書店が消えた日

2024年8月18日、書店が消えた。正確に言うと、百貨店のなかにあるフランチャイズの書店が館ごと閉店した。なので、書店ではなくて書籍売り場の閉店ということになるのだろう。だが、私は自分がいた場所のことを書店だと思っている。そこで働いていたスタッフのことは百貨店の従業員ではあるが、同時に仲間のことを「書店員だった」と今でも思っている。

書店がオープンしたのは、今から8年前の1996年8月のことだ。私はもともとある書店チェーンに勤めていたが、1992年3月にテナントとの契約上の理由で閉店となった。いわゆる大型店で、当時はTwitterでも話題になったので、店名を言えば「ああ」とわかる人もいるかもしれない。

その後は関連会社を転々としたが、実店舗に勤務することはなかなか叶わなかった。そんなとき、地元にチェーン店の新規の店舗がオープンすることを知ったのだ。「ここで、働きたい」そう思った。そこがチェーン店の直営店ではなく、百貨店が運営するフランチャイズであることも、当然現在の勤め先を辞めればチェーン店の人間ではなくなることも覚悟して、新たにできる店舗に飛び込んだ。

今でも、覚えている。百貨店の書店に入社した当時はオープン前で、書店の従業員は私を入れて11人足らずだった。正社員は店長のみで、あとは契約社員が3人、それ以外は実質パートやアルバイトと変わらない雇用形態だった。店舗面積はおよそ250坪、在庫数は15万冊。かつて勤めていた大型書店に比べたら、数分の一にしかならない規模だった。

書店勤務経験のあるのは、私を入れて3名ほど。それ以外は、まったくの未経験者だった。百貨店の他の売り場にいた従業員が、書店の開店に伴い異動してきたという。これまで見てきた、どの書店とも違う。いわゆる、素人ばかりのお店だったかもしれない。でも私は、たちどころにこのお店が好きになってしまった。

オープンに関しては、屋号を借りているチェーン店のベテラン陣が商品手配をしたらしく、しばらくの間はチェーン店のスタッフが通って各ジャンルのスタッフに書店の仕事について教えてくれた。「直前まで勤めていた書店チェーンの、屋号を借りたフランチャイズに新たに勤める」というかなり特殊な立ち位置になった。

私の担当ジャンルは、文庫と新書と文芸書になった。私に関しては、かつて閉店した大型書店で文庫を担当していたときの上長が研修の担当だった。私がそこにいることに驚きこそあったようだが、文庫と新書について補足として研修を行い、文芸書に関しては別の方に教わった。

本のことを何もわからない人間ばかりのスタートだったが、不思議と不安はなかった。スタッフの年齢層が高いということもあり、女性のスタッフが多い職場にありがちな人の噂話や悪口がまるでなく、居心地が良かったというのもある。

むろん、本のことは何もわからない人ばかりではあった。けれど、その「わからない」ときに手を抜いたりは決してしなかった。誰かが問い合わせで苦戦していれば、私は何度でも話を聞き取って調べものを手伝い、一人一人、お客様に対して丁寧に接客した。

かつていた、都内の大型書店とは規模も在庫数も来客数も比べものにはならない。スピード重視で、ほんの少し遅れただけで怒りだすお客様もいない。ご年配のお客様が多いということもあって、スタッフが多少待たせてしまったとしても「いいよ、いいよ」と鷹揚に笑顔で接してくれた。気づくと、私はこのお店が大好きになっていた。

むろん、心配なこともないわけではなかった。私が子どもの頃はこの百貨店にもっと来客数が多かったと記憶していたが、いくつも入っていた売り場が撤退し、従業員も少なく、何よりもお客様の数があまりにも少ないのだ。それに応じて、当然書店を訪れるお客も少なかった。なまじっか大型書店にいたぶん、「この来客数や売り上げで、やっていけるのか」という不安は日に日に強くなっていった。

それでも、とても楽しかったのだ。ここには、かつていたような嫌がらせを行う人物もいない。以前勤めていたところでは、そういったことがさまざまなフロアで行われており、私もその被害にあっていた。けれどこのお店は、優しい人ばかりだった。

