見出し画像

ななべえ93歳                                                   ~ タカラジェンヌへの道 ~                                #創作大賞2023 #エッセイ                               

愛  称:ななべえ
本  名:岩本 サエ
誕生日 :昭和4年(1929年)8月生まれ 93歳
家  族:長女夫婦と同居。(両親と兄2人は他界)
     長男家族は神奈川在住。
     夫は15年前に他界。子供は長女と長男の2人。
生誕地 :鹿児島県 鹿屋市 田崎町
現住所 :鹿児島県 鹿屋市 輝北町
趣  味:三波春夫、田端義男、氷川きよし、辰巳ゆうと等お気に入り 
     の歌手が出演する歌番組、警察24時のテレビ番組を観ること
好  物:甘い物、ゴーヤ、漬物、黒ニンニク、干し柿、唐芋、餅
嫌いな物:スパゲッチィ、牛肉、堅い物
 
 このななべえさんだが、我が義母ながら笑顔いと愛らしく、なかなかにオモロイ軽妙な婆さんなので、いっちょ書いてみるかと思った次第です。
 
 実はななべえ、一度離婚していて、その後60代半ばに縁あって9歳年上の男性と再婚。
 そのお相手の故岩本正幸だが、元々この義父が住んでいた部落が輝北ダム建設のために水没することになり、車で10分ほどの同じ輝北町内に移住。その移住と再婚がほぼ重なり、新しく建てた平屋の一軒家で新婚生活(ワオ!)をスタート。
 
 この義父だが、のんびりゆったりやんわりしている穏やかな人で、威圧感は皆無。こちらに構える必要は一切なく、気を遣わなくてすんだのでホッとした。
 なんとなく雰囲気があのムーミンパパに似ているというので、妻がつけた愛称がムーミンパパ(またの呼び名を、縮めてムパ。本人は知らないまま逝く)。マグロの赤身と三ツ矢サイダーとキリンの瓶ビールとケンタッキー・フライドチキンが大好きで、回転ずしに行くと、マグロの赤身しか食べなかった。三ツ矢サイダーの買い置きを切らしている時だけ少し怒っていた。元々農機具メーカーに勤めていたが、戦時中は憲兵もしていた。きっと優しい憲兵だったと想像される。
 
 現在ななべえと私たち夫婦が住むこの家に、一面が広いガラス張りの部屋がある。ななべえの日本舞踊の稽古場だ。
 ななべえだが、子供の頃から歌と踊りが大好きで、旅芸人の一座が来るとついて行きたいと駄々をこねたとか。
 家庭に経済的余裕がなく、念願叶って日本舞踊を習い始めたのは40代になってから。そして、好きこそ物の上手なれの例え通り、瞬く間に腕を上げ、その後、藤間流師範になった。鹿屋の夏祭りでは、弟子を50人以上率いて 踊るほどだった。
 80代半ばまでは教えていたが、杖や手すりのお世話になってやっとこさ歩いている今はさすがに教えていない。だが、時折見せる所作には、昔の片鱗がしっかと見て取れる。
 
「生まれ変わったら宝塚のトップスターになる!」
とななべえが断言。
 そして、タカラジェンヌになった時の芸名を「美月 ナナ」(あの水樹奈々さんのことをななべえは知りません)と自らつけた(笑) 
 以来、妻と私は「ナナさん」と呼ぶも、もっと親しみやすくと、いつしか「ななべえ」になった。今、その呼び方は、着古した肌着のようにしっくりとななべえによく馴染み、その名と体をよく現している。そこにタカラジェンヌの香りは木端微塵に失せているけれど。

 今は要介護2で、認知症の症状も現れ、つい今さっき言ったことも覚えていないが、昔のことはよく覚えていて、何度も聞かされる話がある。 
「戦争中、アメリカ軍のB29の機銃掃射が降り注ぐ中を逃げきったの!」「いつも避難する防空壕に行ったら、人が多くて入れなくて、仕方なくほかの防空壕に向かったその日よ、そこが爆撃を受けてみんな亡くなったの!」
 などなど、どこまで本当か確かめようもないが、強運としぶとさで生き残ったきたと言う。
 
 そして、30代で結婚。一男一女を 儲けるも、やがて離婚。前述したように、60代でムパと再婚するも、ななべえが78歳の時に病気で亡くなってしまう。
 その後、約10年ひとり暮らしをしていたが、高齢ゆえの問題が続出。ひとり暮らしが難しくなり、89歳の時、東京は北区十条の賃貸マンションに住む私たちと同居することになった。
 
