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映画『滑走路』

前回の記事を見ていただいた方々から、ありがたいことに、「映画を観に行けるように」とサポートが寄せられた。なかには、「映画の帰りに、外食する際の足しにしてください」とまで心を寄せてくれた方もいた。そのおかげで、無事こうして映画館に足を運ぶことができた。そのことに、どれだけ感謝しているかしれない。

新宿三丁目の駅に降り立つと、目の前にかつて勤めていたビルが目の前に飛び込んできた。この街に通っていたのは、もう10年近く前のことだ。建物はまだ同じようにそこにあるのに、中にあるテナントだけが変わってしまっている。当時の記憶がよみがえり、古傷が疼くように痛んだ。

記憶を振りほどくように足早に新宿の街を行き、やがてテアトル新宿へとたどり着く。地下へと降りていくと、階段に沿って映画「滑走路」のパネルや、萩原慎一郎さんの詠んだ短歌が並んでいた。今からこの映画を観るのだと、かすかに頬が高揚した。

前の上映が終わり、劇場から続々と熱気とともに人びとが吐き出されていく。清掃などの準備が整うと、開場のアナウンスが流れた。チケットをスタッフの方に見せ、劇場の中へと足を運ぶ。席の番号を確認すると、深い背もたれのえんじ色のシートに体を預けた。予告が始まり、次第に館内の明かりが落とされていくと、やがて映画が始まった。

この映画は、萩原慎一郎さんの『滑走路』をモチーフにしたオリジナルストーリーである。作品をまっさらな気持ちで味わいたいという思いがあり、前評判もインタビューなどの情報も目にせず観に行った。結論から言うと、それは成功だった。

この映画には、メインとなる三人の人物が登場する。厚生労働省で働く若手官僚の鷹野(浅香航大)、切り絵作家の翠(水川あさみ)、そして中学二年生の学級委員長の少年(寄川歌太)だ。

激務に追われる鷹野は、理想と現実の狭間でもがき苦しんでいる人物だ。NPO団体が持ち込んだ非正規雇用者のリストで目にした、自分と同じわずか25歳で自死した青年の死の真相を探り始めようと奮闘する。30代後半に差し掛かった切り絵作家の翠は、夫・拓己(水橋研二)との関係に違和感を覚え、同時に自らのキャリアにも迷いを抱いていた。

何より壮絶な立場にいるのは、幼なじみをかばったため、自らがいじめの標的となってしまった学級委員長の少年だろう。それを、シングルマザーである母(坂井真紀)にだけは知らせまいと1人きりで戦っている。そこに現れたのが、冷たい水の中に投げ捨てられた少年の鞄を拾うために、自らもずぶ濡れとなってしまった同級生の少女・天野(木下渓)の存在だ。

この鷹野、翠、学級委員長の少年を軸に、この物語は進んでいく。1人の青年が何故自ら死を選んだのか、それを追い求めるうちに、この映画に隠された秘密にやがて観客はたどり着くだろう。

鷹野を取り巻く労働環境は過酷であり、「エリート官僚」と揶揄されそうな立ち位置にある人間が、どれだけの葛藤を抱いているかがつぶさに描かれていく。また切り絵作家の翠は一見「自分のやりたい道」を進んでいるように見えるが、何かを訊ねても「翠はどうしたい?」とだけ返す夫に違和感を覚える毎日を送っていた。会話にすらならないやり取りは、およそコミュニケーションとは程遠い。

「エリート官僚だから」「主婦だから」と、はたからは成功していたり安定しているように見える人間であっても、その内側にあるものは必ずしも平穏ではないのだという事実が顔を覗かせる。

自死やいじめ、非正規雇用や現代が抱える問題点を覗かせながらも、この映画の最大の魅力は、なんといってもその清々しさだろう。

いじめにあいながらも、絵の上手い少女・天野との時間に安らぎを見出だす少年。迷子の子どもと、翠が手を重ねるシーン。ある懺悔の言葉を口にした鷹野に、ある人物が鉄槌のように言い放つ場面。それらは、観客に清冽な感情を呼び起こしてくれるだろう。

私自身もまた非正規雇用の人間ではあるが、もしこの映画がその点にのみ終始していたなら、きっとこの映画は成り立たなかった。それはそれで人の心を打つ作品にはなったと思うものの、観賞した後に観客1人1人が受け取る余韻は、今作とはまるで別のものになっていただろう。

