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正しさから抜け出すと共存するしかなくなる。【なぜ自分らしく生きると人は助け合うことになるのか】


あらゆる問題意識の根本にあるのは人間関係だ、ととある有名な心理学者は言っていました。(著者を忘れてしまいましたが)



人は誰でも自分自身にかけた”呪い”を解く旅をしていると思います。その旅路の中で、”人とどう関わるのか”という課題に誰もが取り組まされます。


仕事の悩みも、見た目の悩みも、その大元を辿るとある種の”孤独”に対する根源的な恐れが見えてきます。お金を稼ぎたい、仕事で成功したい、美しくなりたい表面の理由はそれぞれだとしても、その枝葉を辿っていけば”自分は孤独であると感じたくない”という恐れに突き動かされているのです。


人とどう関わるのか、それはつまり”孤独”とどう付き合って生きるのか、ということでもあるのでしょう。


タイトルにある、「正しさから抜け出す」という表現を別の言葉にするなら、「自分自身にかけた呪いを解く」と言い換えることができるのではないでしょうか。そして、そのプロセスの中で孤独と向き合い、人との関わりについて根本から考えることになる。


今の時代、まさにそのタイミングだと感じています。


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(最近、ときめいた本)



呪いなんて自分で自分にかけたつもりはない、と思いながら、わたしたちは自分の中に潜む”物語”に突き動かされ、その物語のパターンに囚われています。

パターンを持つことのメリットは、それが一度定着すると無駄な労力を必要とせずとも、あれこれ考えたり、連想ゲームのように想像したり、未来を容易に描くことができること。

しかし、同時にデメリットもあります。小さい頃と同じ洋服を着る必要はないように、自分の持っている物語のパターンが、自分の成長と噛み合わなくなってリニューアルされる時がくる、ということです。



つまり、わたしたちは物語を更新し続けなくてはなりません。物語を更新すること、それは”成長すること”と同意義だということです。



成長、という言葉は抽象的ですが、あえて定義するならこのようにいうこともできるのではないでしょうか。


昔はこういうことがあったらこういう反応をしていたけれど、今はこういう反応をするようになった。そんな自分は成長したな。


同じことに対する反応が変わること、あるいはその反応を”自ら選択できる”という感覚が備わることによってわたしたちは成長を感じます。


そのような時、わたしたちは古い物語のパターンによって脳内を支配される側から、自ら新しい物語を選択したり創造したりする側へと、変わります。



つまり、成長というのは、”できることが増える”ことではありません。また、成長というのは”誰にも頼らなくなること”でもありません。


成長の本質は、その人自身が自分の反応を選べるようになる、ということです。そして、自分の反応に対する責任感が生まれるということだと、わたしは思うのです。


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本題から少しずれますが、わたしは発達障害という言葉があまり好きではありません。発達の障害、ということは、”然るべきタイミングにおいて然るべき成長をしていない”と言われているように感じてしまうからです。


今まで、泣くなんてダメだという人が”人前で涙する”という反応を選べた時も、成長したと言えます。だから、本来は成長は人それぞれの数だけあって、同じ尺度で測ることはできません。


しかし、わたしたちは小さい頃から、無意識に”同じものさし”によって成長が測られています。そのわかりやすい事例というのが、発達障害という概念でしょう。


そんなわたしは、いわゆる発達障害といわれる性質の自覚があります。その自覚をしたのは18歳頃でしたが、母親に『わたし、発達障害みたい』と伝えたらば、ものすごい剣幕で怒られました。


彼女は怒りながら、こう言いました。


『あなたは発達障害ではない。あなたは、特徴があるだけで、他の人と比べて障害があるだなんて絶対に思ってはいけない』


今思うと、もしかしたら母は、娘が発達障害だと決めつけられることによって、無意識のうちに「わたしの教育が然るべき成長を止めたのではないか」と言われている気分になったのかもしれません。


当の本人としては、軽い気持ちで言っただけだったのですが、そこまで怒るということはきっと、彼女の中にある何かに触れたのでしょう。


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さて、話を戻します。


この記事で本当に扱いたい議題は、”成長すると人は共存を選ぶようになるのはなぜか”という話です。



結論から述べると、人は成長するごとに自分を信頼できるようになり、他者を信頼できるようになり、互いに助け合う生き方のほうがより、コストパフォーマンスが良いことに気づくから、ではないかと。


コストパフォーマンスというのは冷たい印象を抱くかもしれませんが、生命の本質的な在り方のひとつ。細胞も身体の臓器もコスパ重視、大切な生命力をいかに使うか、たいへん美しい旋律で助け合っていきているわけです。



先ほど、

成長の本質は、その人自身が自分の反応を選べるようになる、ということ。そして、自分の反応に対する責任感が生まれるということ。

と書きました。


自分の深層心理や潜在意識を探求しだした初期の頃に、今まで抑圧していたような反応が出てくるというパターンが現れます。


当の本人は最初戸惑うこともありますが、学べば学ぶほど、本当はこういう風に反応したい(のに抑えている)、本当はこういう風に反応している(のに我慢している)ということに気づきだします。


