希死念慮との向き合い方

ネガティヴなの抑えるんじゃなかったか???

 だって思いついちゃったし…………。

 いきなり本題からそれた話になるが、「死ぬ気で頑張った」とか「死ぬかと思った」とか「死んでもいい」とか、なんとも僕たちが住むジャパンにおける「死」は軽いなあといつも思う。勿論本当に死ぬと思っているわけではない事は十分理解しているし、これらの言葉が比喩であることも分かっている。僕自身この言葉を使うこともあるが、本当に死ぬかと思ったことなど数回しかない。しかしながら、比喩で「死」レベルの感情を表しているのを頻繁に見ていると、「ちょっと感情がでか過ぎやしませんか?」と思ってしまう。

 それはさておき希死念慮だ。そもそもなぜこの内容になったかというと、まあTwitterの影響だ。精神が参っている人間(ふぉろわー)を複数視認したので、どうせなら僕の感じる希死念慮についてここで書いてみようと思った次第である。因みにこの記事に彼らを励ます意図はない。なぜなら僕自身、他人に「分かる分かる、辛いよな、しんどいよな」などと励まされたところで「他人の気持ちなんざわかるわけねーだろ、すっこんでろ」となるからだ。当然、他人に共感されて感情が落ち着くことも多々あるのは分かっている。親身になって接してくれている人間と関わりを持つのはそれだけで心に癒しを与えてくれる。Twitter上にはすぐに病んでリスカしてみたりいかに自分の価値がないかを懇切丁寧に教えてくれる病み裏垢が沢山存在しているが、あれは自分に関心を持ってくれる存在、癒しを与えてくれる存在を求めているからだと僕は予想している。それだけ、人間の心にとってコミュニケーションとは大切なのだ。ではそれが分かっていて何故僕は「すっこんでろ」になるのかというと、話題が話題だからだ。端的に言うと、希死念慮に関しては自分一人で向き合いたいというエゴイズムである。その結果誰が痛ましい思いをしようが誰に迷惑をかけようが関係ない(そもそも希死念慮に一人で向き合う時に他人に迷惑なぞかけたりはしないのだが)。なのでここでは、僕の心の記録という意味も兼ねて、どうやって希死念慮に向き合っているのかを書き出していこうと思う。

 前置き。2/27の午前2時現在、僕は酔っぱらいながらこの文章を書いている。

「あ、なんか死にたい」

 以上、希死念慮の説明終わり。……とするのもあまりにも雑だと思ったので、希死念慮とそれに関連する自殺念慮、自殺願望について雑にまとめておく。

希死念慮:自らの死を願う気持ちで、その程度の強弱は幅広い。「消えたい」などといった、どちらかといえば抽象的な「死にたい」願望。
自殺念慮:「死にたい」気持ちと「生きたい」気持ちが揺れあっている状態。この揺れが激しくなり、「死にたい」気持ちが一定の量に達したら自殺を試みたりする。希死念慮が強くなったらこうなることが多いっぽい。
自殺願望:嫌なことや辛いことなど、何かしらの死にたくなる理由を持ち、それらの苦痛から開放されようと自殺を検討する状態。希死念慮と比べて明確な「死にたい」理由があることが多い。多分。

 以上を踏まえて話をしていく。ここで前提になるのは、僕は希死念慮と自殺願望を抱いた経験があるということだ。陰キャってだいたい希死念慮持ってません?(偏見) で、僕は勿論陰キャ。つまりそういうことだ。

脳内会議

タイトルし

 僕の脳内には複数の人格――別の言い方をすると僕の仮面、僕の一側面ともいう――が存在しており、僕の行動は彼らによる脳内会議により決まっている。……と言うと凄くイカれた人間になってしまうので、もう少し一般的な物言いをすると、僕は出来るだけ多くの側面から事象を見て判断するように心がけている。勿論、意識的にだけれど。めっちゃ頭使ってる。

 例えば食材を買いに行く時は、脳内の僕が行く理由(栄養バランスの問題、食糧不足など)と行きたくない理由(寒い、節約したい、御飯と味噌汁でいいじゃん)を出し合って、より合理的な方を選択している。今回の例であれば、栄養バランスの問題は病弱の僕にとって非常に大きいポイントとなり得るため食材を買うという選択がなされる。

