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鱗光と影(前編)

昼の町中は、行き交う人々の話し声がよく響く。大通りともなれば、道の両脇に並ぶ店の客引きの声がそれに混ざって、些か騒がしいくらいだ。

 カホは大通りの端を、緩やかに歩いていた。草履が足元を擦る度、淡く紅色に染まった着物の裾が足首の少し上を叩く。ちらと道の向こう側を見た拍子に、日の光が白い頬を撫でる。視界の隅に入った何人かの男達が、慌てて視線を逸らすのが見えた。

 カホは内心で溜め息を吐き、道を渡るべく足を止める。この町ではカホのように色の白い娘は少なく、男達から不躾な視線を向けられる事が珍しくない。

 通りを挟んだ向かいにある、蝋燭屋がカホの家だ。カホは父に頼まれ、問屋に届け物をして来たばかりだった。

 人通りが少なくなった頃合いを見計らい、通りを渡り始める。ごとごとと、荷車を引く音が遠くに聞こえた。

 荷車が来る前に、通りを渡り切る事が出来るだろう。カホのそんな思い込みは、幅広い道を半ばまで進んだところで裏切られた。

 前へ進むべく踏み出そうとした右足が、何かに押さえ付けられたかのように動かない。慌てて軸足を左へ移そうとしても、同じ事だった。

 荷車を引いている者は急いでいるらしく、車輪の回る音が瞬き一度ごとに迫り来る。忙しい鼓動を耳元で聞きながら、カホは動かぬ足に力を入れ続けた。

「危ない!」

 店の中から飛び出した男が、カホの腕を掴んで引っ張る。力強く引かれた体は道の中央を越え、店の軒先まで移動した。荷車が、背中のすぐ後ろを通り過ぎて行く。

「お嬢さん、あんな所で立ち止まっちゃいけませんよ。もう少しで大変なことになるところでしたよ」

 カホの腕を引いてくれたのは、蝋燭屋で働く奉公人だった。窘める声が耳に心地良く、カホは耳殻に熱を感じながら俯く。

「すみません。急に足がつってしまって……」

「えぇ? 大丈夫ですか? なんなら、ひとっ走りお医者を呼んできても……」

 奉公人の申し出に、カホは緩やかに首を振った。

「いいえ。もうなんともありませんから。お仕事に戻って下さい」

 奉公人はまだ納得が行かない様子だったが、ふうと小さく溜め息を吐いて店の中へ引っ込む。

 カホは騒ぐ鼓動を抑え付け、荷車の去った通りを振り返った。

 また、だ。

 声に出さずそう呟く。

 足が自分の意思を離れ、急に動かなくなるのは今が初めての事ではない。今回のように荷車に轢かれかけた事も、釣り場で体勢を崩し海に落ちかけた事もある。

 ――困りごとがあるなら、呉服屋のハヅキって娘を訪ねるといいよ。

 知人のミヤコの声が脳裏を過る。

 カホは僅かに俯いて、右手をぎゅっと握り締めた。

 早朝の魚市場は、当然のように磯臭い。ハヅキは中に水を入れた手桶をぶら下げて、混み合う市場を澱み無く歩いていた。

 前方から弱い風が吹き、まっすぐ切り揃えた髪の毛先が顎の辺りを撫でて行く。鮮やかな赤に黄の格子が入った着物の裾が、少し捲れて金魚の尾めいた動きを見せた。

 魚市場には、いかつい男が多い。けれど彼らがハヅキを気に掛ける様子は無かった。ハヅキがここに出入りするようになって、年が何度も明けている。もはや馴染みの客だと思われているのだろう。

