静かに立ち止まり、心の中でささやいた。「お母さん、ごめんね。あの時見送りできなくて。いろいろあってね、どうしても帰国できなかったの。これからはいつも一緒だからね。私も見守るから、お母さんも私を見守ってね」と。

 どれだけの時間が流れていたのだろうか、気がつくと夕焼けで真っ赤に空は染まっていた。いよいよ父である純次郎と純連にこれから会いに行く。どんな言葉を交わそうか、心の中で悩んでいたが、会った瞬間、心の中の緊張は一気に消えた。純連は優しさに満ちた女性だと感じたからである。

 一方の純連は、憎しみと恨みの念に苛まれていた。「あの時、あなたが生まれたから私たちは引き裂かれ遠回りしてしまったのよ」という思いで膨れ上がっていた。それが麻美子に会った瞬間、その思いは消え去った。それどころか彼女の存在がもたらす幸せに心から感謝し、「麻美子さん、今の幸せがあるのは、あの時、あなたが生まれてくれたからですよ。ありがとうございます」と。

 スープの冷めない距離に麻美子はアパートを借りた。日本での生活費はマイアミでの生活で蓄えたお金とアメリカの年金である。おかげで人並みの生活を送ることはできていた。

 純連は実の娘のように、純次郎も父親としての深い愛情を抱き、麻美子は麻美子で、離れ離れになっていた時間を埋め合わせるかのようにふれあっていた。そのふれあいの中から、麻美子は家族の尊さを再認識し始めていった。

 マイアミで暮らしていた時、ジャパンTVで温泉シリーズが放映されるとその晩は必ずと言っていいほど夢を見る。自分が温泉に浸かって美味しいものを食べているそんな光景だった。日本に戻ると、その夢をやっと叶えるかのように、温泉巡り、食べ歩きグルメ、クルーズ船での日本一周、そして当てのない気ままな列車旅を楽しんでいた。時には3人で、時には1人旅である。そんな旅先で思うのは、日本に生まれてきてよかった。日本人で良かった。と、心の底から思っていた。

「人生は楽しむためにあるのよ」と純連が笑顔で送り出してくれる。
「人生は幸せになるためにあるんだから、楽しんでこい」と純次郎が暖かい声援をかけてくれる。
「じゃあ行ってくるね。留守の間の植木の水やりお願いね」
「大丈夫よ、気にしないで楽しんできてね」
「で、今度は何日間の旅なんだ」
「それは誰にもわからないわ。知っているのは風だけよ」
「何を車寅次郎のようなことを言っているんだ」
「旅先で恋に落ちたら二人で帰ってくるかもよ」
「二人でも三人でもいい。その時は連れて来い。会ってやるから。じゃあ、楽しんな」
「二人にお土産買ってくるからね」
 喜び勇んで出かける麻美子の後ろ姿が見えなくなるまで二人は手を振っている。

「疲れが抜けないよ」と、旅から戻った麻美子が手土産を持って遊びにやって来た。
「それはそうだ。毎晩赤ワインボトル1本も飲んでればそうなる」
「ストレスが寿命を縮めるのよ。そのうち飲めなくなるし、食べられなくなるから」
「そうよね、健康、健康と気にしてばかりで、飲まない食べないのは寂しいわね」
「ああ、そうだとも。この歳になると、食べる量も飲む量も減って、食べる量も減っている。それに旅をしたいとも思わない。温泉に浸かりたいとも思わない。家から出たいとも思わない。欲しいものなんてない。お金は減らないし溜まる一方だ」
「心配しないで、お金の方は私が減らしてあげるから」と、麻美子は笑っている。

 夏の空が過ぎて秋の空になった。新たな旅に出ようとした時だった。病院から麻美子へ精密検査の通知が届いた。血糖値が高いとか、コレステロールが多いとか、そんな注意勧告だろうと軽く考えていた。それはそうである。日本の食べ物は美味しいといって、とんこつラーメン、焼肉、白米、それに日本酒である。毎日のように腹一杯食べていた。それを自覚していたし、当然注意されると思っていた。
数値が高ければ「その時は薬を飲めば良いのよ。そのため薬があるんだから。今食べなければいつ食べるのよ」と軽く考えて病院に向かった。

「先生、血糖値とかコレステロールが高いのですか?たとえ高くても食生活の見直しはしませんので、薬をくださいね」
そんな麻美子の声に医師は頷くこともなく、データを見ながら深刻な顔で言った。「麻美子さんの病気は肺気腫、大腸がん、慢性骨髄性白血病と厳しいものです」

 人生は予測不可能なものである。麻美子が親よりも早く逝ってしまうとは予想もしていなかった。その彼女の死は、愛する人との時間がどれほど尊いのかを再認識させられたのである。

 気丈な麻美子、気丈というより覚悟のようなものが溢れていた。体の異変はマイアミで生活をしていた時から薄々感じていた。自分の体である。異変に気づかないはずがない。マイアミを離れたのも詭弁だった。最期は生まれ育った日本、優しかった父、純次郎と過ごしながら終えたいとその時から覚悟を決めていたのである。

 麻美子は、穏やかな微笑みを浮かべながら、静かな部屋の中でそっと最期を迎えました。死が迫る中、彼女の目には驚きや恐怖の色はなく、むしろ穏やかな光が宿っていました。家族や友人たちが集まり、彼らも彼女の勇気を受け入れる姿勢に敬意を表しました。

 彼女の人生は、常に新たな挑戦を求め、後ろを振り返ることなく前進してきました。異国のマイアミで様々な試練や困難に直面しながらも、希望を失わず、前向きに生きるその姿勢は、人生の豊かさや満足度を象徴しています。

 麻美子の旅立ち後も、その生き様は純次郎と純連の心に色褪せることはなく、生きることの尊さや不確かさ、自らの人生の選択に向き合う勇気を伝えていました。彼女の姿は、永遠に心に刻まれていくことでしょう。

六話 夏が来る前に…

 時は風のようにそっと過ぎ去っていく。昭和の日々は懐かしく、古びた写真のように記憶に残る。平成の時代は躍動的で、色とりどりの出来事が次々と繰り広げられた。そして令和の幕が開け、新たな一歩を踏み出す喜びと期待が膨らんでいる。昨日の面影は遠く、新しい出来事が目まぐるしくやってくる。昭和、平成、令和の時代が、川の流れのように静かに過去を流していく。

純次郎がギターを覚えたばかりの頃、いろりの前に座っている父、与三郎の目の前で、井上陽水の曲『人生が二度あれば』を弾き語りました。暖かないろりの光が、父の顔に刻まれた年月の痕跡を浮き立たせていました。その時の父は63歳、仕事に追われていましたが、少しだけ余裕ができた頃でした。父は黙って目を閉じて聴いていました。何を思い、何を感じていたのでしょうか。今でも、あの日の父の姿を思い出すたびに、複雑な感情が心を揺れ動かします。

若いあの頃、自分が高齢になるとは考えもせず、未来への希望に満ち、夢を追い求め、挑戦に身を投じ、成長の証を感じていました。時は容赦なく進み、今、高齢の現実に直面しています。それぞれの時代において、経験した成長や喜びが、私の人生に深い足跡を残していることに気づかされます。挑戦と失敗、成功と幸福、そのすべてが私を形作ってきました。過去を振り返りながら、自問することもあります。本当に大切にしてきたものは何だろうか。その答えは、経験と知識が教えてくれるような気がしてなりません。

 遠い昔を蘇えさせてくれる古いアルバム。窓辺に座った純連は、押し入れの隅にしまってある箱を取り出し、そっと古びたアルバムを手に取った。「純連、何を見ているの?」彼女の微笑みに誘われて、純次郎も彼女の隣に座り、一緒にアルバムを覗き始めた。窓から差し込む光が、二人の周りに穏やかな明かりを投げかけ、思い出と感情が二人の心を満たしていた。

