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手段はあっさり諦めて心に宿る目的だけ待てばいつでもなりたい自分で居られる

『何を仕事にしているんですか?』というのが最も回答に困る質問だ。


講師もする、書き物もする、啓発業もするしセラピーもする。カウンセリングもコーチングもするし、開発もする。研究もすれば、哲学もやるし、ビジネスもやるしマーケティングの話もするしコンサルティングもする。


ブランディングもやるし裏方で組織作りもやる。コンテンツプロデュースもするし、メニュー開発もする。ディレクション全般は大好きだけど、表にも出る。


写真も撮るし、動画編集もある程度はできる。WEBサイトも作るし、自分でデザインもするときは、する。イラスト図解も書くし・・・・



あぁ、もうどういうことか、分からなくなる。


これは決して、自分の引き出しの多さを自慢したくて書いているわけではない。いつも混沌としているだけなのだ。でも、そんな自分を変えるつもりはない。カオスなくらいがちょうどいい。自分を定義しすぎると窮屈でしかたがない。


自分が他者にとって”分かりやすい何者か”になろうなんて思わず、”自分が既に知っている自分”になるためにだけ、やってきた。


今日は、そのきっかけとなった話を書こうと思う。

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(朝読むとテンションあがる本)


美大の夢、やぶれる


高校生の頃、わたしは進路を考えるときに「美大に行きたい」と思った。


思えば小さい頃からずっと、自分は何かを作る人になると思っていたし、勝手に絵描きになると思っていたから見よう見まねでデッサンを書いては、そこにオリジナルのサインをしていた。


だけど、本気で美大を目指すなんて考えることもなく、サークルや部活、バイトに夢中になって気づいたら高校2年生になっていた。


美大に行きたいです、と先生に言うと、一言目に『君は美大をナメているのか』と言われたのだ。先生は美術部の顧問だった。


その先生はわたしに、美大を目指すことの難しさと、合格のためにすでにわたしの何年も前から準備をしてきた人たちがいる、お前はそれでも今から死ぬほど努力して合格するつもりはあるのか、浪人する覚悟でできるのか?と畳み掛けるように言う。


冷たくなった木の椅子の上で、ちょっと鼻声で息継ぎもせずに早口でいろんな美大受験の難しさを並べる先生を見ながら、気持ち悪い感覚になったのを覚えている。


わたしは「美大を考えています」と言っただけなのに、彼の何を刺激したのだろう。


今回はそんな先生の話がしたかったわけではなく、「目的を諦めないためには手段を諦めることも重要」という話なのだけど、あの時の見下した先生の顔は今でも忘れない


(恨んではないけど、もっと他の言い方もあったんじゃないかと個人的には思う。笑)


手段が邪魔ならさっさと諦める


先生のその言葉を聞いてわたしはもう一度よく考えてみた。高校生の頃のわたしにとって、大学に進学するのは、放っておいたら髪の毛が伸びるのと同じくらい当たり前のことで、疑うこともしなかった。

進学校だったということもあるし、両親にとってもそれはそうで。


どうして美大に行きたいのだろう?

と考えてみたけれど、美大じゃないといけない理由はなく。


わたしはとにかく”感覚としてはこっちの方向”というのだけ、自分の内側に持っていた。いわば、その”感覚”がすべての目的であり、すべての方向性を決める軸だった。


それがデザインの方面なのか?インテリアの方面なのか?それともアートの方面なのか?

その時のわたしには分からなかったけれど、今でも正直よく分からない。

ただこの年齢になって思うのは、そんなまだ何も経験していない若造が”この感覚を満たすのは、こういう仕事である!”なんて分かるはずがないということ。


そもそも、”感覚”がないことも多い。正しくは、なくなってしまうことが多い。それは、まだ言葉さえ覚えたてのころから大人たちや環境などによってプレッシャーされて潰されてしまうのだろう。

具体的な進路やなりたい職業、やりたいことなんてはっきりしなくていいから、とにかく”感覚”だけは潰さないてくれ、と心から思う。



幸いにもわたしには、小さい頃からずっとこの”感覚”があった。わたしは将来これをする、こういうことをしているんだ!という感覚だ。


だから、この感覚を現実的なものにするために、どの方向へ進学すればいいのか?は他の同級生よりも考えやすかった方だと思う。


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結局、美大は諦めた。わたしにとって美大というのはひとつの手段でしかなく、目的ではなかったからだ。

手段はあっさり手放したけれど、”わたしの知っている、わたしになる”という目的は何があっても諦めないと決めていた。


そこで工夫しようと思った。


”この感覚”を達成するために、自分が一番良いと思う進路はもしかしたら、建築の方かも?