出版社にゲラやプルーフを申し込み、感想コメントを送り、それを拡材や新聞広告に使ってもらえたりすることが、どれだけ楽しいかを知った。ときにはPOPを描き、入荷こそなかったものの確実に「売れる」と判断した商品を手配し、それをすべて自分一人のアイデアでできる。そんな日々が、楽しくて仕方なかったのだ。

それに暗雲が立ち込めたのは、2019年の秋のことだ。私はある自然災害に遭遇し、自宅の2階で迫りくる水から避難し、住む家も持ち物もあらかた失った。この先、どうすればいいのかもわからない。やむなく仕事はしばらく有給を利用して休み、家の片付けやさまざまな手続きを進め、やがて家賃の補助を公費で賄ってもらえる制度を使ってアパートに家族と住み、少しずつ生活を立て直して行った。

市役所やNPOやボランティアの人たち、Twitterの「ほしい物リスト」を通して手を差し伸べてくれた、顔も名前も知らない人たち。さまざまな人たちに助けられて、毎日を生きてきた。何より、職場の人たちの助けがある。

テレビや着るものを譲ってくれて、テレビの設置まで手伝ってくれた人がいた。不要な食器などを譲って、アパートまで車で運んでくれた人がいた。そして、私が休みを取っている間、レジの時間を分担したり、私の担当ジャンルの書籍を棚に並べてくれる人がいた。

家のことがある程度進んでからは出勤を再開したが、当時はさまざまなことが重なり不調がひどく、食べものの味さえわからなかった。諸事情でほぼ一人で動いていたこともあり、一人四役のような日々だった。

夜は眠れず、朝早くから夜遅くまでやることばかりで、眠気が取れず、生活への不安が頭から離れず死さえ浮かんだ。何かとお世話になった、NPOの代表者の方のアドバイスで心療内科に行くことになり、そこで「うつ病だ」と診断された。
それを職場の正社員の女性に相談したところ、「みんなに話した方がいい」と言われたのだ。この時点で、スタッフは私を入れて十名。この人数であれば、いっそ共有して、体が辛ければ仕事中に休める体制を作るべきとのことだった。

ひどく勇気は要ったが、スタッフ一人一人にその話をした。身体の状態や、辛くなったら座り作業に切り替える等させてほしいと正直に伝えた。すると、誰もがそれを受け入れてくれた。

嬉しかった。涙がこぼれた。家の前の川が決壊し、玄関から泥水が入り込み、家の裏にある用水から溢れた濁流が床下から足元の畳を押し上げ、その畳の上で「ここで死ぬのか」と覚悟したあの瞬間が浮かんでは消えた。

生きよう。そう、思った。

実家は公費解体することになり、もはや帰る家もない。持ち物の大半は失ったが、それでもさまざまな人たちが手を差し伸べてくれた。

また名前こそあげられないが、本を失った私のために、Twitterを通して知り合っていた作家の方々が著作を全作贈ってくれた。その気持ちに報いるためにも、自分にできることをしようと決めた。

フランチャイズ店の人間であったとしても、長年、本と向き合ってきた気持ちだけは負けないという自負だけはあった。書店チェーン全体で、わずか三人しか選ばれない拡材にコメントが掲載されたこともあった。チェーン店を問わず、全書店員のなかから二人だけという広告にもコメントを使ってもらえたこともあった。
本を好きな気持ちと、言葉を使って思いを届けることだけが私の武器だった。

だが、ついにその日は訪れた。2024年5月14日、百貨店の全体朝礼で8月18日の閉店の話を知った。

ついに、この日が来てしまった。市内にはいくつものスーパーがあり、百貨店の来客数はひどく寂しいものだった。むろん、書店でも以前はさまざまな工夫はしてきた。それでも、スタッフが定年などで辞めても補充がされず、つねに人手不足と戦う日々のなか、売り場を整えることさえ難しかった。

お客様への告知は、6月12日と告げられた。それまでは、閉店を知られるわけにはいかない。せめて少しずつ返品を進めようと思ったが、何ぶん返品をできるスタッフがひどく少なく、遅々として進まなかった。告知されてからは、百貨店の閉店セールへのレジ応援にたびたび駆り出され、さらに手が回らなくなった。