古いアルバムには、数々の楽しい思い出や大切な写真が収められている。その一枚の写真を見ながら、純連は孫娘の成長を振り返っていた。

 高校生だった唯《ゆい》は、大好きなおばあちゃんの純連の誕生日に歌を捧げようと思っていた。そんな時、のど自慢の応募を知った。「これだ。これよ。この会場で誕生日の歌を捧げるの」純連の誕生日に歌を捧げたいと思った。

「出場者を決める予選会を、放送前日に行います。お名前、年齢、歌う曲名と歌手など、必要事項をご記入のうえお申し込みください。その際、その曲を選んだ理由を詳しく書いてください。申し込みの締め切りは4月18日です。観覧者も募集中です。」こう記載されている要項に書き込み応募ハガキを出した。

のど自慢には、倍率7倍の中から選出された幅広い世代の200組が本選への出場を目指して、予選会に集結した。書類選考により約180組の予選出場者が選ばれ、放送局から通知が届いた。予選出場者は、収録日の前日に本番と同様の会場で行われる非公開の予選会に出場し、本番同様に一組ずつ生バンドをバックにステージ上で歌を披露するのである。

唯は一番最後だった。その間、緊張でいっぱいだった。何度もこの場から逃げ出そうと思ったが、今回だけは逃げ出すことはできなかった。純連に聴かせて喜んでもらいたかったからである。

イントロが流れた。緊張が続いていたからなのか、声が出ない。力を振り絞り声を推し出すと、音程が大きく外れた。会場からは爆笑の渦が沸いた。「はい、結構です。お疲れ様でした」と審査員が冷たい口調で言った。

唯は悔しくて顔を上げることができなかった。涙がボロボロと床に落ちた。このままでは引き下がれない。なんとしても純連の前で歌いたい。そして勇気を振り絞りバックバンドなしでもう一度歌った。

「えっ!なんだこの歌声は…」そう言って、審査員が顔を見合わせた。バックバンドも歌に合わせて演奏を始めた。さっきまで笑っていた参加者も「アッ」「え~っ」「何?!」ある者は涙し、ある者は驚きのあまり口を抑えている。歌が終わっても静寂な空気が広がっている。審査員が我に返り、拍手を始めると一斉に拍手の渦が広がった。

こうして予選を勝ち抜き、県大会へ出場し見事優勝し、そして全国大会へと駒を進めた。全国大会ともなると別次元の雰囲気に包まれる。照明も音響もテレビカメラも、何よりも会場のスケールが違っていた。

 大舞台に立っている唯、ナーバスになっていた。それはそうである。会場も審査員も一斉に注目している。一人の審査員が緊張をほぐそうと、簡単な質問をした。「参加した動機はなんですか?歌は好きですか?」頭は真っ白。耳に入るはずがない。固まった顔から笑みを浮かべるが、口が引きつっている。目がいつもの倍の大きさに開いている。指は震えて力が入らない。膝からの力も抜け、立っていられなくなっていた。

「負けるものか」と、自分自身を鼓舞しているが、涙が溢れる。流れる涙が口の中に入る。そんな様子を見た審査員たちは顔を見合わせる。

「ダメかもしれませんね」 
「そうですね、これ以上緊張させては彼女の体にも悪いし」 
「じゃあストップさせますか」 
「そうですね、そうしましょうか」と小声で話している。
そんな中、唯はありったけの力を振り絞り答えた。「とっても緊張しています。歌えるかどうかわかりません。私は対人恐怖症なのです。引きこもりなのです」

会場は静まり返っている。審査員もやさしい眼差しを向けている。そんな雰囲気を乗り越えようと一旦深呼吸し、再び喋り出した。

「大好きなおばあちゃんにどうしても聞いてもらいたい。祝ってあげたいです」そこで彼女の言葉が切れた。すかさず審査員の一人が優しく声をかけた。
「おばあちゃんは元気なの?」 
「はい、元気です。この会場にきています」
 「唯が、あの対面恐怖症の唯が…」純連は感動が高ぶり、顔は涙でぐしゃぐしゃである。その手を純次郎はそっと撫でていた。

ステージを暗闇が包み込む。一筋の光が静かに広がり、その光は孤独な旅人の前に煌めく希望の灯火のように輝く。深遠な物語の幕開けを告げるかのように、ゆっくりと広がる音の波が、これから始まる物語の世界へと誘う。ピアノの旋律が響き渡り、「語り継ぐ人もなく…」と、唯の歌が会場に響き渡った。その声は静かな情熱を秘め、会場全体を包み込んでいた。

ステージ上からは、熱気と興奮が溢れ出し、ライトが煌めき、スポットライトが演奏者たちを照らし出す。その瞬間、歓声と拍手の渦が会場を埋め尽くし、一つになった。観客たちは熱狂し、歌声に合わせて手を叩き、声を上げる。生演奏の音が響き渡り、その迫力に会場は震える。臨場感あふれる瞬間が、一体感を生み出し、会場はまるで生き物のように息づいていた。

「ヘッドライト・テールライト、旅はまだ終わらない…」中島みゆきの曲ヘッドライト・テールライトを唯は見事に歌い上げたのである。

誰もが感動し、泣き叫んでいる。のど自慢のレベルではない。唯のライブ会場のようになっていた。どれだけ拍手をしたのだろうか、純連と純次郎の手のひらは赤くなって、鬱血していた。

歌声が会場に響き渡り終えると、彼女の心は一気に解放された。不安や緊張が一瞬で消え去り、自分の歌声に心を委ねることができた。会場の拍手と歓声が唯を包み込み、深い感動が溢れ出ていた。自分の歌声を純連に捧げられたことで、唯の心は喜びと満足感で満たされた。彼女は対人恐怖症の限界を超え、大きな一歩を踏み出したのである。それからの彼女は強い自信が芽生えていった。

唯からの誕生日の贈り物。あの思い出が、純連を勇気づけ、新たな夢を追い求めるエネルギーを与えてくれた。そんな黄金の夏の思い出が心に刻まれている。「感謝だね」と純次郎が言う。「ありがたいわね」と純連が目を細めて答えている。

 野球の世界も、音楽の世界も、芸術の世界も、料理の世界も、その輝かしい頂点を目指す情熱は共通している。唯は、その情熱を胸に日本メジャーデビューを果たし、その成功をきっかけにして世界の頂点に挑戦していった。
そんな懐かしい思い出、蝉時雨が運んできてくれたのでしょうか。

七話 笑いと幸せ、そして夢を追い求める人生

 笑いと幸せについて考えると、喜びや意味について深く考えさせられます。会社員時代、月末が近づくと売り上げ予測が立たずにストレスが溜まり、心身ともに疲れ果て、神経性胃炎になってしまいました。医師は「笑いが一番ですよ」と教えてくれました。

もともと私は笑うことが苦手でしたが、医師のアドバイスに従い、漫才などのコメディ番組を積極的に視聴し、笑いを取り入れました。数ヶ月が経つと、体内で何かが動き始めるかのようで、「笑い」が血液を浄化し、ストレスや不安を洗い流してくれる。笑いが心を軽くし、心は穏やかな幸福感に包まれる。そんな気分になっていきました。同時に、幸せについても考えさせられました。

現代の便利さや忙しさに振り回されている中で、自然や静寂の中の幸せに気づかず、外部の要素に心を奪われ、内面の充実や笑いを見落としていたのですが、笑いが幸せをもたらすことに気づいた瞬間、考え方が変わりました。絶望的な境地に追い込まれた時こそ、笑うことが大切だと感じるようになり、そこからです。辛く悲しい時に直面するたび、笑いを取り入れて乗り越えてきました。