 市場の中央から少しばかり外れた先。人気がまばらになったところで、ハヅキは歩調を緩めた。手桶の水がちゃぷんと波打つ。

 そこから更に、奥へ四歩ばかり。ハヅキは、俯いて木桶の中を覗いている男の前で足を止めた。

「今度は何匹必要だ」

 男はハヅキの顔を見ようともせず、低い声で言う。相変わらず、愛想というものを持ち合わせていない男だ。

「三匹ばかりくれないか。この前買った分は、もういなくなっちゃってね」
 手桶を男の前に置くと、短く息を漏らす音がする。

「人使いの荒い娘っこだな。先が思いやられる」

「あたしだって、好きでやってるわけじゃないんだけどね」

 ぼやきに近い呟きが、男を見る目を半眼にした。男はそれ以上何も言わず、木桶の中から魚を一匹取り出す。

 水から出されてのたうつ魚の体が、薄い朝日を受けて虹色にきらめいていた。男の両手にすっぽり収まってしまう大きさの魚は、七色に輝く鱗を持っているのだ。

 この奇妙な魚が何処に住んでいるのか、ハヅキは正確なところを知らない。この男からしか買えない。それだけ分かっていれば、ハヅキとしては十分だ。

 瞬きを四度ばかりしている間に、男は虹の鱗を持つ魚をハヅキの手桶へ移し終えていた。数は三匹。確認して、袂から財布を取り出す。

「今日は幾らだい?」

「そうだな。このところ不漁ぎみだから……」

 男の告げた金額に、ハヅキはほんのりと眉を寄せた。ハヅキの着ている着物が、五着は作れる値段だ。

「はいよ。まったく、阿漕な稼ぎ方だね」

 男は何も言わず、ハヅキが支払った金を確かめて懐に入れる。

 金のやり取りが終わると、ハヅキは魚の入った手桶を片手で持ち上げた。

「足りなくなったらまた来るよ。それまで、捕まえたやつを死なせないどくれ」

「そっちこそ、使い過ぎるんじゃねえぞ」

 ふんと小さく鼻を鳴らして、ハヅキは踵を返す。歩き始めると、手桶の中で魚が軽やかな水音を奏でた。

 魚市場から自宅へ戻った後、ハヅキは手桶をいつもの位置に置いて着物を着替えた。呉服屋の娘が、店先で生魚の匂いを漂わせているのは好ましくない。

「ハヅキ! 戻ったんなら品出しをしとくれ! さっき問屋が置いて行った分があるからね」

「あいよ」

 母の声が飛んで来て、ハヅキは店の裏に回った。着物用の織物が、きっちりと折り畳まれて裏口に四角い柱を作っている。

 ハヅキは上から数枚を手に取って、表に出た。空きが出来ている店先に、織物を一枚ずつ丁寧に広げて敷いて行く。ハヅキの母と同年代に見える女が、新しく現れた織物に目線を移した。