それでも、閉店作業は進めなくてはならない。書店に並べられている本は委託販売なので、基本的に出版社にできるのだが、返品了解が必要な出版社も多数あった。了解を得ずに返品しても、逆送品として戻ってきてしまう。なので、まずはその商品をかき集め、返品了解を得なければならない。

この時点で、ビジネス書や人文書の担当者が退職後に補充されていなかったため、私は文庫と新書と文芸書の他に人文書もワンオペで受け持っていた。催事場のレジ応援のあとに書店のレジにも入り、品出しや通常業務を行いながら、返品了解が必要な出版社の商品を棚から抜いていった。

自由に使える時間などほとんどなく、また業務用のエアコンも不調だったため、大げさでも何でもなく、「暑いわね」とお客様に言われる売り場で汗だくになって作業にあたった。

連日、お客様からは「書店がなくなるのは寂しい」と声をかけられ、フランチャイズだとは知らない多数のお客様からは、「書店は、どこに移転するの?」と聞かれた。そのたびに、「閉店である」ことを伝えなければいけない苦しみは日に日に強くなっていった。

書店の閉店業務に関してはノウハウがなく、書店チェーンの担当者を借りなければどうにもならなかった。窓口となってくれた方から、唯一の正社員である店長に連絡や指示があり、また、取次ともさまざまな話を進めていった。

末端で働く私たちは直接そういった指示を受けることはなかったが、返品了解が必要な出版社だけではなく、常備(=棚を貸しているような状態で、毎年、商品を入れ替える)と呼ばれる商品も棚から抜いていった。

だが、百貨店の催事場へのレジ応援はほぼ毎日という状態で、かつ「返品できるスタッフ」もレジに立つこともしばしばで、返品に必要なサイズの段ボールも底をつき、やむなく小さなサイズで返品を作る等したが、もはや「通常返品ぶんの商品を、バックヤードに下げる」スペースすらなかった。

頭を悩ませたのが、いわゆる買い切りと呼ばれる商品だ。大半の出版社は返品了解を得れば返品できるのだが、買い切りはそれができない。有名なところだと、岩波書店があげられるだろう。

文庫や新書に関しては私の判断で特約を結んでおり、かろうじて返品枠もあり、わずかながら返品することができる。だが、岩波文庫と岩波現代文庫だけで3棚✕8段、岩波新書にいたっても同様で、「こんなに、岩波書店の本が揃っている本屋はそうない」と言われる状態では焼け石に水だった。

やむなくTwitterで岩波書店の本の処理について投稿したところ、やり取りしている書店員や元書店員の方たちから回答があった。数が少ない店舗は処分したり、または中古店に売却したり、あるいは値段を下げて販売した店舗もあったと聞いた。

だが、書籍は再販制度によって定価での販売が定められている。なので、割引いて売ることは叶わない。だが、店長に訊ねてもはっきりした回答は返ってこなかった。

困り果てていたとき、岩波書店の営業の方から連絡があった。閉店を知り、挨拶の電話をかけて来てくれたのだ。相談したところ、他店の例をいくつか聞くことができた。

「ワゴンに並べて目立つところに置いたり、在庫僅少フェアを行ったりした店舗もあった」という。さらに、「在庫僅少フェアを行うなら、こちらでPOPを作ったりTwitterで投稿することもできる」というありがたい言葉をいただくことができた。
なのでレジ付近の話題書コーナーを空け、そこに岩波書店の本を置き、写真を撮って営業の方に送った。

そうこうするうちに、どんどん閉店する日が近づいていった。連日催事場の応援に駆り出され、暑い売り場で作業を行い、連日「書店は、どこに移転するの?」と訪ねられ、そのたびに「閉店である」ことを口にする。すでに、スタッフは心身ともに参っていた。

この時点で、書店の従業員はたったの7人。そのうち、フルタイムで働く人間は私を入れて2人。昼から閉店時まで働くスタッフを入れても、ようやく3人。早上がりのスタッフに残ってもらうことで、百貨店の閉店セールの応援と書店のレジを回し、閉店時は2人だけということもざらだった。