どんなに家に物が溢れていようが、そこに愛という笑いが詰まっていないのは寂しいものではないでしょうか。笑いは人生をポジティブに変えてくれる人間に与えられた素晴らしい特権だと思っています。

人生には何かしらの分岐点があります。時には試練を課され、その試練が現れたとき、選択を迫られたりします。そんな人生の分岐点が純次郎にもありました。

 レストラン「純連」のオーナーとして、純次郎は様々な人々との出会いに恵まれました。その中でも、特筆すべき客の一人が黒河内寿一。通称黒さんという男性です。黒さんは古き良きアメリカのロマンに魅了され、特にルート66に心を奪われていました。ボロボロの道、崩れかけた橋、廃墟と化したモーテル。そんな荒涼とした風景から、彼は古き良きアメリカの魅力を感じ、そのロマンを追い求めるようになっていったのです。

私が脱サラしてレストランを始めたことを知ると、黒さんはヤマさんのことを熱く語ってくれました。それも酸素吸入の管を鼻にしながらです。

「ちょっと歩くと息切れがするんだ」

「そうだったら無理しなくてもいいのに」

「いや、一期一会じゃないけど、もう会えないかもしれないからね」そう言っていた黒さんは好きだったアルコールを受け付けられない体になっていました。

「悔いはないよ。ルート66を横断した。キーウェストにも行った。もう全てやりきったよ」

「ルート66かあ、私もいつかは行ってみたいな」

「いつか?ルート66は男のロマンだ。思い立ったら吉日だよ。純次郎さん、勇気を出して行けばいい」

「でも、レストランがあるから」

「仕事なんかに振り回されないで。そんなことでは一生ルート66を走れないよ。それと機会があったらマイアミでレストラン経営をしているヤマさんに会ってきたらいいよ」

「黒さんは、会ってきたんですか」

「もちろんだよ。ヤマさんにはお世話になった。もう一度会いたいなあ」

 成田空港の滑走路から飛び立った飛行機は、太平洋を越えてアメリカ西海岸へと向かう。ロサンゼルス国際空港(LAX)に降り立った黒さんは、長年の夢を叶えるための第一歩を踏み出したのだ。彼の目的地は、アメリカ本土最南端の楽園、キーウエストを目指した。

ロサンゼルスでレンタカーを借りた黒さんは、胸を高鳴らせながらハンドルを握る。カリフォルニアの青い空の下、車はゆっくりと東へと進んでいく。アリゾナの砂漠地帯、ニューメキシコの広大な平原、テキサスの雄大な風景。各地の名所や小さな町を巡りながら、黒さんは時間を超えた旅を楽しんでいた。

ルート66はやがてI-40号線へと変わり、いよいよフロリダキーズの最南端、キーウエストへと向かう。セブンマイルブリッジを渡るその瞬間、黒さんの胸は感動でいっぱいとなっている。果てしなく続く海と空の青さ、風に揺れるヤシの木々。彼は夢が現実になった瞬間を味わっていた。

ルート66中間点

「海を渡るセブンマイルブリッジを渡った瞬間は感動したけど、それよりも感動的だったのはマイアミでレストランを経営しているヤマさんと会ったことだよ」と、黒さんは髭を撫でながら何かを思い出すかのように熱く語った。その瞳には、旅の終わりと新たな始まりの輝きが映し出されていた。

黒さんは聞き役は苦手で一方的に話すタイプでした。それはたくさんの経験を、体験を積んできたからなのでしょう。その黒さんがヤマさんの人生感に触れたことで、なんと終始聞き役になっていたそうです。

ヤマさん夫婦は、アメリカでの挑戦と成長を不屈の精神で乗り越えてきました。42歳の時、家族と犬一匹を連れ、未経験のレストランを開店したのです。最初の数ヶ月は希望に満ちていましたが、現実は厳しく問題が絶えませんでした。

リース契約の交渉不備、株式の問題、ライセンスのキャンセル、従業員の無断欠勤、さらには麻薬や泥酔運転による交通事故、売上金の盗難、アルコール中毒、ギャンブル狂い。英語ができないヤマさん夫妻にとっては大きな壁でしたが、身振り手振りでこれらの問題に立ち向かっていきました。異国での生活の厳しさを身をもって経験したのです。

何度も心が折れそうになったようですが、家族の励ましを受け、再び決意を固め、一兵卒になり未経験の料理の特訓が始まったのです。「ヤマさんが言っていたよ。その厳しい環境があったからこそ、家族愛が芽生えたんだ」と。

1年が過ぎ、2年が過ぎ、レストランは成長していきました。ただその成長に合わせるかのように困難が押し寄せます。そのたび家族一丸となって、危機を乗り越え、店を守り抜いたのです。

渡米当初の周囲の噂では、「日本から問題を抱えてアメリカに逃げてきたに違いない。そうでなければ家族全員で渡米するわけがない」と囁かれていたと。そんな当時のことを振り返り笑っている。そのヤマさんの姿が印象的で、この人はなんとポジティブ思考なのだろうか、と感じたそうです。

「英語のできないヤマさんが成功したのは奇跡のようなものですね」と何気なく言った時、彼は「それは奇跡でもなく、ただの偶然でもなく、努力と決意の結果なのです。困難に直面し、逃げることなく不屈の精神で進んできたからです。それがあったから家族の絆を築き上げることができました」と熱く語ってくれたことが印象的だったと黒さんは言っていました。

「アメリカでの挑戦は大変なものだったと思うけど、ヤマさんは誰もができない貴重な人生の体験ができて、あの時こうすればよかったとか、そんな悔いはないのだから。こんなに幸せなことはないと思う」と、黒さんがポツリと言ったことを今でも覚えています。

 私から見れば、黒さんもヤマさんも、男のロマンに向かっていけることは羨ましい限りです。でもそれは、家族の賛同があって可能なことなんですよね。夢を追い求める姿に反対するのではなく、渡米に賛同してくれるなんて、一般常識では考えられないことです。しかもその時の奥さんは大手銀行の役職に就いたばかりで、仕事に充実していた矢先なのに、ヤマさんを支えるために銀行を退職し、彼の夢に賛同しアメリカに渡ったとは驚きでした。ヤマさんの奥さんとその息子たち二人は、どんなに大変なことだったでしょう。なんと言っても異国の地ですから。

家族の支え、これがどれだけ大切なのかを純次郎は感じています。本当に幸せ者な黒さんとヤマさんだと思っていました。

「久々に食べた日本食は美味しかったなあ。あの味が忘れられないよ」

「どんなものを食べたの?」

「寿司と刺身と彼が発案した巻物だよ。あの巻物は日本人感覚からは生まれてこない、そんなアメリカ的な巻物だった。それも美味しかったけど、お土産にと握ってくれたあのおにぎりは心に染みたなあ。そんなヤマさんの思いやりの舞いに胸が熱くなったよ」と語っていました。

そんなヤマさんのレストランを後にし、夕暮れが迫るマイアミの空を見ながら、I-95を北に向かった。途中、スプリングフィールドのエイブラハム・リンカーン、そして、ミズーリ州のセントルイス、最終的にシカゴに到着。「逆コースで走るのもこれまたいいものだ。味のあるルート66の旅だった」と笑いながら言った黒さんの笑顔が忘れられません。

黒さんは、人生を長さよりも深さを選び、悔いのない生き方を貫きました。病魔に苦しんでいてもルート66の旅に身を投じました。その旅路は単なる移動ではなく、自らの内なる旅を模索する旅でもありました。

「もし俺がこの世を去ったら、俺の遺灰をバグダッド・カフェのルート66に撒いてくれないか」とよく酒を飲むと言っていました。仲間たちは笑いながらその言葉を聞き流していました。

 夜が更け、砂漠の空に無数の星が輝く下で、焚き火の炎が揺らめいています。仲間たちは一つ一つの瞬間を大切にし、黒さんの遺した教えや思い出を胸に刻みながら、ギターの旋律が砂漠の広がりと星空の下で響き渡ります。黒さんの存在は、単なる思い出ではなく、今もなお彼らの中で生き続ける大切な部分となっています。バグダッド・カフェでのその夜、黒さんの魂は砂漠の星空に溶け込み、永遠に輝き続けることでしょう。

バクダットカフェ

黒さんの生き方には、自己主張と思いやりが見事に調和しています。他者の評価や意見に左右されることなく、自らの信じる道を進んできました。彼の人生から学ぶべき教訓は多くあります。自分の夢に向かって進み、他者との共感を大事にすること、そして自己の信念を曲げずに生きることです。

ところで黒さん、そちらの世界にはルート66はあるのですか?