いかに自分が自然な反応をしていなかったか、ということに気づいていくことが潜在意識やら深層心理やら自己本質やらを探求する第一歩なのです。


本当はものすごく怒っているのに笑っているとか、本当はものすごく無反応(無反応という反応)なのに興味ある風にしているだとか。


そういった”反応”と”嘘”を通して、自分の中にあるパターンを見つけることができます。


そのパターンは必ず、何かしらの物語に支配されています。つまりそれは、自然な反応をしてはいけない理由が、自分の中に”物語”として明確にあるからです。


Aのような場面においてBのような反応をするとCになってしまう

という物語です。あるいは、

Aに大してBという反応をするとCが起きてさらにDになってしまう

これも物語ですね。



反応に対する物語のパターンを見つけ出すと、自分の中にある逆らいづらい流れのようなものがいくつも見えてきます。

流れのたどり着く先が良い場所であれば何の問題もありません。自分の中にある物語に流されればいいわけですよね。


しかし、自分の中に、自分がたどり着きたくないような流れ、あるいは”もう”そこにはたどり着きたくなうような流れがある場合は、その流れそのものを変えなくてはなりません。

さもなければ、その流れに抗うか、もしくはその流れに入り込まないように避けて生きるか、という選択になります。



自分の中に好ましくない流れ、物語がある状態で、そこから目を背け続けるとどうなるか。


自分が怖くなります。自分の感覚が信用できなくなります。自分がわからなくなります。自分が怖くなる、自分の感覚が信用できなくなると人は、他者も怖くなります。そして、他者のことを信用できなくなります。


繋がれない、のです。



例えば、人に裏切られた!と感じたときのことを思い出してみてください。そこに”反応の裏切り”が見えます。


こういう風に反応すると思ったのにしてくれなかった!(信じられない!)こういう場面ではこういう反応するべきでしょ?ありえない!(信用ならない!)


はっきりわかる行動レベルだけではなく、無意識に察知する相手の反応に対してわたしたちは、即座に、信用できるかできないか、秒より速い速度で実は感知しているのです。



ということはつまり、人を信用する・信頼するというのも一つの技術、身についていくものだということ。無意識の反応に頼りきるのではなく、そこから自分でさらに”感じて”いくものだ、と。


よく、「すぐ人を信用して騙されちゃうんだよな」という人がいますが、残念ながらそれは信用しているとは言えません。それは信じているのではなく、流されているだけ。自分の感覚や流れを信用できないから、人の流れに疑わずに流されてしまうだけなのです。




ではひっくり返して考えてみましょう。人を信じる、信用する、信頼するとはどういうことか。まずベースに、自分の感覚を信用する、信頼するという基盤が必要となります。


頭で感じるメリットデメリットではなく、また

過去の習慣による無意識的で無意味な反応

でもなく。


もっと生々しい、なんといいますかリアリティのある、ハラのそこで感じる何か、という感覚でしょうか。その部分を知覚し、その部分を信頼し、その部分に導かれて生きるという選択をコツコツ積み上げる。そうすることでしか、自分自身への信頼は取り戻せません。


そのプロセスで人は、色々な反応やパターンや物語を捨てていきます。あるいはリニューアルして、より自然体へと戻していきます。要らない反応を捨てていきます。孤独から目を背けるために逃げ回っていただけの足を少し止めて顔を上げます。


過剰な反応はニュートラルになり、不足していた反応や抑圧していた反応のゼロ地点へ戻る。


そうしてくると気づくことがあります。他者には”ある”けど自分には”ない”感覚があることに。逆に、自分には”ある”けど、他者には”ない”感覚に。



ここがミソだと思うのです。


人、ひとりひとりが本来持っている自分の根源的な反応の感覚を取り戻した時に発見するのは、自分という存在の形が綺麗なマンマルでは無いということ。

自分の感覚と他者の感覚は違うし、違っていいし、完全に同じではなくてもいい、ということ。それは、欠けているとか不足しているとか、凹んでいるとかではなく、”そういう形なんだ”ということ。


そして、他の人はまた自分とは違う形を持っていることも発見します。自分とは違う感覚を持っていて、自分の担当ではない分野を担当しているといったように思えるようになるのではないでしょうか。


そして、同じ感覚になることが孤独を埋める方法なのではなくて、ひとりひとり違う感覚を”持ち寄って”ホームパーティーする、みたいな関わり方が必要なんだ、と。


感覚の持ち寄りができることが共存だと思うのです。そしてそれは、同じものさしを持たなければならない訳ではなく、共存と”共感”は必ずしもイコールではない、と。


共存して生きることを選ぶようになるということは、正しさという呪いよりも、自分の奥深いところにある感覚の方を選択するということ。みんなが今まで以上に、その部分に対して素直になっていくのではないでしょうか。


正しさから抜け出すと共存するしかなくなる。【なぜ自分らしく生きると人は助け合うことになるのか】


その答えはズバリ。

コスパが良いから。



(とまぁ、何度書き直しても同じオチにしかならなかったのでなんだか最後だけカジュアル過ぎますが、そこはご愛嬌ということで。)





メソッド開発に関わっている、新コーチングプログラムです。








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