「何かお気に召したものがありましたか?」

 母の問いに、女はちらとハヅキを見て口元を綻ばせる。

「娘さんの着物、うちの娘にも似合うと思うんだけど……どれが一番近く仕上がるかねえ」

「それでしたら、こちらの織物がよろしいかと」

 母と女の会話を聞きながら、ハヅキはふうと安堵の息を吐く。呉服屋の娘として、雛形の役目は果たせているようだ。

 持ち出した織物を全て店先に並べ終えると、残りを取りにまた裏へ回る。織物の柱が裏口から消えた時には、日が天辺近くまで昇っていた。

「あの……」

 そろそろ昼餉を取るか。そう考えたハヅキの耳に、か細い娘の声が転がり込んだ。見れば、淡い紅色の着物に身を包んだ、色の白い娘が店の前に立っている。

「いらっしゃいませ。何をお探しでしょうか」

「あなたがハヅキさん、ですか?」

 愛想を振りまいたハヅキに、娘は強張った唇を動かして問いを投げ掛けた。ハヅキは胸の奥を、柔らかな針のようなものが撫でるのを感じる。

 見たところ、娘はハヅキより少しばかり年嵩のようだった。切れ長の目は僅かに伏せられ、長い睫毛が頬に小さな影を落としている。

 ただの客ではない。ハヅキの直感がそう告げた。

「確かにあたしがハヅキですけど……どなたかからお聞き及びで?」

「知人の……ミヤコという娘から、教えて貰いました」

 娘が俯く動きに合わせて、豊かな黒髪が背を滑る。毛先の近くで髪を一つに束ねる細布が、艷やかに光った。

 淡紅の着物と同じく、上等の布で出来ている。ハヅキの家程度の呉服屋では、仕入れる事すら出来ない代物だ。

「ミヤコさんは、あたしのことを何と?」

「困っている事があるのなら、呉服屋のハヅキさんを訪ねるといいと……」
 あっち絡みか。

 ハヅキは確信と共に、唇へ貼り付けていた愛想笑いの名残を消した。

「ここじゃなんですから、奥に来てくれますかい? 狭い所で恐縮ですけどね」

「は、はい……あ、あの」

 すっと踵を返したハヅキの後を、草履の音が慌ててついて来る。店内へ入ると、娘は小さな声で言葉を紡ぎ始めた。

「申し遅れました。私はカホと申します。蝋燭屋の娘です」

 蝋燭屋のカホ。ハヅキは脳裏に引っ掛かるものを感じながら、店の奥へと歩を進めて行った。

 店内の客達が、カホにちらちらと無遠慮な視線を投げ掛ける。無理も無い。この店とカホのような娘は、あまりにも不似合いだ。

 履物を脱いで、客間へ続く廊下に上がる。母へそっと目線を向けると、心得たとばかりに頷いてくれた。

 カホを先に客間へ通し、台所で茶を入れる。盆に湯呑みを載せて客間へ行くと、カホは座卓の前で正座をしていた。背筋は伸びていたが、顔が俯きがちなのは変わらない。

 どうぞと差し出した茶托に湯呑みを置き、ハヅキはカホの向かい側に座る。瞬きを二、三度するばかりの時間を置いて、カホは湯呑みを手に取った。

「それで……何でお困りで?」

 カホが茶を一口飲み下すのを待ってから、ハヅキはそう切り出す。湯呑みを茶托に戻したカホが口を開くまで、それから更に長い呼吸を一度するだけの時が必要だった。

「……呪詛を、受けているかもしれないのです」

「穏やかじゃないですねぇ。そう思う事がおありですかい?」

 カホがゆっくりと頷く。

「春になった頃から、突然、足が動かなくなる事があるのです。それも、往来の真ん中や、釣り場のような危ない場所で」

 先日も、急ぎで通りを駆ける荷車に撥ねられそうになったのだと、カホは続けた。

 ハヅキはカホの面差しをじっと観察していた。色の白い娘ではあるが、それを差し引いても顔色が良くない。目の周りなど、些か青褪めて見えるほどだ。

 見える範囲に目立った傷は無い。けれど、湯呑みに触れる指が、細かに震えている。何かに健康を害されかけている可能性は高い。

 足が動かなくなるという不可解な事象を併せて考えれば――恐らく、カホ自身が言う通り、呪詛をかけられていると判断するのが自然だ。

「呪詛をかけて来る相手に、心当たりはおありで?」

「……先程も申し上げました通り、私は蝋燭屋の娘です。主に、櫨蝋燭や絵付き蝋燭を売って生計を立てております」

 繰り返されて、ようやくハヅキは気付いた。櫨蝋燭の店と言えば、この町一番と言って良いほど羽振りの良い店だ。

「年齢が年齢ですので、縁談がよく持ち込まれるのですが……全てお断りしております。その事で恨みを買っているかもしれません」

 想う方がいるのですと、カホは湯呑みの中を見詰めて続けた。顔色がほんの少しだけ良くなる。

 大きなお店の娘なら、自由に恋をするなど許されないだろう。いずれは何処かへ縁付く事になる。けれども、その時を少しでも先送りにしたいという思いは、ハヅキにも理解が出来た。

「お話は分かりました。ちょいとお待ち頂けますかい」

 カホが瞬きをする間に、ハヅキは立ち上がって客間から出た。足早に廊下を通り、自分の部屋へ行く。

 衣装箪笥の一番下を開け、ハヅキは中身を吟味した。織布を何枚から取り出し、畳に並べた後で、一枚を選ぶ。白地に緑で渦のような模様が織り込まれた布だった。

「お待たせしました」

 客間へ戻り、ハヅキは選び取った織布を座卓に広げて見せる。あまり馴染みの無い模様を前に、カホはしきりに瞬きを繰り返していた。

「この模様には、魔除けの効果がありましてね。ちょっとした呪詛なら跳ね返せます」

 折り畳んで、袖に隠れるように腕へ結んでおけば、呪詛から身を守る事が出来る。そう説明を加えると、カホの顔に仄かな光が差した。

「ありがとうございます。使わせて頂きます」

「お代は、効果が出てからで結構ですよ」

 織布を畳み、左腕へ結ぶカホの様子を、ハヅキはじっと見詰めていた。