八話 時を超える絆

 夢と希望、いや、欲望の塊でした。大きな家が欲しい、外国車が欲しい、高級家具が欲しい、出世がしたいなど、手に入れたいものがたくさんあり、それが喜びの源でした。結果に結びつかないプロセスには意味がないと思っていましたが、年齢を重ねるにつれ、生き方や本当に大切なことを考えるようになりました。物質的な欲望よりも心の豊かさや人間関係の大切さに気づき、物事を深く考えるようになりました。生活においての本当の幸福や充実を見つけるために、内面的な成長と精神的な満足を追求する旅が始まったのです。

 あのときは朝早くから夜遅くまで一心不乱に働いていました。薄暗いうちに家を出て、街灯の明かりの下を軽やかな足取りで歩きました。遠くにオフィスビルが見えると、胸の中に熱い情熱が湧き上がったのを覚えています。オフィスに到着すると、机には山積みの仕事のファイルが待ち受けていました。これらはすべて重要なプロジェクトであり、私の手腕が試される瞬間でした。

単身赴任当初は不安もありましたが、一つ一つ丁寧に取り組むことで次第に自信がついていきました。上司からの評価も高まり、チームのリーダーとしての責任も増していきました。

新しい環境に慣れるために、まずは周囲の人々と積極的にコミュニケーションを取りました。同僚や上司との対話を通じて、職場の文化や期待を理解することができました。仕事においては、一つ一つのタスクに集中し、丁寧に取り組むことを心掛けました。初めは不慣れなことも多かったですが、段階的にスキルを向上させることで自信を深めました。また、上司や同僚からのフィードバックを積極的に受け入れ、改善点を取り入れることも重要でした。

さらに、自己管理やメンタルケアにも注力しました。適度な休息や運動、趣味の時間を持つことでストレスを軽減しました。また、家族や友人との定期的なコミュニケーションも大切にしました。年齢を重ねるにつれ、家族との時間がいかに貴重であるかを実感しました。娘の麻美子が初めて歩いた日の感動や、妻の奈々美と共に過ごした休日の静かなひとときなど、小さな瞬間が心を豊かにしてくれることに気づきました。

突然、奈々美から離婚を伝えられたとき、私は深いショックを受けました。その後、会社を退職し、心機一転してレストラン「純連」を始めた時は、サラリーマン時代とは比べものにならないほどの仕事量が待っていました。すべてが自分ひとりに覆いかぶさる大変な日々でしたが、やりがいも感じ、充実した時間を過ごしていました。休む間も惜しんで働いた日々は、今振り返ると人生の大きな財産となっています。挑戦と挫折、成功と歓喜のすべてが私を鍛え、成長させてくれました。週末や祝日も仕事に没頭することが多かったのですが、その努力が少しずつ実を結び始めると、さらなる目標に向かって走り続ける力が湧いてきました。

そして今、穏やかな老後を迎えています。朝の散歩が日課となり、ベランダに咲き誇る花の手入れをしながら過ごす時間は何よりの贅沢です。若き日の情熱があったからこそ、今の穏やかな日々があるのだと思います。窓辺に座り、過去を振り返ると、あの時の頑張りが今日の幸せを築いてくれたのだと深く感じます。そうかもしれません。「上ることは下ることのため」なのではないでしょうか。それが人生なのではないでしょうか。そんなことを感じています。

 ある日、純連の息子から「終活ノート」が送られてきました。人生の最後の段階で自分の意思を尊重し、大切なことに焦点を当てるためのプロセスを書き込むことだといいます。二人はこれに興味を抱き、終活ノートを書き始めました。

終活ノートを手に取り、その重みを感じながら思考に耽りました。この終活ノートは、二人が人生の航海で迷いそうになった時に、その道しるべとなるかもしれません。そして、認知症の岩礁に迷い込んだ時、安全な岸辺へと導いてくれることでしょう。そう考えると、この終活ノートは二人の思い出や希望、そして愛情を詰め込んだ宝物になってくれるように感じます。

人生の航海は、時に見知らぬ海に漕ぎ出すことがあります。その海は、かつて慣れ親しんだ青い空や明るい陽光とは異なり、不確かな霧に包まれ、見えない岸辺が遠くに浮かぶように見えます。認知症という岩礁が、私たちの航海を脅かす風景です。認知症は、海の中で方向を見失った船が岩礁にぶつかるかのように、心と思考を混乱させる疾患です。

初めは小さな迷いがあり、何かを忘れたり場所を見失ったりすることがありますが、徐々にその混乱は増大し、日常生活に影響を及ぼし始めます。この心の旅は、時には急激な潮の流れに押し流されるように、思考の一貫性を失い、過去の出来事や身近な人々の名前を思い出せなくなったり、覚えていた航路や地図をたどることができなくなります。知識や経験が海の底に沈んでいくように感じられます。

そんな孤独の中でも、時折見える光があります。それは、愛する人や支え合うコミュニティが待ち受けていることを知った時に湧き上がる希望の光です。この航海の果てには、見知らぬ土地が広がっているかもしれませんが、認知症の彼方への旅路は、ただ暗い闇の中へと沈むだけではなく、私たちが持つ温かな思い出や愛情が、船を優しく導き、穏やかな海へと導いてくれることを信じることができる。そう思うのです。

 レストラン「純連」の前で、純次郎の声が響きました。「陽一!覚えてるか?」その声は穏やかで、心地よい懐かしさと共に響きました。陽一はその声に反応し、心の奥底から溢れる安堵感を感じていました。アメリカ風寿司ロールを勧められた陽一は、躊躇することなく一口、また一口と食べ進めました。お酒の酔いも手伝ってか、昔話が始まり、一瞬の幸せを感じました。「純次郎、この先のことを考えると不安でしょうがないんだ。特に最近は」と陽一は深いため息をつきました。「陽一、一瞬一瞬が幸せだったらそれでいいんだ。その一瞬が大切なんだ。こうしてお前と会えているこの一瞬が」と、純次郎は静かに言葉を紡ぎました。「そうだ、それでいいんだな」と、陽一は納得の表情を浮かべました。

旅の話題になると、陽一の目に寂しさが滲んでいました。遠い昔、彼が旅をしていたルート66のアスファルトの匂いが蘇ってくるのでしょう。その目には広大な荒野の景色が映っていました。そこには過去の別れや失った時間への懐かしさが漂っていました。

あれから1年経ち、陽一の症状は悪化し、純次郎のこともルート66のことも記憶から消え、散歩に出れば、帰り道がわからなくなったり、自分から電話をかけたのに相手が出たとたんに、なんの用件だったか忘れてしまったり―――。

不安を抱えはじめた陽一は、身近な信頼できる相手に妄想的な嫉妬を覚えるようになり、ちょっとしたことで怒ったりするようになりました。以前は当たり前のようにできていたことがだんだんできなくなったり、「自分はどうしてしまったのか。このまま自分が壊れていくのではないか」という不安が襲ってくるのでした。

