『女ばかりの夜』

きょうは、朝、ケータイで天気予報をみたら二五度だったから、ながそでをきてきたら、歩いていたらあつくなった。隣に居た彼女が、あついでしょ〜〜❕ってなんどもいうから、少しあつく感じた^_^💧ふつうに夏の終わりの曇りじゃんね。表参道のなだらかな坂を歩きながら、そんな、曇りの日に上映された田中絹代さんの『女ばかりの夜』をふりかえったりした。わたしは女性福祉、(現)婦人保護事業を卒論と修論のテーマにしていて、ふつうに泣きながらみた。

この映画は1961年のもので、売春防止法の公布1956年、施行1957年直後に制作、上映された。売防法は、いわゆる”闇の女”対策として制定された。敗戦後にまず日本政府がしたことは、占領軍に対し女性の身体を差しだすことだった。売春女性を良家の子女を守る防波堤であるとし、女性を二分化した。にもかかわらず、売春女性には保護更生が必要だと婦人保護施設と婦人補導院をつくった。売春防止法は、「売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものであることにかんがみ、売春を助長する行為等を処罰するとともに、性行又は環境に照して売春を行うおそれのある女子に対する補導処分及び保護更生の措置を講ずることによつて、売春の防止を図ることを目的とする。」という法律だ(第一条より)。現在も、女性を支援する婦人保護施設は、根拠の一つが売春防止法である。

印象的な場面がある。婦人保護施設を退所後、赤線出身であることからどこへ行っても周囲から冷たくされる主人公が、婦人保護施設の寮長に、「なぜ売春が悪なのか」と問う場面だ。主人公は、他に選択肢が無い状況のなかで売春を行ってきた。生きるために、生活するために売春を行ってきた。男からの需要があるから売春を行ってきた。とはなす。婦人保護施設の寮長は、売防法ができて売春は保護更生の対象として悪いことになったからとはなす。

これは、売防法ができて半世紀も経つが、ずっと変わらない場面であるとおもう。日本社会は、性搾取が当たり前になりすぎている。性搾取(わたしは、いわゆるセックスワークは性搾取であると考え北欧モデルを支持するため、売買春や性売買ではなく性搾取と表現する)が当たり前になりすぎて、性暴力が当たり前になりすぎている。性搾取と性暴力は地続きだ。著名人による性暴力加害は、ふつうに受け流される。男は平然と”買春”自慢をするし、女は恋人が風俗やAVで搾取することを咎めない。性暴力の告発には賛同するフェミニストも、なぜか性搾取は個人の選択だと突き放す。男も女も、そこにある性搾取を侮蔑する。男の性欲は本能だからと、女は困ったら身体を売れと性搾取を肯定するにもかかわらず、そこにいる女性に烙印をおす。搾取された女性たちは、自分が悪いんだと思わされる。加害者がいなければ、被害者は生まれないのに。需要がなければ、供給は生まれないのに。日本の強い自己責任論は、搾取を容認し続けている。個人の問題じゃない、社会の問題だ。生まれた家が貧しかった、生まれた家庭に虐待があった、家を出ざるをえなかった、自分で働かざるをえなかった、それはその個人の責任なのか??

女性の性の商品化は、人間としての価値を蹂躙するものだとおもう。この社会に生きてきて、わたしも若い女であることしか価値が無いと思わされてきた。若い女として消費されてきて、自分の価値なんて自分じゃ全然見いだせないよ。若いとか女だとかじゃなくて、一人の人間として価値があるんだって思いたい。誰であっても、一人の人間として価値があるはずだ、一人の人間として尊重されるはずだ。人間はみな、平等であるはずだ。
この映画の結末が結婚してハッピー❕とかじゃなくてよかった。そういうところも、よかった。

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