 その狭いマンション(なんと訳あって8畳のワンルームだぜい イェ~イ)にななべえがやって来た日の事だ。
 妻とはとても仲が良く、私とも良好な関係であったが、世話になるのを気にかけ、居心地悪そうにしていた。
「お世話になります」
と殊勝に言った後、トイレに行こうと力を入れて立ち上がった際、括約筋の弱体化の影響だろう、大放屁一発。一瞬空気が固まり、ばつの悪い顔をしているななべえに、私は近寄り言った。
「呼んだ?」
 3人で大笑い。一気に緊張がほぐれた。
 更に一歩進んでブッ、一歩進んでブッ、更に更にブッ、ブッ、ブッ(ってコントかい!)どうにも誰にも止められない。屁は潤滑油となり、以後そのやり取りは、わが家の習慣と相成った。
 
 また、朝私が出勤する時のこと。
  ほんの数メートルだけれど、すり足すり足で玄関まで来てくれて、私の背中をさすりながら、
「気をつけてね」
と送り出してくれた。
 今はもう玄関まで見送りに来てもらう事は叶わない。あの時は照れくさくて素っ気なくしてしまったけれど、嬉しかった。
 
 妻も私もいない日中は、徒歩5分(私なら30秒)の富士見銀座&十条銀座商店街まで散歩に出た。すぐに疲れてあちこちで一休みするのだが、天性の社交的性格と愛嬌を武器に、お店の人たちに始まり、商店街を利用者する買い物客や、お店の外国人にも「ママ、ママ」と呼ばれて人気者となった。
 
 そこは東京では有名な商店街で、テレビ撮影をしているのをよく見かける。
 ななべえが『ドキュメント72時間』の撮影店舗の前を、カメラ目線を送りながら杖をついて通り過ぎる姿は、何度見ても笑える。
 また、『月曜から夜ふかし』のテーブルでのインタビュー撮影では、
「2050年 人類の○○が止まる」というの質問に、
「咳が止まる」
と答え、自ら大笑いしていた。その映像を見た私たちにも、大ウケだった。
 
 しかし、その時突如巻き起こったのが 、コロナ騒動である。
 商店街に遊びに行けなくなり、デイサービス利用もままならなくなってリハビリもできなくなり、私たちと外出することも控えざるをえなくなり、歩く距離(何しろ家が狭い)も短くなり、会話をする機会も失われ、自然と認知機能も衰えていった。
「そろそろ鹿児島に帰りたい――」
 それがななべえの口癖となる。
 そこで、妻と私が60歳になったのを機に一大決心。東京を離れ、輝北町のななべえが20年以上住んでいた家に移住することにしたのだ。
 鹿屋市出身の妻も東京に30年以上住み続けていた。
 埼玉県出身の私は、埼玉と東京を合わせると50年以上住んでいたことになる。だから、輝北町移住は本当に、
「エイヤッ!」
という気持ちだった。
 
 2021年夏、スポーツ大好き人間の私が楽しみにしていた東京オリンピック開催前日に東京を離れ、輝北町に向かった。
 ななべえが東京に来るまで、妻と私は毎年盆暮れ、輝北町に帰省してはいた。しかし、不安と問題が山積みだった。
 不便な山間部。車は必須(買い物できる街まで車で30分)だが、夫婦共ペーパードライバー。埼玉出身の私には、ほぼ外国語の鹿児島弁。家も倉庫も 物だらけ。東京より細かいゴミの分別。3年放置された庭はジャングル状態。親戚と知り合いはほんの数人。
 生活を始めると、更に幾つもの困難に見舞われた。
 トイレの配管故障。ボイラー故障。洗っていたガラス容器が割れ妻が14針縫う大ケガ。雨の中、私が草取りをしていてスマホが水没。元々あった荷物が片付かず、ダンボールは山積み状態……。 
 ななべえは毎日テレビ観賞と食事と睡眠の3本立て、妻は家の中の片付け、私はジャングルとの対決を繰り返した。
 ゴミの日には、毎回45L袋を10個位ずつ車で運んだ。
 そうこうするうち、ある程度不要品が倉庫にまとまり、2トントラックと軽トラの計2台で業者に持って行ってもらうと、少しずつだけれど、落ち着いていった。 

