見出し画像

スイカとメロンの近代史 vol.2「昔のスイカは縞がなかった/明治でも冬にスイカが食べれた」

昔のスイカは縞模様がなかった?

いまスーパーで見るスイカはたまに黒皮のものもあるが、殆どが緑と黒のコントラストのスイカである。しかし、前の記事で紹介した「富研号」は縞模様がない品種であり、縞模様のスイカが一般的になったのは意外と最近のことである。

先に品種の移行を説明した方がわかりやすいかと思い、前の記事で先に紹介した

前に紹介した通り江戸時代までのスイカは「くろかぶと」と呼ばれるような黒皮のものが多く、明治に米国から入ってきたアイスクリームはかなり薄い緑であった。アイスクリームと権次から生まれた大和系のスイカは縞模様がなかった。これはかなり親のアイスクリームの影響をかなり強く受けていると思われるが、権次は写真はおろかジーンバンクにも種が残っておらず絶滅したと考えられるので、決めつけは出来ない。

アイスクリーム。かなり果皮の色が薄く、スイカのようには見えない。日本では種子の保存は無いが、海外では販売あり。画像はeBayで販売されていたものより

奈良県農業研究開発センターに「鉄兜」として保存があるもの。当時の品種か定かでは無い。引用元も同センターより

その後、縞模様のスイカが出来たのは新大和系統が開発されてからである。新大和は大和3号と甘露の掛け合わせで生まれた品種であり、皮が緑と黒の品種であったと推測される。甘露は今のような緑の皮に黒い縞模様が入った品種である。この品種が今のスイカに大きな影響を与えたのは間違いないであろう。

大和3号と甘露。大和3号のカラー写真は見つからなかったので白黒の写真。甘露と比較すると大和3号は縞がないことが分かる。大和系品種は縞がないのが無いのが特徴。写真は神田武「西瓜の栽培技術」より

甘露。縞模様が入っており、外見は現在の品種に近い。奈良県農業研究開発センターより引用

新大和系統。かなり現在の品種に見た目が近くなってきた。2号は固定種の品種として人気であり、容易に種が入手できる。写真は奈良県農業研究開発センターより。


その後、固定された新大和2号や大和クリームなどは今のようなスイカと同じ見た目をしてる。しかし、旭大和と呼ばれる品種や富研号と呼ばれる品種は縞模様の無いスイカも人気があり、まだまだ現役であった。

旭大和。画像は奈良県農業研究開発センターより

富研号。復刻され、市場には出回らないが道の駅なので販売

しかし、戦後になると縞模様のない旭大和などのスイカに陰りが見え始める。それまで大阪や東京など大都市近郊で栽培される程度であったが交通網が発達してくると出荷先の範囲も広がり、それにつれて輸送に耐える品種が求められるようになった。旭大和は味こそ優れども、皮が薄く輸送に耐えないためから栽培が無くなった。富研号も幾分割れにくいが作りにくいとの事で栽培が無くなった。また、縞があった方が見栄えも良いとの事で縞模様のあるスイカの育種が進んだ。また戦後になると核家族化も進み、小規模家族でも食べやすい「こだま」などが開発された。この辺りから大玉スイカは食べきれないや冷蔵庫に入らないとの理由で消費者に好まれなくなったというのもあるだろう。
しかし、戦後直ぐに無くなったわけでは無い。暫くは縞皮と縞無しが共存し、昭和40年くらいまではあったと思う。その後は新たな縞無し品種も作られること無く終わった。

昭和40年に撮影された日本の生活を紹介するアメリカの短編映画。やや不鮮明ではあるもの当時のカラー動画はかなり希少である。スイカの他にオレンジ、バナナ、メロンなども映る。かなり希少な動画。

ただ、アメリカなどでは今でも縞の無いスイカが主流であり、縞アリの品種が無い訳では無いが少数派である。縞ありの品種はどちらかと言うと中国、韓国、タイなど東アジア・東南アジアなども縞皮の品種がメインである。これもルーツを辿れば日本の品種にたどり着きそうである。

明治でも冬にスイカが食べれた

※資料紛失により明確な裏付けが出来ませんでした……発見したら速やかに補足します

いつものように国会図書館で調べ物をしていた時の事。たまたま見た明治初期の官報(だったと思う)の広告に「冬でもスイカあります」との記事。それを見て「え、明治でも冬にスイカがあんの?」と私は目を疑った。印刷した紙をなくしてしまったが、千疋屋の広告であったと記憶している(間違っていたら訂正する)。ただ明治〜昭和初期に冬にスイカがあったことは間違いない。さらに調べるとそのスイカの出処は小笠原であった、尚更驚いた。当時の小笠原は温室を用いた施設園芸が発達していない頃に冬にトマトなどの野菜を出荷し、かなり利益を出していた。日本領であった台湾からも様々な果物が入っていたが、スイカは防疫上の理由で入って来ていなかったと記憶する。こう見ると戦前の果物文化もかなり豊かであったことが伺える。戦後は温室を用いた施設園芸農業が盛んになり、また小笠原もアメリカの占領下になったことにより、スイカは温室で栽培されるようになった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?