 そんな脳内会議は、勿論僕が「死にたい」と思った時も開催される。メンバーは「死にたい僕」と「死にたくない僕」の2名だ。「死にたい僕」が「死にたい」と言えばもう一方は「あっそ。なんで?」と返す。ここで「死にたい僕」は理由を話す。”自分には存在価値がない” ”こういう辛すぎることがあった” ”こんな失敗をしてしまった"など、とにかく思った節から頭に出していく。自殺願望を持つ者にとって死とは解放であり救済だ。目的を達成するために少しでも多くの理由を吐き出していく。

 「死にたい僕」のターンが終わると、「死にたくない僕」のプレゼンが始まる。励ましではない。というのも、「他の人だって同じ、あるいはそれ以上の苦しみを味わっているかもしれない。でも生きてるんだ、僕だって」などと言ったところで、僕の場合は「よそはよそ、うちはうち」で終わるので特に効果はないのである。そこで、生存を続けることによるメリットをプレゼンするのだ。”好きな声優(兼歌手)がもうすぐCDを出すぞ!" "現実でアニメみたいなことが起きている" ”妹の結婚式を兄として見なきゃいかんだろ”などなど。他には"僕が生きているだけで僕の嫌いなやつが嫌な顔をする。ざまあみろ"とか。で、大体死ぬメリットより生きるメリットの方が今のところは断然大きいので死んでいないのである。

 というか今死んだ場合、家族にクソ迷惑がかかるというウルトラ大きいデメリットが存在する。僕が死ぬのはともかくとして、それで家族の人生設計に爪痕を残すのは僕の望むところではない。なので自殺するとするなら必然的に家族が死んだ後になる。果たしてそんな日は来るのか、そもそもその日まで病死せずにいられるだろうか。病死するくらいなら自殺のがいいかもしれんな。入院費とかかからんし。あと、生まれ変わりというのが必ずあるのなら死んでみたさはある。次は声帯から緑川光みたいな声が出る人間に生まれ変わるんだ……。

 死んでも家族に迷惑がかからない、むしろ迷惑をかけたいという境遇の人が一定数存在することも分かっている。というか身近にそういう人間がいる。しかしながら、そのような場合は生きてるほうがもっと迷惑をかける事が出来ると思う。僕は死んで清々したと言われるのは死んでもゴメンだ。

 話がズレたが、僕の「死にたい」という気持ちはいつもこんな感じの脳内会議によって鎮静している。ちなみに、なんでもかんでも脳内会議にかけて理屈や合理、利害を考えて行動している僕がある時教授から言われた「ロボットみたい」という言葉を、僕は非常に気に入っている。でもロボットじゃないよ、アンドロイドだよ。

人間生きてる価値なし

 殆どの人類は存在価値がないと思う。存在価値がないというよりは、生きる意味がないというか。それこそ世界が変わるような発見、発明をした人でもない限り。何にでも理由や価値をつけようとするのは僕もよくやるので非常によく分かるのだが、案外理由のない無駄なものは世界に多くあったりする。蚊とかハエの生きてる意味なんて僕からすれば微塵たりともないし、とっとと消えてほしいまである。世界は無駄で出来ている。地球はちっぽけで人間は所詮タンパク質。幾度の時代を超えて不変。たった一つの理由はなく、たった一つの価値もなし。ならば我が生涯にも意味は不要ず。この世界は、無限の無駄で出来ていた――とか言ったら色々な人からお怒りが発生ししそうだ。

 ゆえに、僕の人生に意味がなかったところで特に問題はない。意味なく生きるもよし、生きる意味を見つけるために生きるのもよし。勿論、「死にたい」と思う僕がいてもいい。死について考える時間はそれこそ客観的に見れば無駄な時間だが、そんな無駄もまた一興。自分の頭を冷静にブン回せるので、思考の練習としてはアリじゃないかとさえ思う。どうせ無駄な存在の自分なのだから、無駄に生きていこう。無駄サイコー。

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