 そんな中、時々ななべえが言う。
「ここは東京け?」
 誰の家かも思い出せないらしい。
「アンタのために東京から引越したのに!!」
とツッコミたくなる。が、そんな元気はない。

 夏の終わりの夜の事だった。
 私は暑さに負けず、毎日のようにセイタカアワダチソウのジャングルと格闘していた。その日も終日の闘いを終え、シャワーを浴びる気力も、夕食を口にする元気もなく、リビングのイスでぐったりしていた。
 すると、夕食をすませ、私の目の前でゆったりしたひと時を過ごしていたななべえがのたまった。
「もう8時だから、あなたはそろそろ帰った方がいいんじゃないの」
 疲れ3倍増(笑)。
 いったい私を誰だと認識していたのだろう? 
 別の日には妻に、
「知らない男を連れ込んで!」
と叱りつけ、こんこんと説教したそうである。
 私はナニモノ? 
 それでもケアマネさんに会う度、
「こんひとが優しくしてくれるの」
と必ず言ってくれる。老練の手綱さばきである。
 
 そんなななべえだが、踊りとなると話は別だ。
 馴染んだメロディーが流れるや、さっと手が 動き出す。様になった手の所作はさすが師範。足は動かず、記憶は薄れても、体は覚えている。
 歌手では田端義男と三波春夫が昔からご贔屓なのだが、そこへ氷川きよし、山内惠介が加わり、最近は辰巳ゆうと、キスマイの藤ヶ谷太輔君も追加された。イケメン好みでなんとも若い。
 ところが最近、氷川きよしが激しいイメチェンで斬新な衣装に身を包み、演歌ではなくポップスを歌うようになった。
「誰だい、この人?」
 ついていけないのも止む形無し。
 キスマイの藤ヶ谷君の場合、グループで登場すると、その早い動きとカメラワークについていけず、どこにいるのか見つけられない。
「ほらコレ!」
「ココにいる!」
 テレビ画面を指さして教えても、ついてこられず、目がテンになっている。

 彼らの歌がよく聴こえるようにと、奮発して高価な補聴器を購入した。「よく聴こえる!」と喜んでいたが、ある日突然聴こえなくなりった。どうしたことかと、すぐに耳鼻科を受診した。
 そして、耳掃除をしてもらったところ、山盛りの耳垢が出現。いったいいつからため込んだものやら。耳垢遺跡かい!
「貯めこむのはお金だけにして下さい!」
と伝えると、
「はい、わかりました!」
 笑顔で元気な返事がかえってきた。
 とにかく、補聴器なしでも聴こえるようになった。めでたしめでたしである。

 ファッションへの興味もいまだ失せない。
 私の着ている服を見て、
「いいねえ、その服。オシャレ」
「いい色だねえ」
 などと言うことがよくある。
 洋品店へ連れて行くと、目を光らせ商品を見て回り、
「もっとよく見せて!」
と車いすから降りて歩き出す。
 しかし、家に帰ると、残念ながら買った事を忘れている。
 でも、服を買って来た時は、ファッションショーをするのが決まりだ。
 気に入って選んだ新しい服を身に着け、大鏡の前に立ち、ためつすがめつする。
「カッコイイねえ」
「似合うねえ」
「素敵だ」
「上品だよ」
 どんな褒め言葉も受け入れ、満面の笑み。嬉しそうで、その様子を見て、妻も私も幸せな気持ちになるのである。たいてい、値段の張らない服が多い。なんとも安上がりの幸せ買いだ。

 東京でデイサービスに通っていた時のこと。
 書き初めをして、持ち帰った紙を見せてもらった。
『甘』
 一文字。
 妻と大笑いした。
「もうおなかいっぱい」
と言いながら、甘い物を出すと表情を崩し、笑顔を浮かべ、ペロリと平らげる。糖尿病の薬を飲んでいるが、食べる楽しみを奪いたくはない。

 私の亡き母は晩年足腰が弱くなり、寝たきりになった。次第に飲み込む力も弱くなってきたので、介護しやすい胃瘻にした。
 結果、食べる楽しみを奪い、生きる力を失い、日がな一日天井を見ているだけの植物人間のようになってしまった。いや、してしまった。その後悔がずっとある。どんな慰めの言葉も受け入れられない。恩を仇で返したと思っている。
 だからななべえには、いつまでも食べる楽しみを持っていて欲しい。私が誰であろうと構わない。ただの使用人でも奴隷でもいい。
「なんの役にも立たなくて、迷惑ばかりかけてごめんね」
とよく言う。
 そんなことはない。朝、寝癖でベッカムヘアになり、「オーッス!」と茶目っ気たっぷりにバタやんの真似をして登場するだけで、家中に幸せが充満するんだよ、ななべえ。
 