陽一の認知症は次第に深刻化し、家族には苦悩の日々が続くようになっていきます。時には盗まれていないのに「財布を盗まれた!」などと騒ぎまわるのでした。認知症のせいだとわかっていても、「こんなに一生懸命介護しているのに…」と報われない思いが積み重なり、家族は疲弊していきました。そんな時こそ笑いが大切と家族全員で笑いを巻き起こし、心を通わせていました。

桜が咲き始めた季節、家族や友人たちに見守られながら、陽一は静かに旅立ちました。その満面の笑顔は、これまでの苦労や悲しみを超えて、永遠の安らぎに包まれていました。彼の存在が周りに与えた影響は大きく、誰もがその旅立ちを惜しみ、感謝の気持ちでいっぱいでした。

陽一のいなくなった部屋には、彼の大切な思い出が詰まった品々が残されていました。それらを整理しながら、家族は陽一の人生を振り返り、その豊かな時間に思いを馳せました。彼が愛した場所、共に過ごした瞬間、そしてその笑顔は、いつまでも心の中に輝き続けます。陽一の旅立ちからしばらくたち、家族は彼の思い出を大切にし、彼の人生を称える方法を模索しました。

陽一の旅立ちを悲しむばかりでなく、彼の人生と経験から学び、彼の遺志を継ぎ、地域の認知症支援団体に寄付をすることを決意しました。その寄付は、認知症患者やその家族が支援を受けられるようになり、彼らの苦しみを少しでも軽くする一助となるでしょう。

純次郎と純連は、お互いの手を取り合い、陽一の思い出を胸に、新たな日々を迎える準備を始めました。彼らの心には、陽一の存在がいつまでも生き続けています。

ベランダに立ち、外の景色を眺めながら、自分の心に思いを馳せています。遠くに広がるビルの山々の風景が、若かった日々の思い出を呼び覚ましているようです。その静かな部屋の中で、純次郎はひとり呟きます。「一人ずつ友が去っていく。私はそんな友の分まで長生きしなくてはならない」と。

 最近の純次郎は、夜中にトイレで起きることが多くなり、夜間頻尿になりかけています。ある晩のことです。純次郎はいつものように薄暗い部屋で寝ぼけながらトイレに行き、用を済ませて布団に戻ると、ハッとする出来事がありました。なんと若い娘が寝ているではありませんか。寝ぼけるとはタイムスリップすることなのか、それとも時間と空間を忘れることなのか、びっくりして部屋を明るくしました。よく見ると寝ているのは純連です。そんな純連の寝顔を見ていると、時の流れと重みを感じずにはいられません。

 純次郎と純連は再婚同士で、40年の事実婚が経過していましたが、先週、結婚届を提出しました。どんな心境の変化があったのでしょうか。「たかが紙切れ、されど紙切れ」と、その重みを二人は感じています。戸籍には妻、山宮純連と記載されています。「妻」という響きがなんとも言えず、今まで二世帯住居で名字は違っていましたが、これからは山宮と名乗ることになります。これで名実ともに夫婦となりました。

純次郎は前々から婚姻届を出そうと何度も言ってきましたが、乗り気でなかったのは純連の方です。その純連が婚姻届けを真剣に考えたのは、遺産相続に関することよりも、自分の最期の希望や意思を明確にするための準備を行いたかったからです。特にお墓が別々では寂しいと感じ、純次郎と一緒のお墓に入り、天国に行ってものんびりと語り合いたいという願いもありました。将来を見据えて準備をすることで、純連自身が先に逝ったときでも純次郎が安心して暮らせるようにしたかったのです。

 愛は奇跡のようなものです。それは取引や交換のような合意事項ではなく、深い絆や無条件の支え合いによって形作られます。時には、その愛が物質的な利益や条件を超えて、純粋な喜びや幸福をもたらすことがあります。愛は、相手の幸せを願い、自分の利益や利己的な欲望を超えて、深い絆を築くことができる力なのかもしれません。人は支え合いながら生きていく。そんなことを感じている純次郎と純連でした。もうすぐ今年も桜が咲く季節がやってきます。自然の流れに乗って…。

九話 人との絆、未来への架け橋

 言葉の力は、人との絆を深める上で欠かせないものです。日常のコミュニケーションから特別な瞬間まで、言葉が与える影響は計り知れません。困難に直面した時、励ましや支えの言葉や、握手やハグなどの身体的な触れ合いは、言葉だけでは表現しにくい感情を伝えることができます。その一瞬の触れ合いが、お互いの心を通わせるきっかけとなり、再び挑戦してみようという勇気と希望が湧き上がります。言葉や行動、身体的な触れ合いを共有する時間を通じて深まる絆は、人間関係の基盤であり、私たちの生活にとって欠かせないものだと感じています。

 私より7歳も若い純連と比べると、体力面でも大きな違いが現れます。50代の頃は年の差を感じることなく淡々と日々を過ごしてきましたが、60代になるとその変化を少しだけ感じるようになりました。それが60代から70代になると、その変化を実感として感じるようになりました。

「おい、また出かけるの? 今日もダンス教室か。最近痩せてきたんじゃないか」

「そうよ、ダイエットよ。ダンスのおかげなの。健康が一番なのよ」

「健康は大切だけど、ほどほどにしなさい。体力をつけるのではなく、維持することが大事だから」

「明日、銀行に行って電気と水道代の支払いをお願いできる? 通帳と印鑑はテレビの脇のタンスの三番目の引き出しにあるから。よろしくね」

「最近、いろいろと私に仕事を押し付けてくるねぇ」

純連は冷たくなったわけではなく、むしろ純次郎に自立を促すことで、お互いの独立性を高めようとしていました。彼女は自分が先に旅立った後でも、純次郎が一人でも生きられるように、という思いがありました。その行動には、純連の優しさと愛情が伝わってきます。

「温泉に行きたい。狭い風呂でなくて、思いっきり足を伸ばしてさ。温泉上がりの冷えたビールを飲みたいよ」

「そんなことより、ダンス教室に通ってみたらどう? 男性生徒が多いわよ。そこで友達の輪が広がって、何かを見つけられるかもしれないし」

「馬鹿だね。そりゃインストラクターの女性の先生がお目当てなんだよ。男の魂胆なんて浅はかなもんさ。何歳になっても男ってのは」

「きっかけなんて何でもいいじゃない。とにかく行ってみたら?」

「い・か・な・い。絶対に」

「もう遅いのよ。申し込んできたの。入会金も月謝も払ってきたし、もう行くしかないわよ」

「相変わらず純連って強引なんだから。俺の意見も聞かずに。本当に勝手なもんだよ。でも、ところでその先生って綺麗なのか?」

「とっても綺麗で上品な先生よ。歳は五十代後半くらいだと思うわ」

ダンス教室での出会いは、純連だけでなく、他の参加者の人生にも大きな変化をもたらしました。ダンスは身体表現の一つであり、自己表現の手段として機能します。参加者はダンスを通じて自分自身を表現することが求められます。このプロセスによって、参加者は自分自身の感情やアイデンティティを探求し、自己理解を深めることができます。自分自身をダンスの動きやリズムに乗せることで、参加者は自己の一部として認識することができるようになります。

ある参加者は、ダンスを通じて自己表現の喜びを見出しました。日常生活ではなかなか言葉にできない感情や思いを、踊りを通じて表現することができるようになりました。彼の踊りは、彼自身の内面の輝きを映し出しているかのようでした。

別の参加者は、ダンスを通じて自信を取り戻しました。過去の挫折や自己評価の低さに悩んでいましたが、ダンスの世界で自分自身を受け入れることができるようになりました。彼の成長は、周囲の人々にも影響を与え、彼らも自信を持って自分自身を表現するようになりました。

