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妻の写真。

病気になってから写真が変わりましたか?

よく聞かれる質問だ。
写真が良くなったとか、撮らなかったものを撮りだしたというような趣旨の答えを期待されるのかもしれないけど、現実はそんなにスイーティーではない。

撮りたいもの撮るというシンプルな価値観なので、健康だろうが病気だろうが撮る写真は変わらない。べつに写真家だからとかではなく誰だってそうだとおもう。

ネコが好きな人はネコばかり撮るし、美味しいご飯が好きな人は料理の写真ばかり撮る、自分が好きな人は自分ばかり撮る。
スマホのカメラロールを見ればその人の好きなものがよくわかる。

タレントの方々がガンを公表するとき前向きな言葉で、みんなに夢や希望を与えるのだけど、ぼくはタレントではないので夢のない話しちゃうんだけど、病気になって写真が上手くなることはない、むしろ写真は下手になった。

下半身が麻痺した後遺症のようなものなのか、ぼくは平衡感覚がわからなくなるときがある。

片目をつぶりカメラのファインダーをのぞき、そのまま空を撮ろうと上を向くということをすると、倒れそうになる。

そもそも空を見上げて撮ることがないからまったく困っていないのだけど、目薬をさすときがいちばん困る。

後ろに倒れそうになるのでイスに座っていないと危ない。

ここまで書いていて気づいたけど、写真が下手になった話じゃなくて、目薬をさすのが下手になった話になってしまった。

写真にかぎった話ではなく、病気になってから技術が向上するというのは難しいことだとおもう。

手品が上手くなることも、会話が面白くなることも、頭が良くなることも、目薬をさすのが上手くなるのも難しい。

技術を上達させるというのは、貯蓄に似ている。健康で自由にバリバリ動けるときのほうが貯蓄がしやすい。

いまのぼくはどちらかというと貯蓄を切り崩しているようなものだけど、それは決して悪い話ではない。

写真を撮るのも目薬をさすのも下手になったけど、それがいまのぼくだからそれでいいのだ。

ひらがなを多用して読点を使わずに“それでいいのだ”でしめるとバカボンのパパみたいになっちゃうけど、本当にそれでいいのだ。

上手いか下手かではなく、好きか嫌いかの世界だ。そんな優しい世界で生きていてよかった。

ぼくの撮る写真は変わらないけど、妻の撮る写真が変わった。

そもそも妻は写真を撮るタイプの人間ではない。夫が撮ってくれるから私はいいや、というどこか人任せな性格の人間でもある。

妻が初めて息子とぼくを撮ってくれた写真がこれ、ぼくにとっては斬新な写真だった。

たかいたかいをしている夫を撮るか、はしゃぐ息子を撮るか悩み、ピントは息子にアングルは夫の写真。
その後、カメラを上にふってアングルを息子に選んだけど、ピントがきていない。

ぼくだったら一歩引いて全体を撮るのだけど、そこに妻の人任せな性格が反映される。

私は動かない、という決意にも似た意思を感じる。これは息子とぼくをうつしつつ、妻の迷いと性格がうつっている。

ぼくはこの2枚の写真が大好きだ。

さいきん人から指摘されて気づいたのだけど、ぼくは写真を撮るときに何枚もシャッターをおす。

一枚撮って終わり、ということがない。それを妻はシャッター音で聞いているためか、撮り方がぼくと同じで連続して何枚もシャッターをおす。一連の流れを動画を撮るように写真を撮ってくれる。

妻に写真の撮り方を教えたわけじゃないけど、ぼくの写真に似ていると感じることがある。あまり似てほしくないから、あえて写真のことを教えないのだけど、ぼくの撮り方と写真を見ているせいなのかよく似てる。

妻の撮る息子とぼくはいつも笑っている。

妻の写真がぼくの病気をきっかけ変わったのは、息子と夫の写真を撮るという必要性を感じているからなのかもしれない。

ぼくが息子を撮らなければと感じたように、もしかしたら妻は夫を撮らなくてはと感じているのかもしれない。

ぼくは妻の撮る写真が好きだ。

さいきんいろんなメディアから取材をうけるけど、だいたいみんなぼくの写真を撮るときに少し緊張している。

“いやぁー、写真家さんを撮るのって緊張しますねー。”なんて口を揃えていうけど、プロとして生計を立てているカメラマンまで同じことをいったりする。

撮影者の緊張は被写体のぼくに丸わかりだ。
そしてぼくは撮り慣れてても、撮られ慣れてないので緊張が伝染するんスよ。

記事内容にかかわらず写真に関してはお互いあまりいい結果にならないので、さいきん取材を受けるときは妻の写真を使ってほしいとこちらからお願いしている。

子育てのウェブサイトConobieにて妻の撮った写真が使用された。ちゃんとクレジットに妻の名前が入っている。

息子に知ってほしいのは、相手に気持ちを伝える方法。

「いい写真ってなんだろう。」答えは息子が教えてくれた。

ありがたいことに2本も記事にしていただいた。記事内容は“ぼくが子どもの頃、ほしかった親になる。”から抜粋したものです。

本当にありがたいことに書籍は5回目の重版が決まりました。

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幡野広志
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