 ななべえの一週間のスケジュールはだいたい次のようになっている。
月曜日 : デイサービス(午前8時40分~午後4時10分)
火曜日 : 休み
水曜日 : デイサービス(午前8時40分~午後4時10分)
木曜日 : 休み
金曜日 : デイサービス(午前8時40分~午後4時10分)
土曜日 : 休み
日曜日 : 休み
 この他に、近くのふれあいセンターへ平日週1回(午前9時~午後3時)通っている。入浴はできず、リハビリもないが、友だちとのおしゃべりが楽しみのようだ。
 デイサービスでは、パズルやらクイズやらをやるので、「学校」とななべえは呼んでいる。昔、学校はあまり好きではなかったのか、または、リハビリもやるので疲れると思っているからか、あまり行きたがらない時もある。そういう時は、
「お風呂に入って綺麗に気持ちよくなって来よう!」
と声かけすると、すんなり納得してくれる。
 また、休みの日のスケジュールはだいたい次のようになる。
朝食 → テレビ → 昼寝 → 昼食 → テレビ → 昼寝 → 夕食 → テレビ → 就寝(夜中にトイレ2回)
 
 最近は、すぐに忘れるというより、もう覚えられないことが多いようだ。
 食事中、今口に入れたばかりのものを、「
「これなに?」
と聞く。
 デイサービスでは毎回お風呂に入れてもらうのだが、いつ聞いても、
「お風呂には入ってないよ」
と言う。
 たまに家でお風呂に入ると、
「何ヶ月ぶりかねえ」
 と言うのが常だ。

 朝、食事の時に私がいつも髪を整えてあげる。
「アンタ、やさしいね~」
といつも喜んでくれる。
「さあ、これでいつ氷川きよしが訪ねてきても大丈夫です!」
と毎回言うのだが、毎回ウケてくれる。
 その後、妻が、
「誰が髪をとかしてくれたの?」
と聞くと、
「誰だか知らない男の人が来てやってくれた」
と答え、笑わしてもくれる。

 家でトイレに入った後、2回に1回は流さず、
「トイレの後は流してくださいね」
と言っていたのだが、最近は全く流さなくなった。便器の蓋が上がったままなのは、ななべえが使った証拠で、流しに行く。時々、排便している時があり、確認できていいなと思うようになった。悪いことばかりではない。
 便通が悪いので、便通を良くする薬も食後3回飲むようになった。それでも、出ずに便座に座り込む時がある。
「出そう」
とは言うが、なかなか出ない。年齢とともに括約筋が弱くなっていることも原因だろう。そういう時、私の出番だ。
 手袋をはめ、ワセリンをお尻の〇〇に塗り、人差し指と中指をソロリソロリと忍び込ませ、少しずつ掻き出す。
「イタイ!いたい!痛い!」
 ななべえが叫ぶ。しかし私は心を鬼にして続ける。すっごく痛がって可哀想なのだが、出ない苦しみよりはいいだろうと思い、粘る。妻は耐えられず、私のサポートに回る。
 大抵は30分前後格闘して、なんとか発射に到達する。ななべえも私もスッキリ。正に戦友の気分だ。
 便器内を見ると――胃を全摘して親指より少し太いだけの私のモノより、数倍ふっとい重量級のモノがゴロンとしている。羨ましい限りだ。
 ななべえは数日に1回しか出ないが、私は1日に数回は出る。お金も貯まらないが、ウンチも溜まらない。
「貯めこむのはお金だけにして下さい」
とななべえに伝える。

