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ネバーエンディング ピース&ラブ(ネパール旅行記)③

(5)山小屋で韓国人女性2人とバングラデシュについて語り合う 

ダンカジは相変わらずだった。ポーターの少年はビリー。体躯は自分の方がデカイのだが、体力は15才のビリーの方がよほど上なのだ。それは高度が上がるにつれて如実に思い知らされる事となった。思いっきり体が重たくなり弱音を吐いた。水と貴重品しか入っていないスカスカのナップサックでさえ重たくてそこに放り投げたい気分だったのだ。そんな時でもポーターのビリーは楽しそうに1mほど前をスタスタと登っていた。

ブーンヒルへ向かう登山客はみんな同じルートで歩いている。4~5組くらいで抜きつ抜かれつしていた。
・白人のカトリーナ嬢
・20代の白人女性4人組
・韓国の20代の女性2人組
・韓国系の男性登山者

いずれもネパール人ガイドが同行していて、白人女性4人組はポーターを2名も雇っており、彼女達のザック2つを紐で括ってまとめたモノを背負っていた。登山者それぞれにバテるタイミングが微妙にズレていたので、お互いに「お先に」とか「ファイト!」とか挨拶しながら登っていた。とりわけ、カトリーナ嬢のガイド氏は私の憔悴した顔を見るにつけ「ゆっくり、ゆっくり」と励ましてくれた。各村に複数の山小屋があるので日によってその誰彼かと夕食の席で顔を合わせていた。

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ティルケンドウンガ村、ゴレパニ村と山小屋に泊まり、3泊目はガンドゥルン村だった。いずれも山腹の小さな村だ。欧米の登山者が多いためか、日本の山小屋のような雑魚寝する大部屋はなかった。どこもベッドだ。この日の小屋は木造ではなく石作りで日本の山小屋より頑丈だった。

その夜、韓国人女性の2人組と同宿となった。お互いに同じ登山道で苦しんできた仲だ。
「今朝もブーンヒルに登る時に出会ったよね」
「そうそう。よく会うネ。今朝4時くらいに登り始めたら綺麗な天の川が見られたんだ」

夕食時にどちらからともなく会話が始まった。
「これが登山道で立ち寄った小学校の写真だよ」
「私達もカトマンズでモンキー・テンプルに行った」

と写真を見せ合う。彼女達は、キムタクを知っているのに、SMAPのメンバーで韓国語を喋る草彅剛は知らないと言うから現金なものだ。夕食後に彼女がクッキーとか韓国製のチョコを持って来てくれた。英会話スキルがほぼ同レベルだったので会話は続く。

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聞けば、1人はバングラデシュのKOICA(日本だとJICA、韓国版の国際協力機構)でソーシャル・ワーカーとして働いており、隣国のネパールに遊びに来たとか。もう1人はポスコ製鉄の企業城下町に住んでおり、中学校以来の友達だと言う。2人とも柔和な笑顔で、一見すると韓国人と言われなければそれと判らない。因みに1人はちょっと太っていたので登山道でへばっていた姿をよく覚えている。

「どうしてネパールを旅行しているの?」
「何日間くらい旅しているの?」
「東京に行ってみたい」
そんな当たり障りない話から、次第にお互いになぜなぜと質問しては答えていく流れになっていった。

「インド人とバングラデシュ人って似ているの?」
「どうしてバングラデシュの人々は貧しいんだろう?」
「バングラデシュでは車とバイクどちらが多いの?」
「グラミン銀行って知っている?」
「バングラデシュに来ているJICAの男達はみんなヒゲを生やしている。どうしてなの?」
そんな会話を延々とカタコトの英語で続けていた。

日本人でカッコいい髭を生やしている男性は稀だ。竹野内豊はサマになっているけど、なかなか他の顔が思い浮かばない。インド系や中東系の男だと逞しく見えるんだけど、日本人のそれは恰好良さと無精ひげが紙一重にある。そんな日本人もきっとバングラデシュで働いている時には逞しさを装う必要があるんじゃないか。そのために髭は相応しい演出なんだよ。そう伝えったかったが、サッと英語で喋る事ができるほどのスキルが欠けていたのでどうしようもない。

*

途中で、彼女達が私の手の甲が腫れているのに気付いた。
「どうしたの?」
「ポカラの安宿で何度も蚊に刺されて腫れあがったんだ。もう3日くらい前の事なんだけど」

部屋に戻って、ベルギー製のガラス容器に入った塗り薬とメンソレータムを塗ってくれた。患部がスースーして少し腫れが退いたように思った。山小屋でこんな親切にありつけるとはホントありがたかった。KOICAの彼女は

