「自分を変える」とは

 そろそろ大学が始まる。単位に関してはほぼ問題ないのだが、問題は英語だ。自分は大学院への進学を予定しているため、そろそろ本格的に英語の勉強に着手しなければ色々と間に合わなくなってしまう。なんだか書いていて憂鬱になってきたので現実逃避をしようと思う。


 意識が高い人間のブログやTwitter、noteなどでは、よく「自分を高める」とか「自分を変える」とか書かれている。何かに失敗した時などに「自分は駄目だ」と打ちひしがれることはないだろうか。そんな時、「こんなのじゃ駄目だ」と、変わろうと努力してみたり、あるいは変わるぞと声に出して宣言してみたりするらしい。それが自己研鑽のモチベーションに繋がったりするようだ。

 じゃあ、それで果たして本当に変われるのか? 自分を成長させることが本当に出来るのか? そう聞かれた時に胸を張ってYESと答えられる人間は果たしてどれだけいるだろうか。私達は少年漫画の主人公やその仲間たちじゃないし、ラノベや映画に出てくるヒーロー役でもない。そう簡単に変化、それも良い方へ変化していくことなど出来るわけがないじゃないか。と、そう思うわけである。


 でも皆変わらなきゃとか考えたりするよね、上で偉そうになんか言ってるけど私もしたことある。というかそのプロセスに至る前の「やっぱり自分なんかじゃ駄目だ」などという自己嫌悪、「オマエは本当にどうしようもないやつだな」という自責を数え切れないくらいしている。

 なんでそうなるかというと、きっとその自己嫌悪や自責というものが自分にとっては一種の逃避行動になっているから。自分を責めること(=責任の所在を明らかにすること)で行く宛のないモヤモヤした気持ちをまとめられたり、現実で起こっている不都合に一時でも目を逸らすことが出来る。しかし当然ながらこれらは勿論褒められたことではない。逃避だなんだと言っても結局は自分を追い込んでいるわけで。しんどいに決まっているし、やり過ぎると自分の精神が死んで鬱になってしまう可能性もある。


 さて、いつも通りネガティヴな話をしてきた。しかしながら、実はさっきまでウダウダと書いているこの私にも変化はあったのである。しかも(一般的観点から見て)良い方向へと、だ。

 それは何かというと、服装である。これが大分見られるようになったのだ。これまで「着られればいい」「実用性・安さ重視」で19年間程度を生きてきたわけであるが、ここ2年間でついに「流石にまずいぞ」という気づきを得た。だが、つい最近まで上記2つの理由で服を選んできた私にファッションセンスというものは欠片も存在しなかった。これでは自分でどうにかしようとしたところで結果は見えているし、ファッション誌を読もうにも中のモデル共は軒並み高身長だったりたっかい服を着ていたりでと、てんで参考にならない。ついでに言ってしまえばそのファッションのどこがいいのかすら、センス皆無な私には理解が出来なかった。気分はテルマエ・ロマエである。

 ではどうしたか。答えは至ってシンプルで、”友人を頼った”。ただそれだけだ。不本意にも増えてしまった友人の中に、なんとなくではあるものの、「カッコいいなあ」と思う人がいた。その友人に「予算はある程度あるから服を選ぶのを手伝ってほしい」と恥を忍んで頼み込んだわけである。彼は初め「えぇ……?」なと困惑していたが、まあしゃーないなと承諾してくれた。後日待ち合わせたあとにイオンモールへ行き、ユニクロやらG.U.、無印良品にRight-onなどへと連れ回されながら色合いなどについて色々と(色だけに)教えてもらった。結果的に、手痛い出費と引き換えに私は劇的にファッションの改善をすることが出来た。


 この話から得られたこと。それは、「自分を変えるなんて自分一人じゃ無理ゲーなんだから人やモノに頼れ」という思考である。自分一人では自分だけの価値観、力量しか持つことが出来ないため、どうしたって限度はあるしモチベーションだってそう長くは続かない。しかし、人に頼れば信頼という精神的なプレッシャーが、モノに頼れば出費という現実的なプレッシャーが背中を押してくれる。自分の意思で動けないなら、自分を強制的に動かせばいいのだ。

「自分を変える」ことを能動的に出来る人間はあまりにも少ない。無論、私も自分を変えられない(基本変える気がない、ともいう)。ならば、「自分を変えてもらう」と考えればよいのだ。人やモノ任せにすることで簡単に自分を変えさせられる。頼るタイミング等を調節することである程度その変化も調整することが出来るし、なにより楽なのが大きい。「楽して変わろうなんて!」と生真面目な人間は思うかもしれないが、私は不真面目な人間なのでオールオッケーである。というか、変化とは苦労して行うものであるというルールなどないのだからやり方は自由に決まっている。楽に出来るのならその方がいい、当然のことである。

 この”人やモノに頼る”ことは他にもメリットがある。責任の所在を他人に押し付けられることだ。これがどのような効果をもたらすのかというと、自分を責める回数が減少するのだ。これは自分に心の余裕を持てることを意味する。つまり実用的で精神的にもやさしい方法なのである。


 これを使って私は人間以下から人間への進化を目指す。目指せ、人間(真人間ではない)。

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