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丑年うまれの祖母のこと

 年末に母から聞いた今はもう天国で笑っているであろう祖母の話を忘れないよう書いておこう。

 祖母は明治生まれのモーモーさんだから生きていれば今年120歳かな。丑のように静かに黙々と働く人だった。丑のようにどっしりと構えた揺らぎのない人だった。


 祖母の人生は小説が書けるくらい波瀾万丈だったんだと母は言う。限られた時間で聞いたその波瀾万丈だった人生の一部。

  祖母は子どもの頃、子どものいない人の所へもらわれた。だけど家に帰りたくて毎日線路を行く電車を見ては帰りたいなあと思っていたんだと。結局なつかなかったから実家に戻されたとか。

級長してたのは4年までで、あとはダメだったぁ。おまっさまはずーっと級長してたんだぁ。

姉のことはおまっさま(おマス様)と敬い、妹のことはきよこと呼びすてだったわと母が笑った。

大きくなって大学教授の家で女中さんをしていたらしい。

ある日泥棒が来て、障子に穴あけてのぞいて見てて、それはそれはこわかったんだぞぉ。

19才の特、風がふくだけで足が痛くて、注射をしたら、あっという間に治ったけど、またあっという間に痛くなったけど注射は1度きり。朝鮮で暮らすようになった女中さんをしていた時の大学教授が、遊びにおいでと言うので、その痛い足で朝鮮に渡ったんだよ。電車乗るのも船に乗るのも足をあげるのが、痛かったんだって。

朝鮮へ遊びに行って、そこで紹介されたさだじろうさんと結婚。足が悪くなけりゃあこんな美人とは結婚できなかったぞとさだじろうさんは周りの人から言われたんだとか。

朝鮮で暮らして子ども7人をうんで育てた。でも10日間の間に母より下の3人の弟妹は病でなくなった。1才になるかならぬかの子もいた。周りからは子どもを3人もなくしたのに涙一つ見せない鬼だと言われたんだとか。

小さな子達はお弁当を作ってもらって家の前を行く兵隊さんに敬礼したりして過ごしたそうだ。かわいかったろうなあ。

あとから思えば日本に帰るのに7人連れて行くのは難しかったかもなぁ。

母も日本に帰る船ではぐれたとか。あのままはぐれていたら自分だけ朝鮮で暮らしていたろうなあと言っていた。

朝鮮で戦後日本人は憎まれた人もいたという。憎まれることをした人だ。朝鮮に住んでいる人を軽んじて扱った人。敬意のないところに敬意はむかない。

祖母は仲良く過ごしたようだ。祖母が教わったお漬け物は今でも食べられる。あまりひどい目にあわずにすんだようだ。

日本の福島の祖母の姉を頼って帰った。祖父は慣れない木工所の仕事で木の粉をたくさん吸い込んだこともあり病でなくなったという。それから祖母は4人の子どもと福島で暮らした。三棟会といって、その頃長屋で暮らした仲間とのおつきあいがまだ続いている。苦労を共にした仲間だ。

私の伯父にあたる長男の仕事で母が高校の頃、家族で現在の地に越した。これまたおもしろいもので、仕事を探していた伯父が電車で隣り合わせた人に身の上話をした時に保証人がいないことを話したら、その人が保証人になってくれたそうだ。おかげで伯父

は銀行勤めができ、家族で暮らせるようになったとか。伯父は生前その保証人になってくださった方に毎年お中元お歳暮お年賀を欠かさなかったそうだ。

母は伯父や祖母の理解と手助けで大学まで通え、教師となった。同じ大学で出会った私の父と結婚した。父には父の苦労話があるが、それはまた今度。

結婚して双子がうまれたので、祖母が助っ人で同居となる。

黙々と働いた祖母。洗濯、食事の支度、掃除、来客の接待。お米屋さんやガス屋さんとのおつきあい等々。

近所の美容院でいまだに言われるのは、私の兄が小学生の時、下校後美容院の息子さんの所にお見舞いに行っていたそうだ。

「宿題は?」と聞くと「すませた。おばあちゃんの勉強もすませた。」と兄が答えるので、おばあちゃんの勉強について聞くと、買い物してきた物の計算をしたり、広告を見て買い物した想定で計算をしたりするらしい。

私の記憶は動物ビスケットで、動物の名前を言ったり、英字ビスケットで言葉作りをしたっけな。

祖母はよく笑ってた。ニコニコしていた。怒るとだんまり。その背中は怖かった。

大きな声を出したところは見たことがない。母も大きな声で怒られたことはないようだ。家のことは任せて仕事に専念していいと言われて本当に仕事に専念させてもらったわと母。祖母は怒ることはなかったが、目にあまることがあると「ちょっとここへ座れ」と言って、座ると「◯◯の時は△△すんだから~」って諭すのだそうだ。怖かった~と母。

いつも穏やかで上品だった。病院のつきそいの日に寝てしまった私を怒りもせず起こしもせず、疲れてんだべと許してくれた祖母。大事にしてくれたのにあたりまえのように好き放題していた孫です。後悔ばっかりある。京都でなく地元の大学にしたのだけよかったなあ。それも2ヶ月ばかりの話だったし、最後の夜は夕食に間に合わなかったけど。

たとえ地獄に堕ちるとしても天国にいる祖母に一目だけ会えるよう精進する日々。

祖母に今も包みこまれている時間。祖母のような働き者の手になりたい。

ありがとう。精進して生きるね。



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