うつ病を抱えていた私にとっては、限界なんてとっくに超えていた。うつ病の薬を飲み、眠るための薬を流し込み、何とか立っていた。それでも、最後までこの場所にいようと決めていた。

かつて、勤め先の書店を閉店という形で失った。やむなく関連会社を転々としたものの、どこも合併や社屋の異動などで務める場所は次々と変わった。そんななか、地元に「書店ができる」と知って、どれだけ嬉しかったかしれない。

何とかそこで働けることになって、3ジャンルをワンオペという状況でこそあったものの、自由に棚を作れることや、ゲラやプルーフを読ませてもらえること。
その感想コメントを、宣伝に使ってもらえたこと。それを目にした人から、「読んでみるわね」と声をかけてもらえたこと。
何よりも、日々のお客様からの「ありがとう」という言葉にどれだけ救われたか。それを励みに、最後まで見届けようと決めたのだ。

そして、ついに閉店の8月18日が訪れた。朝からお客が途切れず、レジは長蛇の列が続いた。

「これまで、ありがとう」
「寂しくなるわ」
「どうか、頑張ってください」

さまざまな言葉が、私たちスタッフに届けられた。そんなときだ。レジから呼ばれると、私あてに「花が届いている」という。見ると、Twitterで知り合った友人からだった。あのとき、2019年の秋。住む家も持ち物もほとんど失ってしまった私に、あたたかいマフラーや靴下や、さまざまな贈り物をしてくれた大切な友人からだった。

その場では泣けず、慌てて事務所に花を置かせてもらったあとに、倉庫で少しだけ泣いた。実は、この日も前日もあまりの職場やレジの暑さに朦朧としており、かなり体調が芳しくなかったのだが、その花束を見たとたんに気分が少し軽くなった。そして、早退を勧められてはいたものの最後までいようと決めた。

この最終日は、レジ閉めさえ叶わないほどの目が回るほどの忙しさだった。だが閉店の音楽が流れ、店長が建物の外で閉店の挨拶をするというので私たちも降りていった。すると駐車場には多くのお客様が並んでおり、そこへ百貨店の店長がマイクを片手に語りはじめた。

その言葉を聞きながら、長らくこのお店に通ってくれたお客様のことを思った。子どもの頃、親に連れられて最上階にあったレストランに足を運んだことを思い出した。書店に働き始めてからのことが、浮かんでは消えた。気づくと、店長のスピーチに拍手を送っていた。

翌日から私は連休となったが、21日から出勤し、書店の店内にある本をひたすら段ボールに詰めていった。その際、チェーン店の方も応援に来てくれた。22日もひたすら同じことを繰り返し、そして23日、ついに大量返品の日が来た。

通常返品が進まなかったこともあり、段ボールに詰められた本や雑誌は膨大な数だった。チェーン店からも応援は来ていたが、他の階の従業員も書店に人手をかき集め、台車に次々に段ボールを載せ、業務用エレベーターで降ろし、ひたすらそれを繰り返す。

その数、10tトラック4台ぶん。

段ボールは雑誌扱いの商品とコミック、文庫や新書、それ以外の書籍に分けて箱詰めされた。ちなみに岩波書店の本は、結局チェーン店のいくつかが引き取ってくれることになったと聞いた。

それも叶わないものもあったが、それらの本たちがどういう末路を辿ったかは、ここには書かないでおく。絶版で、チェーン店で唯一このお店にしかない岩波書店の本も多数あった。それを探し求めていた人たちにとっては、あまりにも悲しい結末だからだ。

大人数で取りかかったこともあり、比較的早い時間に、売り場からすべての本が消えた。ガランとした棚、お客様のいない店はあまりにも寂しい姿となった。
だが、まだやることはある。それは、書籍以外の片付けだ。レジ周り、事務所や倉庫、備品を置いてある棚や普段は閉め切っている扉の向こう。やることは、まだまだあった。

大量のゴミ袋に、可燃ごみかプラスチックごみか、不燃ごみかでどんどん分けていく。何年ぶんもの埃が舞い上がり、私たちはただ黙々とそれを片付けていった。

そして、この話はここで終わる。

現実は、小説のようにはいかない。まだ続くはずだった「書店の閉店」の物語は、ここで打ち切られた。

業者が入るため館全体が25日は休みとなり、その前後が休みだった私は3連休となった。その最終日の26日に、書店の唯一の正社員である店長から連絡が来た。契約は8月末までなのだが、私たちの雇用形態のスタッフの出勤はなくなったというのだ。つまり、最終日も含めて全て休みとなり、おそらく有給が当てられているのだろう。