でも、自分は文系だ。ガチの建築に進むには学んでいない教科が多い(そして、数学が苦手だった)

そしたら、デザイン系の専門学校はどうだろう?すぐに実践して技が身につきそうだし、美大よりは入りやすいんじゃないか

両親にバッサリ斬られる。うちの両親の「進学辞書」には、専門学校という言葉はなかったらしい。完全に反対された

どうしようか。うーん。

この時わたしは、自分の”学力”なんて全く考えていなかったものだから、今となっては恐れ知らずだなぁと感心する。

とにかくわたしにとっては、”感覚”が重要だった。感覚をつかんで離さないよう、いつもその感覚を感じているようにした。

その感覚をつかんだまま、嗅覚を働かせて、そして神経を働かせてベストな選択肢を探った。

そして、わたしはその時の自分にとって最大限可能な方法で、その感覚を達成できると思われる学校を見つけたのだ。

インテリアと建築、美術とデザインや意匠、ファッションなどがトータルで学べる。

しかも文系でも大丈夫。強みの英語を使って試験が受けられる。

私立であることと、京都という実家から離れている場所であることだけが唯一、両親の希望から外れていたので、その説得が必要だったけれど。


学校を見つける時にもう、思った。


「あ、ここだ」


だから、学校見学も行かず、特に調べることもなく、その学校に決めた。


自慢じゃないけれど、その大学にはなんとギリギリ1点の差で合格。あと1単位足りなかったら留年・・・というギリギリで卒業。ギリギリ入学してギリギリ卒業、つまりコスパ良かったってことで、と今ではネタになっている。多分、学校もただの手段でしかなかったと思う。


なりたいわたしは、すでにわたしの中にいる



大人たちからもらう、いろんなアドバイスって時に手段を閉ざすことがある。だけど、目的までは閉ざしてはいけない。

わたしが大人になっていくにつれて、自分より年齢が若い者と出会うようになっていく度、気を付けたいと思っているし

誰かにアドバイスをするときも、気をつけている。


彼らの”感覚”を閉ざしてしまうようなアドバイスをするのではなく、彼らの”感覚”を広げながらも、手段は適切なものを選べるように意見を伝えていくことが大切なんじゃないだろうか。


感覚を閉ざすのは、相手の存在そのものを否定することと同じであり、相手の生き方をコントロールすることとも同じ。誰にもそんな権利はない。


美大をあっさり諦め大学入学してから、いろんなことがあって結局、アートでも建築やインテリアでもデザインでもファッションでもない道に進むことになっているけれど、


わたしはあの頃の”あの感覚”のまま、突っ走っている。


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なりたい自分になれている、と言えば聞こえはいいかもしれないけれど、自分が手段にこだわって苦しんだこともよくあった。

「こんなことがしたかったのか?」
「自分はあぁいう事を仕事にしたいんじゃなかったの?」
「啓発ビジネスなんてやりたかったっけ?」
「他の同業者と一緒にされたくない!」


なんて、何度も思ったことがある。怒りで発狂して、身近な人を驚かせたこともあるし、泣きじゃくってダダをこねたこともある。

それでも、毎回確認する。高校生の時に感じた、”あの感覚”を思い出してみる。

言葉にならない、具体的な仕事名にもならない、なんと説明したらいいかわからないけれど、確実にわたしの中にある『わたしはこういうことを仕事にしている』という感覚。


”わたしの中に、既に知っているわたしがいる”


わたしはこういうことをしている人間である、という感覚。


この感覚に今の現実を照らし合わせてみると、確かに手段は思い描いていたものとは違えど、やっている仕事の本質は同じだと気づく。

形にこだわらず、手段に執着せず。

仕事の本質をよく見れば、どんな仕事も”自分らしく”できるのだ、と毎回学ばされる。


だから、わたしはあの頃のなりたかった職業には就いていないけれど、やりたかったことはすべて出来ていると感じるし、目の前にあることをコツコツやっていけば良い安定感を感じる。


感覚は今だにうまく表現できないから、どんな仕事をしたいのかだとか、具体的にどんな業種なのかとか、やっぱり言葉にしてしまうことに抵抗がある。


デザインですだの、企画ですだの、心のことですだの、写真ですだの、アートディレクションですだの、経営ですだの、マーケティングですだの・・・


”言えちゃう”と”消えちゃう”から、やっぱりこのままにしておこう、と思うから、これからもやっぱり『何をしている人なんですか?』と聞かれても、よく分かりませんと答えることにしようと、決めた。



あなたの”既に知っている”あなたの本来すべきことはなんだろう。

あなたの中にもともとある”わたしはこういうことをしている人だ”という感覚はどんなものだろう。


環境や誰かに潰されることはあっても、消えて無くなることはない。その感覚を思い出せば、自分にとって仕事の羅針盤となる。

その羅針盤さえあれば、本当は手段なんてこだわり過ぎる必要はない。これからの時代は、心の中にある仕事の羅針盤が自分の働きかたにとってものすごく重要となるはずだ。


思い出そう、取り戻そう、心のコンパスを。あなた自身の感覚を。

あなたの感覚を閉ざす人のいうことは聞かなくていい。混沌とすることを許さない大人ぶった人の話はうまく聞き流せばいい。

どうやって、何をして、具体的に?それは後から必ず、ついてくるから。




あなたは、どんなあなたを既に知っているかな。


自分に誠実でいる、という武器だけ持っていたらいいよ、と高校生のわたしに伝えたい。

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こういう空がたまらなく好き、そんな冬が好き。

もし人生が無条件に自由で豊かだったら何をするかと言われたら書く、というくらい書くことが生きる上で欠かせない人間です。10年間の集大成を大放出します。サポートは全て執筆と研究活動に使わせて頂きます