さらに、別の参加者は、ダンスを通じて新たな友情を築きました。他の参加者との共通の趣味や目標を通じて、深い絆を育んでいきました。彼らはお互いを励まし合い、困難な時には支え合う存在となりました。彼らの友情は、ダンス教室の壁を越えて日常生活にも広がり、彼らの人生に豊かさをもたらしました。

純次郎はリズム感がないのか、運動神経がないのか、何度教わっても上手く踊れず、一ヶ月でダンス教室を辞めました。その半年後、純連も辞め、二人の日々はまた穏やかなものとなりました。

こうした経験を通じて、純次郎と純連は、自分たちの強みや興味に焦点を当て、一緒に楽しめる活動を見つけることの重要性を学びました。二人は、互いの違いを受け入れ、尊重することで、より良い関係を築くことができることを理解しました。そして、一緒に行う活動を通じて、二人の人生は、ダンス教室での出会いやその後の経験を通じて、より豊かなものとなり、どんな困難な瞬間でも、お互いの支え合いと理解があれば、乗り越えられると信じています。

 草むらに囲まれた静かな公園。朝露が芝生に輝き、木々の葉はそよ風に揺れています。この穏やかな朝の空気に包まれながら、高齢者たちが早朝のラジオ体操に臨んでいました。新しい一日の始まりを告げるかのように、鳥たちのさえずりが聞こえ、空は朝焼けに染まっています。

毎朝、公園でラジオ体操に励む結城朋子と夫は、いつも仲良く、皆から愛されていました。しかし、最近、7歳年上の夫を亡くし、朋子は一人で生活を送るようになりました。彼女の表情には時折深い哀しみが浮かびますが、それでも微笑みを絶やさない姿は周囲の人々に勇気を与えていました。

朋子と夫はかつて書店を経営していたため、夫婦で12万円の老齢基礎年金を受け取っていました。さらに民間の個人年金にも加入しており、老齢基礎年金と個人年金を合わせて16万4000円を受け取り、それなりの生活を送っていました。彼らの生活は質素ながらも心豊かで、特に春の桜の季節は二人にとって特別な時間でした。

桜が咲く頃、二人は近くの公園や川辺に出かけ、美しい桜の花を愛でながらお弁当を食べ、一緒に散歩して過ごしていました。満開の桜の下で、朋子と夫は手をつなぎ、春の訪れと新しい始まりを感じることができました。この桜の花見の瞬間は、朋子にとって夫との絆を深める特別な時間であり、心に残る思い出となっています。彼女は、夫と共に過ごした桜の季節が二人の結婚生活にとって特別な意味を持つ素晴らしい瞬間であったと感じています。

子どもには恵まれませんでしたが、夫が得意とする料理を一緒に楽しんだり、年に何度か温泉旅行へ行ったり、ゆったりとした時間を過ごしていました。しかし、夫を失った後、朋子の生活は一変しました。家の中には夫の思い出が詰まった物が多く、孤独感が彼女を襲いました。

生活費を節約しようと、冬は暖房や夏はクーラーの使用を控えるようにしても、物価上昇には追いつかず、さらに削ったのは食費でした。年金支給日には、近くの業務スーパーへ徒歩で向かい、1食29円の冷凍うどんや冷凍のお惣菜を大量に買いだめしました。重たい荷物を抱えての移動は、高齢の朋子には苦痛でしたが、彼女はその辛さを誰にも言いませんでした。

そんな日々が一変したのは、9月初旬のことでした。日本年金機構から届いた緑色の封筒。それを手に取った瞬間、朋子の心は不安でいっぱいになりましたが、封筒を開けると「年金生活者支援給付金請求手続きのご案内」の通知が入っていました。朋子は目に涙を浮かべながら、その通知を見つめました。

この封筒が届いたのは偶然ではありませんでした。朋子の友人である純連が、朋子と共に年金生活者支援センターを訪れ、彼女の悩みや状況を詳しく説明したことで、年金生活者支援センターからの支援と協力を得て、この給付金を受け取ることができました。これにより、朋子の生活費の負担が軽減され、さらにこの給付金で朋子は生活の余裕を取り戻し、食事にも豊かさを取り入れることができました。この経験は朋子に新たな希望と前進へのエネルギーをもたらしました。この純連とのつながりが彼女の生活にポジティブな変化をもたらし、前向きな方向への一歩となりました。

 人と人のつながりは、美しい模様のように私たちの生活を彩ります。家族や友人との絆、または仕事や趣味を通じた新しい出会いなど、その綻びや交わりは、時には喜びや感動を与えるだけでなく、挑戦や試練ももたらします。これらの経験から、朋子は人とのつながりの大切さを再認識しました。互いに支え合いながら、未来へと進んでいくことが重要だと感じています。

 もうすぐ今年も桜が咲く季節がやってきます。自然の流れに乗って、朋子は公園に向かいます。満開の桜の下で、夫との思い出を胸に、未来への希望を抱いて新たな一歩を踏み出します。春風が優しく吹き抜け、桜の花びらが舞い散る中で、朋子はかすかな微笑みを浮かべ、これからの人生に対する期待を胸に抱きながら、静かに歩み出しました。

最終話 未来への手紙 : 大切な人へ伝えたい

 厳しい山岳の道を登り、静かな渓谷を歩み、広大な平原を駆け巡る。これら多様な景色を通じた遥かな旅路、それが私の人生の旅でした。この旅の中で、多くの絆を紡ぐ人々と出会いました。その中でも、純連との関係は私に深い意味を与えました。

古来から伝わる言葉「ありがとう」には、私の人生に与えた影響を示すに十分な意味が込められています。一緒に過ごした日々の中で共有した思い出や、心に残る出来事を振り返り、それらを具体的に伝えることができなくても、深い感謝の意は私の心の中に溢れています。

「愛しています」という言葉だけでなく、行動で示すことも大切だと感じます。料理を作ったり、掃除をしたり、一緒に洗濯物を干したりすることで、深い愛情を示せるのではないかと思っています。

尊敬の念もまた、大切な人との関係を深める上で欠かせません。その人の長所や才能を認め、尊重することで、関係性はより強固なものになります。声に出して褒めたり、支援したりすることで、尊敬の念を具体的に表現することができます。

言葉と行動の両方が組み合わさったとき、感謝、愛情、尊敬の意志は最も力強く伝わり、人生の旅路はより深まり、残された生活をより豊かなものにします。そんなふうに思えてなりません。

ですので、人生の総仕上げの時期に差し掛かっている今、これまでどんな生き方をしてきたのか、後悔のない生き方をしてきたのか、やり残したことはなかったのか、所願満足だったのか、有終の美を飾れることができたのか、といったことを考えるようになりました。若い日には考えることもなかったこれらの問いが、今、人生の総仕上げに差し掛かったからこそ心に浮かんでくるのかもしれません。

 今や見かけなくなったカセットテープ。カセットケースに丁寧に書き込まれたタイトルや曲目、そしてカラフルなシールや手書きのイラストで飾られた表紙。それはまるで自分だけの宝物であり、大切な気持ちを込めた手紙のようでした。

好きな曲が流れるたびに、当時の思い出や感情が鮮明に蘇ります。お気に入りの曲を聴くために、何度も早送りや巻き戻しを繰り返す日々がありました。デジタルの世界では感じられない、その手間と時間に音楽と共に成長し、夢を描いていました。

カセットテープの取り扱いもまた、青春時代のかけがえのない一部でした。テープが絡まった時の定番の対処法は、六角のえんぴつをテープの巻き取り部分に差し込み、カリカリと音を立てながらテープを巻き戻すのです。