最後の最後に、長年勤めた書店に「さようなら」を言うことも叶わず終わりとなった。

だが、退職にまつわる書類の提出や返却するものもある。それらを届けに29日に訪れたとき、書店の売り場の鍵は貸し出しもされずにそこにあった。おそらく、もう誰も出勤しないのだろう。建物の外から売り場を見上げ、心のなかでそっと最後の挨拶をした。

書店の最後の姿がどうであったのか、それすら目に焼きつけることも叶わない。だが実は、前述の通り「2人しかいない」シフトの夜に、閉店前にこっそりスマートフォンでガランとした棚の写真を撮っていた。今の私には、この写真しかない。けれど、目に見えない思い出はたくさんある。

連日、書店の閉店のニュースがかけめぐる。そのたびに、悲しみと同時に「そこで働いていた人たち」のことを考える。チェーン店の正社員であれば、まだ異動できる可能性もある。だが、書店を支える大半のスタッフは非正規雇用の人びとだ。

本を大切に思い、本に関するたくさんの知識と接客の経験値を持ち、ほぼ最低賃金の書店という場所で懸命に働いていた人たちは、いったいどこへ行くのだろう。

私は書店経験こそ合計で15年以上あるものの、いわゆる就職氷河期の世代の人間であり、どうしても年齢等がネックになってくる。新規にオープンするという書店の面接を8月に受けたものの、面接時に病気に関するアンケートがあり、嘘をつくのもためらわれて「うつ病だが、通院しながらフルタイムで働いてきたため勤務は可能である」ことを伝えたところ不採用となった。

募集を知り、慌てて申し込み8月末に面接を受けた書店では「店舗は選べない」という話で、通勤時間がかかることがネックとなった。もちろん、それらが理由だったかどうかはわからない。いずれにせよ、私は何より好きな本屋という場所に再び居場所を持つことは、少なくとも今の時点では叶わなかった。

全国の至るところで書店が相次ぐなか、そこで働いていた従業員の人びとがどうなるのか、再び書店業界を探すのか、それとも生活のために全く別の業界へ行くのかはわからない。

そして、もうひとつ。本屋がなくなったことで、困っているであろうお客様の存在がある。願わくばどうか、通える範囲に別の書店があればいい。

大人はまだしも、おこづかいを握りしめて漫画雑誌やコミックを買いに、いそいそと本屋に足を運んでいた子どもたちはどこで本を買えばいいのだろう。その楽しみが奪われてしまったら、どれだけの悲しみをもたらすのだろうと考えずにはいられない。

でも私は、まだあきらめたくないのだ。次々に書店が閉店する時代であっても、踏んばっているお店はたくさんある。閉店するお店もあれば、新たにできるお店もある。

この先、どういった方面に行くのかはわからない。続けて2社の書店の面接に落ちてしまい、もしかしたら「本のそばで働くのは難しいのかもしれない」という思いもある。

アドバイスもあり障害者手帳の申請を行ったところ、うつ病の方で申請が降りた。もしかしたら、こちらの方面で仕事を探すべきなのかもしれない。けれどまだ求職活動をはじめたばかりで、どんな道が伸びているのかもわからずに戸惑ったまま立ち尽くしているのが正直なところだ。

けれど、どこにいても何をしていても、本や本屋を思う気持ちに変わりはないだろう。きっと、やむなく「書店という場所」を離れた全国の書店員の方たちも同じ思いでいるのではないかと信じている。

長年一緒に働いていたスタッフ達のことも、「書籍売り場の人間」ではなく、立派な「書店員だった」と私は勝手にそう思っている。

だから、どうか。本にも本屋にも、この先の未来とつながっていてほしい。紙の本も、本屋もなくなってほしくなんてない。そのために壊すべき壁があるなら、いつでも馳せ参じたいくらいには本屋という場所を大切に思ってやまない。


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