ミモザ

先日、国際女性デーだった、ミモザをよくみかけた。
という文章をつらつら書こうとしたが、一向に書けなかった、もう4月である。桜が咲いている

わたしは大学院で、女性福祉について研究している。
だからなのか、?、去年のクリスマスに恋人から渡された手紙の便箋が、柔らかなミモザの柄だった。なんでミモザ??って思ったけど、そういう文脈なのだろうか。分からない

わたしは、今まで交際していた男性たちから、性暴力と精神的暴力を受けてきた。こう切りだすと、少し、ほんの少し、選んだのはおまえだろって、いつも選ぶのはおまえだろって、いわれるんじゃないかと、やっぱり思ってしまう。

自分が受けてきた暴力の数々に、薄々気付きながらも蓋をし続けてきたのに、修士論文を執筆する過程で蓋をできなくなったのだ。自分で蓋をあけたのだ。

修士論文を書きながら、わたしは過去に暴力を受けた記憶を幾度も往来した。

抵抗もできないまま、気付かないふりをつづけながら、それでも自分の身体とこころは痛々しいほど渇き、傷つけられている感覚が、いまでもフラッシュバックする。
ルッキズムを押し付けられながら、容姿に縛られていく、若い女であることにしか価値が無いのだと洗脳されながら蝕まれていく感覚が、いまでも抜けられないのだ。

色々な加害があいまりすぎて、永遠に絶望し続けた。それだけでなく、日々、困難を「抱えさせられた」女性たちと出会いながら、社会に絶望し続けた。
女性の人権を蹂躙するような社会構造への批判を試みる一方で、自分と、傷つけられてきた過去と向き合わざるを得なかったのである。
論文は一応提出できたけど、読み返せていない、わたしは再び、蓋を閉じたのだ。

先日、小松原織香さんが書かれた『当事者は嘘をつく』を読んだ。小松原さんが生き抜きながら、ご研究を続けられてきたことを拝読した。

わたしは、女性福祉を研究テーマにする傍らで、自分が「当事者になる」ことに葛藤した。自分が受けてきた暴力は、果たして暴力なのか。何を持ってして、暴力なのか。
論文のなかでは、ちゃんと、暴力は暴力である、いかなる暴力も許されない、と言い切ることができるのに、自分の経験に対しては暴力だと言い切ることにとても躊躇した。だから今まで蓋をしてきた、蓋をあけるのがとてもこわかった。

蓋をあけてからも、周囲からのまなざし、どのように思われるか、を意識しながら、恐る恐るはなしてきた。弁護士にも、警察にも、指導教員の先生にも、職場の上長にも、旧知の友人にも、大学院の知人にも、話さざるをえないからはなした。みんなが心配するからはなした。それでも、相手がどう思うのか推しはかりながらはなした、でも推しはかれなくて、だからへらへら笑いながら、はなすしかなかった。
自分が傷つかないように、前置きを常に添えながら、声がふるえるのを悟られないように、それでも言い淀んだりして、やばいよねーと少し笑いながらはなしていた。

だから、小松原さんが書かれていたことに本当に救われた。小松原さんの本とは、修士論文を提出した後、いまの恋人と、冷たい雨の日に立ち寄った書店で出会った。
タイトルはどこかできいたことがあって、吸い込まれるように手に取っていた、出会ってしまったのだ。

自分の苦しみが雪解けされるような感覚で、夢中になって小松原さんの言葉を追っていった。もがき苦しんでよかったと、初めて思えた瞬間だった。
立ちどまることさえ許されなくて、無理矢理走りつづけてきたけど、走りきったじぶんを、やっとじぶんで、認めることができてうれしかった

ぶじに修士論文を提出して、博士課程の院試に合格して、穏やかな気持ちで桜をながめることができる。わたしもいつか、小松原さんのように、一人でも多くの女性が穏やかに春を迎えられるような、そんな本を書きたいとつよく思う。


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