何度も再生していくと、テープが伸びて音がかすれ始めることがありましたが、その「しゅわしゅわ」とした音は、音質が劣化しても、その時間の積み重ねを感じさせるものでした。ドルビーシステムを使ってノイズを軽減しながら、少しでもクリアな音でお気に入りの曲を楽しむ工夫も、今となっては愛しい思い出です。

そんなカセットテープを手に取ると、淡い青春の思い出がよみがえります。古びたカバーには、時の経過を物語る微かなシミや傷がこびりついています。手に取った瞬間、過去の記憶が甦り、友達とお気に入りの曲を交換したり、好きな人に自作のミックステープを渡したり、バンド仲間と練習曲を聴いたり、カセットテープはただの音楽の媒体ではなく、青春の証となるアーティファクトであったことを思い出します。

みんながそれぞれのカセットプレイヤーを持ち寄り、お互いのテープを聴き合った時間は、秘密基地に籠もった子供たちのような雰囲気で満ちていました。そんな音楽を共有する特別なひとときは、単なる音楽の交換ではなく、友情や愛情が詰まった感動的な瞬間でした。耳に残るあの昭和のメロディが、今も心に響き続けています。

 歳を取ったからでしょうか、夕飯時になると飽きずに同じことを何度も言います。テーブルの上には焼き魚のホッケや軟骨の焼き鳥など、温かい料理が並び、ほのかな湯気が立ち上っています。窓の外には夕焼けが広がり、部屋を柔らかなオレンジ色に染めています。

純次郎は気が短い。純連が触りだけ話した時点で、「それ何億回も聞いた」と言って、照れくさいからか遮ります。純次郎の顔にはほんのりと赤みが差し、目をそらすようにしています。純連は無視してそのまま自分の言葉に酔いしれながら話し続けます。

「私の美貌に酔いしれた男がやってきて、こんなふうに言うの、『純連さん、僕と一緒になって大邸宅で生活しましょう。こんなアパートではなく。とりあえずこの10億をどうぞ』って。でも、私はそんなの必要ないわ。今のこの幸せな人生には邪魔なだけよ。確かに純次郎には手間暇がかかるけど、それがまた幸せなのよと言って断るの。どう?私っていい人よね。こんないい人めったにいないんだからね」

純次郎はため息をつきながら「はい、はい。ありがとう。涙が出るほど嬉しいよ」と言います。

「ところで純次郎さん、最近出かけなくなったわね。新しい出会いや新しい友達を増やすことが大切よ。コーラス愛好会に参加してみたら?たくさんの人との出会いが生まれるかもしれないから」

「いや、遠慮しておく」

「どうして?昔だったら家に閉じこもっていなかったのに」

新しい出会いも好きで、友と過ごす時間も好きだが、人生の総仕上げに差し掛かった今、あとどれだけの時間が残っているか分からない。それを考えると、残された時間は純連と二人で過ごしたい。それだけが望みなのである。純連はグラスを持ち上げて「乾杯!今日も1日ありがとうございます。お疲れ様でした」と声をかけます。グラスが軽くぶつかり合う音が響き、部屋に和やかな空気が流れます。

 振り返れば、純連と一緒に生活をするようになってからも、レストラン「純連」の人手不足で、二人で過ごす時間はほとんどありませんでした。スタッフの管理やトレーニング、メニュー開発、調理、顧客サービス、オーダー管理、清掃、衛生管理、在庫管理、調達、運営管理業務、そんな日々が続きました。

その中でも大変だったのが日替わりメニューです。地元の新鮮な食材を使い、地産地消を推進するために、地元の農家や漁師とのマッチング会を開催し、新しいメニューを考案していました。春には、山菜を使った天ぷらをメニューに加え、ほろ苦い山菜と衣のサクサクした食感で、春の訪れを感じさせました。夏には、地元産のトマトやバジルを使った冷製パスタが人気を博しました。一口食べると、爽やかな酸味と香り高いバジルの風味が広がり、夏の暑さを忘れさせるような爽快感を味わっていただきました。

月に二回の定休日でも、ケータリングの依頼が入れば休みを返上して取り組んできました。ケータリングサービスは、店の評判をさらに高めるための重要な宣伝活動だったからです。

厨房の熱気や食材の香りが染みついている体のまま夜遅くに帰る。早朝には仕入れのために薄暗いうちから家を出る。そんな毎日でした。硬直した指を一本一本優しくマッサージしてくれたり、どんなに遅く帰宅しても疲れを吹き飛ばす手料理で出迎えてくれたり、そんな私をいつも笑顔で支えてくれたのが純連なのです。

「ねえ、純次郎さん、もうそろそろね。これで区切りがつけられるわね」と純連が穏やかな笑みを浮かべながら言った。彼女の目には、少しの疲れと安堵の光が宿っていた。
純次郎は、長年の苦労が一気に押し寄せるように深く息をつき、「そうだな。純連にはずいぶん苦労をかけたからなあ」としみじみと答える。その声には、感謝と愛情が込められていた。
純連は、柔らかな手で純次郎の肩を軽く叩きながら、「すべてやりきったわね」と優しく言った。彼女の声には、確かな誇りが感じられた。
純次郎は、瞳を細めながら微笑み、「そうだ。やりきった。後悔はないよ」と答えた。その言葉には、長年の努力が報われたことへの深い満足感が滲んでいる。
「安心してゆっくり休んでください。お疲れさまでした」と純連が静かに言い、彼の手をそっと握る。彼女の手は温かく、包み込むような優しさに満ちていた。

 純次郎が歩んできた日々は、多くの試練や困難に満ちていましたが、それらを乗り越え、使命を果たすことができました。その結果、純次郎は満足感と達成感に包まれています。70歳を迎えた純次郎が、レストラン「純連」を引退できたのは、どんなに辛くても純連と力を合わせ、逃げずに挑んできたからでしょう。純次郎は思っています。今まで貢献し続けた純連に、心からの感謝と敬意を捧げたい。彼女の尽力がなければ、この旅路は成し遂げられなかったでしょう。そして今、これまでの忙しさから解放され、時間の贅沢なひとときを過ごせる。そんな旅が待っているのです。

 旅路は、街から街へと延び、その途中で見る風景は刻一刻と変わり、新たな驚きが待ち受けています。古びた木造の家々が道端に佇み、流れる時間の息吹を感じさせます。川沿いの散歩道には色とりどりの花々が咲き誇り、道路沿いに並ぶ地元の露店からは、その土地の文化や味覚を感じさせてくれます。

郷土料理もまた旅の醍醐味のひとつで、その土地ならではの風味が広がります。新鮮な海の幸や山の幸、季節の野菜が織りなす料理は舌を喜ばせ、心を満たしてくれます。食卓を囲みながら地元の人々と触れ合うことが、旅の思い出に彩りを添えます。道端での些細な出来事や共通の興味を持つ人との出会いが、心に残る特別な体験となるでしょう。

静かに美しい旋律に耳を傾けながら、新たな風景や出会いに触れる旅路。旅のもうひとつの楽しみは温泉です。日々の疲れを癒す至福の時間であり、湯気が立ち込め、星空を仰ぎながらの入浴は心身を浄化し、新たな活力を与えてくれます。

湖畔での車中泊では、風がそよぎ、鳥のさえずりが響き渡り、自然の美しさに触れ、心が静まる貴重な時間です。このような贅沢な時間を共に過ごす旅は、純次郎と純連の心に深く刻み込まれていくことでしょう。

 そんな旅は大宮から始まり、馬籠宿へと続きます。その古き宿場町は、中山道に佇み、江戸時代の面影を今に伝えています。石畳の道が風情を醸し出し、古の建造物がそびえ立ち、まるで時が止まったかのような雰囲気に包まれたその町に足を踏み入れました。