重いテーマや課題を扱っているものの、決してそれだけではない。もっと普遍的で、どの年代にも届く光をこの映画は秘めている。だからこそ、エリート官僚である鷹野や翠から見えている世界が必要だったのだと思う。

さらに私がこの作品とそれに関わった方に感謝したいのは、いじめのシーンの描き方だ。もし、より扇情的にしようとしたなら、いくらでもそれができただろう。

私は、小学校時代と中学に入学してから、さらに社会人となってからも合わせると、計15年ほどいじめにあっている。人間が集団の中でどんなふうに残酷になれるかを、嫌というほどに知っている。

いじめのシーンで容姿や本人にはどうにもならないことをあげつらいもせず、ごく数人からの直接的な攻撃のみに絞られたというそのことが、いじめによる被害者となった人間への配慮のように思えてならない。

正直に言ってしまうなら、もっとより非正規による絶望を前面に出した映画になるのだろうと思っていた。だがこの作品は、萩原慎一郎さんの言葉と同じように、私達に希望を与えてくれるのだ。一言で希望と語ってしまうと陳腐に響くかもしれないが、決してそうではない。それは、この映画を観てもらえればわかることだ。

もっと根本的なもの、たとえ何かを「選ばされている」ような状況であったとしても、何かを選び取り生きていく人間への信頼感がそこにあるのだ。水川あさみさんが演じる翠という女性に、とくにそれを強く感じた。

作品の中で、自ら命を手放してしまった人物の心の内にあったものは明らかにされない。だが、こうも思うのだ。誰かが自らの意思で死を選んだそのときに、誰もその場所にはたどり着けないのだ。

私が初めて自殺を試みたのは、まだ小学5年生のときだ。弟と出かけた帰り道に、弟だけを先に帰らせ、それから通っていた小学校の校舎へと忍び込んだ。5階の渡り通路の手すりから飛び降りようとしたのだが、いざ飛び降りようとしたものの、恐怖ですくんでしまい動けなくなってしまった。どれほどひどいいじめにあい、また家の中が貧しく荒れていたとしても、それでも最後の一線を越えられなかったのだ。

それ以降も幾度となく「生きていけない」と煩悶する瞬間は訪れたが、今もこうして生きている。だがそのおかげで出会えた喜びや、誰かのぬくもりも確かに存在するのだ。

もしあのとき飛び降りることに成功していたら、たとえ誰かが「何故」と嘆き悲しんでくれたとしても、永遠に私の中にあったものは誰にも届かなかっただろう。私はいじめにあっていることを親に知られたくなかったが、それは親もまた恐怖の対象だったからにすぎない。本や物語の世界だけが、私をこの世に引きとどめてくれた。

身近な誰かが自ら命を絶ったとき、周囲の人間が「どうして」と思うのは当然だろう。大切であればあるほどに、そう苦悩することは想像にたやすい。だが、こうも思うのだ。

その苦しみを分け与えたくなかったからこそ、すべて1人で抱え込んでしまったのではないだろうかと。もし何1つ残さずにこの世を去っていく人がいたならば、残していく相手のことまで考えてしまうほどに、心優しい人だったのだろうと思うのだ。

この映画は観る人の立場によって、いくらでもその姿を変えるだろう。自分自身の体験に置き換えて傷が痛む人もいれば、胸を打つ言葉やシーンに出会う人もいて、絶望のその先に希望を見出だす人間もいる。私もまた、絶望のその先に希望を見出だしたうちの1人だ。

浅香航大さんが演じる鷹野という男の抑えた演技や、水川あさみさんの演じる翠という女性の自然な佇まいはもちろんのこと、いじめにあう少年という難しい役どころを演じきった寄川歌太さんの存在感と、彼に寄り添いながらもすくっと立つ少女・天野を見事に表現した木下渓さんの透明感が素晴らしい。

グレーに塗りつぶされたような重く息苦しい作品世界を、彼らの芝居から発せられるその清涼さでもって、この世界は生きるのに値する瞬間もあるのだという光を届けてくれた。

萩原慎一郎さんの一句一句が読む人に違う印象を与えるように、この「滑走路」という映画もまたそうなのだろう。掴み取るのは絶望だろうか、それとも希望だろうか。

ラストそのものについては明言しないものの、ある箇所で流れる萩原慎一郎さんの言葉を紹介させてほしい。

「きみのため用意されたる滑走路  きみは翼を手にすればいい」

たとえ今いる世界が自分に優しいものではなかったとしても、この世界そのものや、そこに生きている人びとをいとおしいと思っていいのだと、強く背中を押された気がした。

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