 先日、ななべえがデイサービスから帰宅すると、職員から「足に力が入らない」との報告がある。確かになかなか足が前に出ず、支えがないとヘナヘナと腰を落としてしまいそうだ。
 なんとかベッドまで連れて行く。水分を補給して貰い、いつも通りベッドで横になり、休憩に入る。
 訪問看護で点滴を打って貰った方がいいと思い、車で30分のかかりつけの病院に電話するも、一度診察を受けてからという返事。家から近いクリニック2ヶ所に問い合わせるも、今すぐの訪問は出来ないと言われる。
 ケアマネジャーさんに相談すると、脳梗塞の前兆の可能性があるから、遠慮せずに救急車を呼ぶことを勧められ、すぐに電話する。
 結局、かかりつけの病院に運ばれ、点滴、血液検査、脳のMRI撮影を受け、特に問題は見つからず。しかし、点滴を受けたことで元気が出て、夜10時には帰宅することができた。
 ななべえの救急車騒動に付き合うのはこれが6回目。今までも大事には至らずに済んでいたこともあり、救急車慣れして、持って行く物に抜かりがなくなった。ななべえはどうだろうと思うが、覚えてはいないだろう。
 
 ななべえの良いところも、ちょっとなあと思うところも、娘である妻にしっかりと受け継がれているようである。
 やっぱり母娘だなあ、と思う時がよくある。
 それは私も同じだ。
 昔々、私が15歳の時のこと。
 長年勤務した会社を突然辞め、退職金を持って愛人と蒸発。数年後、お金を使い果たし、ヘラヘラ笑いながら「やり直したい」と言い、家族に拒絶され、すぐにまたどこかへ行ってしまったバカ親父。
 そのバカ親父と似ているなあと思えるところが歳を重ねるごとに増え、私は大バカ者じゃないかと思うようになった。親父を恨んだところで、きっと親父は、その親父から引き継いでいるに違いなく、ああこれはもう運命と思うしかない。だって、このバカ親父がいなければ、大バカ息子はこの世に存在しなかったのだから。

 閑話休題。
 ななべえが帰りたいと言うので住み始めた輝北町。
 やっぱり不便だし、言葉はわからないことが多いし、友だちはいないし(同年輩が少ない)、庭はすぐに雑草畑になるし、芝生を植えたら野良猫のトイレになるし、高齢者だらけで、たまに子どもの姿を見かけると拝みたくなるような土地だ。
 しかし、住んでいる人たちは優しい人が多く、しょっちゅう野菜を貰えるし、東京にくらべていい意味でユルいし(役場でもタイムカードがない)、自然が豊かでホタルも見られるし、庭には様々な花が咲く。
 スミレ、水仙、薔薇、ツツジ、紫陽花、百合、椿、白梅紅梅、萩、ルコウソウ、彼岸花、山茶花、様々な野花。
 果物も実る。梅、枇杷、スモモ、ブルーベリー、柿。
 住めば都になりつつある。これも、ななべえのお陰かもしれない。
 人が溢れ、ストレス充満の東京には住みたいとは思わない。便利? 結構です。
 タワーマンション? 平屋で広い庭があるここの方がずっと豊かに感じる。負け惜しみでなく。
 各家にカラオケセットがあるらしい。防音設備などなくても、家と家の間隔が広いから問題ないのだ。

 ななべえは来月94歳になる。
 少しずつ足腰も頭脳も弱まりつつある。
 しかし、それは仕方のないこと。今と変わらない日々がなるべく長く続いて欲しいと願うばかりだ。
 車に長く乗っていると疲れるので、旅行にも行きづらくなった。家にいて、いつもと変わらない時間を過ごす方が良い気がするのだ。
 朝、餅を食べ、誰だかわからない男に髪を整えてもらい、バタやんや三波春夫を聴き、眠くなったら寝て、タカラジェンヌになって歌い踊る夢をみて、腹が減ったら起き、娘の手料理を食べる。
 手前味噌な話だが、ななべえは幸せではないだろうか? できることなら、そう思っていて欲しい。
「ごめんねえ」
 妻や私がトイレや着替えを手伝っていると、よくそう言う。
「なんで謝るの?」
と聞いても、明確な返事はない。とにかく、申し訳ないと思っているようなのだ。やってもらっている側からすると、そういう気持ちを抱いてしまうのは仕方がないのかもしれない。
「謝らなくていいよ」
と何度言ってもので、言われてももう返事はしないようにしている。
 大事なのは、どんな時でも笑顔で接することだ。
 笑顔を向けると、ななべえも可愛い笑顔を返してくれる。
 笑顔は家族円満の秘訣であり、平和の素だ。どこにも売ってない。心の中の棚にそっと置いてある。

 さあ、もうすぐななべえがデイサービスから帰って来る時間だ。
 笑顔で迎えよう! ななべえの笑顔を見るために。
 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?