「バングラデシュにはマラリアや黄熱病、デング熱も流行っているから用意しているんだ。打てる予防注射は何でも打っているヨ」

とぬかりなく準備した上でKOICAの支援先に赴任したようだ。最後に「カムサハムニダ(ありがとう、楽しかった)」でお開きにした。

3日間の登山の疲れも吹っ飛ぶ楽しい時間だった。日本の山小屋だとグループ客は賑やかだけど、個人登山者はサッサと寝てしまう人と、寂しく呑んだくれている人のいずれかだ。3泊すると1回くらいは話が弾む夜もあるけど、ネパールでも同じだった。しかも、美女2人組とリラックスして長いこと喋れたのは何よりの収穫だった。

***

日韓の暮らし向きからみると、どうして東南アジアや南アジアの国々は貧しいんだろうと疑問に思う。それはお互いにモヤモヤした感情を抱えている事だった。とりわけダッカでKOICAメンバーとして働いていればバクシーシをせがまれる場面も多いだろうし、そうした思いが募るのだろう。

他方でグローバル資本主義がアジアにもアフリカにも広がっていく事で全ての国がおしなべて豊かになっていくだろうと信じたい気もする。それが平等だろうし、そうありたいと思う。日本のサラリーマンの平均年収は1990年代の後半がピークでその後はずっと横ばいに留まっている。では、アジア諸国の賃金が日本並みになるまで日本の所得水準もずっと停滞するのか。もう四半世紀くらいスタックしている日本では、今の若者は成長も金利も知らない。それはジェネレーション・ギャップを通り越してある意味で悲劇だ。

彼女達と喋りながら、資本主義と経済成長が世界を平準化するのも本当だろうけど、どこかで限界があるんじゃないかと、自分の感覚を伝えた。ソウルや東京も、ロンドンやニューヨークもそこそこの緯度に位置しており寒い季節がある。そこでようやくヒトの頭は冷静に働くようになる。だからこれらの国々は進歩してきたんじゃないか。インド人がどんなに賢くてもエアコンが効いたオフィスにじっと閉じこもっていない限り、インドもバングラデシュもあまりに暑いので、思考停止して工夫とか発展を重ねるにも限界があるだろう。一年中夏だったら進歩しようにも頭も気力も萎えてしまうヨ、そんな事を拙い英語で喋った。もう朧げな記憶だ。

韓国人美女2人と山小屋のひととき

(6)山小屋にペンキで書かれたフレーズ  

各国のお国柄を端的に比較をしようとする時、インド人はキャラクターの特殊性ゆえなにかと1つの基準になる。ネパール人もザックリ分類するとインド系だ。ネパール人とインド人は同じキャラなのか。体格はインド人の方がやや大柄だけど、顔つきは同じように見える。旅人には区別できない。

「インド人と似ている」と評すると、ネパール人は慌てて「ノー」と否定してくる。明らかに不快な表情をしている。別の人種だから同じカテゴリーに押し込まないでくれって悲鳴のように聞こえた。確かにネパールでバクシーシを要求された記憶も皆無だ。インドとは逆だ。

それをあたかも象徴するような標語が下山途中の村はずれの小屋に青いペンキで書かれていた。タテに5つの英単語が並んでいたのだ。最初のスペルをタテに読んでいくとIndiaになる。

「I never do it again.」

意訳すれば、インド人には一貫性がない。彼らと約束しても守ってくれるとは限らない、って事だろう。

それに対して、自国ネパールに関してはかなりポジティブな自己評価が下されていた。これも最初のスペルをタテに並べてみると国名Nepalとなる。

「Never ending peace and love.」

ネパール人は永遠に愛と平和を誓う。そしてそれを永遠に守るヨ、って訳したい。そこにはネパール人のプライドが現れている。

私もインドを2度ほど旅している。夜行列車で奢ってもらったウイスキーの水割りで腹を壊して一晩中唸っていても、リクシャーに頼んでいないホテルに連行されても、インドにはインド旅の面白さが詰まっている事を知っている。決してインド人は嫌いじゃない。旅人に元気を与えてくれる稀有な国民性がある。でも、この落書きに描かれた2国の素顔は全面的に正しいし、笑って肯首したい。インド人13億人の誰も反論できないだろうし、インド人も笑って許してくれる筈だ。

スリランカ人も顔つきはインド系そのものだ。私はそこまでの付き合いがなかったけど、シギリアで会ったゲストハウス経営の日本人女性は、スリランカ人キャラにかなり参っていた。スリランカ人に「インド人と似てるよね」と言ってもそんなに抵抗がないだろう。ニヤニヤ笑って、うやむやにしてくれる姿が容易に想像できる。この辺りの様子は、いつかスリランカの旅を書く時にもうちょっと深堀りしてみたい。

鶏を12羽くらい乗っけた馬、彼は登山道を毎日往復しているのか


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