町の中心には藤村記念館があり、明治時代の文豪である島崎藤村の生誕地として知られています。彼の足跡や創作活動に触れることができ、かつての本陣跡も再現されているため、当時の雰囲気を存分に味わうことができます。馬籠宿での地元の食材を活かした料理も絶品でした。馬籠蕎麦や山の幸を使った料理は、地元ならではの味わいで、特に栗こわめしや五平餅などの郷土料理は、町の歴史と文化を感じる一品です。地元の風土や人々と触れ合いながら、新たな発見をするのが旅の醍醐味だと実感しました。

 次に訪れたのは京都の嵐山です。美しい自然と歴史的な名所が融合したこの場所には、多くの外国人観光客も訪れ、彼らが嵐山の風景を楽しむ姿が目に映りました。その光景はまるで異国の地にいるかのようで、日本の美しさが世界中の人々を引きつけていることを実感しました。

竹林の小径を歩きながら、心は静寂と緑の美しさに包まれました。渡月橋に立ち、川面に映る月影を眺めると、まるで時が止まったかのような錯覚に陥ります。

渡月橋から少し歩くと、鎌倉時代に創建された天龍寺が見えてきました。この禅寺は、広大な庭園と重要文化財の建造物で知られています。庭園の中を散策しながら、歴史の深さと自然の美しさに触れました。庭園の池に映る紅葉が風に揺れ、心が洗われるような気持ちになりました。

嵯峨野トロッコ列車に乗って、嵐山から嵯峨野へと向かいます。窓から眺める風景はまさに絵画のようで、緑豊かな山々と清らかな川が広がります。その風景に見惚れながら、列車はゆっくりと進んでいきました。車内に響くトロッコ列車のリズミカルな音が、旅の心地よいアクセントとなりました。

嵐山の特産品もまた、旅の楽しみの一つでした。地元の抹茶や和菓子は、口に広がる繊細な甘さと深い味わいが、心地よい時間をもたらします。竹細工や嵐山焼などの工芸品も手に取り、その美しさと職人の技に感嘆しました。

嵐山での滞在を惜しみながら、次の目的地への思いが膨らみます。旅の醍醐味は、新たな場所での出会いや発見にあります。嵐山での時間は、心に深く刻まれる素晴らしいひとときでした。

 和歌山は、南高梅やみかん、梅干し、紀州漆器などで知られる特産品の宝庫であり、その中でも和歌山ラーメンとアジフライは地元の人々や観光客に愛されている逸品です。和歌山ラーメンは、梅肉エキスを使用した独特のスープが特徴で、その風味が絶品と評判です。和歌山ラーメンの歴史は興味深く、和歌山市内の南海和歌山軌道線の車庫前駅周辺で始まりました。戦後まもなく、屋台の中華そば屋「丸髙」がこの地で営業を始め、その後、他の屋台もこの味を模倣するようになり、和歌山ラーメンの系統が形成されました。

現在では、和歌山市内をはじめ、和歌山県内のさまざまな地域で和歌山ラーメンを楽しむことができます。それぞれのお店や地域によって独自のアレンジが加えられており、個性豊かなラーメンが楽しめます。

私が和歌山に立ち寄った大きな理由は、地元の食文化として根付いている和歌山ラーメンを堪能したかったからです。その濃厚な味わいと独特の風味は、和歌山の魅力を存分に味わうことができました。

 私たちの旅は目的地に急ぐことではなく、途中の景色や出来事を楽しむ時間の贅沢を味わうものです。のんびりと寄り道をしながら、気がつくと3日間もかけて広島に到着していました。

厳島神社は、世界遺産に指定された美しい場所です。海に浮かぶ鳥居は、訪れる人々に圧倒的な印象を与えます。

その地で、もみじ饅頭や広島風お好み焼き、そして広島の牡蠣など、地元の特産品を楽しむことができます。特に、広島風お好み焼きや牡蠣料理は、この地域ならではの味覚体験ですが、私はモツ鍋を楽しみました。

牛のモツや野菜を豚骨スープで煮込んだこの料理は、濃厚な味わいが特徴で、地元の食材を使った丁寧な仕上がりが魅力です。牡蠣料理、そしてモツ鍋など、地元ならではの美味しい料理を堪能することができました。

 長崎といえば、美味しいカステラやさだまさしさんの名前が真っ先に浮かびます。この街は幕末の歴史と外国文化の影響を強く受けた都市として知られ、グラバー園や長崎ランタンフェスティバルなど、見どころがたくさんあり、多くの人々が訪れます。特に外国からの訪問者も多く、その点には驚きました。

グラバー園は、幕末に長崎で活動していたイギリスの商人トマス・グラバーの邸宅を再現した庭園で、西洋風の建物や美しい庭園で、長崎の歴史や外国文化の影響を感じることができます。

長崎ランタンフェスティバルは、毎年8月に開催されるイベントで、数万個のランタンが飾られた美しい光景が広がり、長崎の歴史や文化をテーマにしたランタンが展示されるようです。残念ながら私たちが訪問した時は開催されていませんでした。

長崎は、幕末に外国との交流が盛んに行われた場所であり、その影響が今も残っているためか、外国からの訪問者が多く、長崎の国際的な雰囲気が魅力となっています。

 その後、鹿児島、大分、そして鳥取砂丘へ足を運び、さらに舞鶴からフェリーに乗って北海道の小樽へと渡りました。南国の風情あふれる鹿児島では、温暖な気候の中で優雅な桜が咲き誇り、大自然の美しさに圧倒されました。大分では、温泉地を訪れ、癒しのひとときを過ごしました。鳥取砂丘では、広大な砂漠のような景色が広がり、その雄大さに感動しました。

舞鶴からのフェリーは、静かな海をゆっくりと進み、北海道の小樽へと到着しました。小樽では、レトロな運河や風情ある街並みを散策し、新鮮な海の幸を味わいました。礼文島、旭川、富良野を巡る旅では、雄大な自然と豊かな風景に触れ、心が洗われるような体験をしました。

そしてそこから秋田の男鹿半島へと向かい、荒々しい海岸線や神秘的な岩場を訪れました。新潟では、美味しい地元料理を楽しみながら、穏やかな田園風景を眺める贅沢な時間を過ごしました。

 旅は、自然と人々の交わりが織りなす美しい物語です。古い街並みに寄り添う木造の家屋、色とりどりの花々が咲き誇る庭園、海の幸や山の幸、そして季節の野菜を使った料理。星空が輝く静かな田園風景など、その一つ一つが心に深く残り、貴重な記憶となります。出会った人々の温かさも忘れがたいものです。古びた小さな喫茶店で出会ったおばあさんの笑顔、田んぼの手入れをする農家の夫婦が手渡してくれた新鮮な野菜の数々、そして夕暮れ時に聞いた子供たちの笑い声が、今でも耳に残っています。

一方で、外国人観光客のマナーの問題が目につきました。私道やプライベートの敷地に入り込んでの写真撮影やゴミのポイ捨てなど、日本のルールを守らない彼らの行為は残念です。日本の美しい風景や文化を守るためには、観光客一人一人がルールを守り、マナーを尊重することが重要です。外国人観光客に対して、日本のルールやマナーをもっと広く知らせるための取り組みが必要だと感じました。

 純次郎と純連は、大宮に戻り、一ヶ月の旅を無事に終えました。この旅を通じて、自然の美しさや地域の文化に触れ、新たな視野を開くことができたようです。この旅の思い出は、『未来への手紙・大切な人へ伝えたい』として残されていくことでしょう。

二人の人生がいつまで続くかはわかりませんが、時には深く、時には広く浅く、紆余曲折を乗り越えながら進んでいくことでしょう。その終わりがどのような形で訪れるかは未知数ですが、「いい人生だった」と言って終着駅に到着できれば、それが最高の有終の美です。

「純次郎と純連がいつまでも幸せでありますように。生命は永遠なのですから…」

#創作大賞2024

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