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サバイバル・カヌー inニュージーランド(後半)

前半では: 南半球の12月。ニュージーランド北島のワンガヌイ川でガイドのテイラーと一緒に2泊3日のカヌー旅に出発。漕ぎ始めて30分くらいで呆気なく沈没して、冷たい川に投げ出された……。

アイキャッチ画像は、オハクニに立つ巨大ニンジンのモニュメント。尚、ニュージーランド旅で出会った方々のお名前は、いずれも仮名で表記しております。

(9)助かった! 

気が付くと、歯がガタガタと震えていた。体中が冷え切って寒かったのだと自分の置かれた状況を思い出す。と同時に、ボンヤリだけど「生きている」と確信できた。

後ろからガシッと誰かに抱きかかえられているようだ。振り向くと、大男のテイラーが後ろから抱き着いて体温が下がらないように温めてくれていた。ポンチョなどペラペラの服も短パンもズブ濡れだった。

そう、2人とも助かったのだ。ガイドのテイラーと軽く言葉を交わす。
「今は何時?」
「岸に上がってから2時間ほど経過している」
「どれくらい流されていたんだろう?」
「30~40分くらいだ。ビーコンでアラートを上げているのでもうすぐ救助が来る」
「いつビーコンを鳴らしたの?」
「3回。沈没した時に1回、それとこの岸に辿り着いた後で2回押している」
こっちも寒くて半ば朦朧としていたので、会話はそれほど続かなかった。

30分くらい呆然としていただろうか。この日は曇天と晴れを交互に繰り返していた。冷えた体はとにかく寒かったけど、この岸で目覚めた時には幸い日が照っていた。そんな小さな事でも事故の顛末に影響しかかも知れないし、晴れていて良かった。

暫くすると、爺さんと若い男女の計3人が乗ったジェットボートが救助に来てくれた。2人とも毛布で暖をとる。

そのままどこかの村に帰還できるのかと思っていたら、ボートは下流に向かう。えっ。そこで流された荷物を1つ1つ回収していくのだ。更に下流へ進むとひっくり返ったままのカヌーを発見した。それを3人掛かりでジェットボートに引き上げる。

テイラーが小型ビデオを渡してくれる。「これで撮れ」と言うのだ。確かに滅多にない映像だ、じっとその様子をビデオに収めた。全長4mくらいのカヌーなので大人3人の力でも容易に引き上げられない。周囲の光景もビデオに収めた。ワンガヌイ川の両岸は崖になっているので、やっぱり取り付けるような場所はどこにも見当たらなかった。ここを30~40分も漂流していたのかと思うと、改めて体の芯から冷えていくのを感じた。そうこうしている内に、3人掛かりで引き上げたカヌーを反転させて水を抜く。

パドルは自分達が漕いだ距離の3倍くらい先の下流でプカプカと浮いていた。2時間以上も流れのままに流されてきたので、こんな下流まで辿り着いたのだろう。よし、これでようやく帰れるぞ。ようやく安堵した。

 (10)静かなる撤収、牧場でスモークサーモンとサラミを喰らう 

午前中に出発したワカホロのカヌー・ポートに帰還して、一安心。牧場で経営しているロッジ風のレストランで体を休ませる。濡れた衣類を牧場の柵に掛けて乾かし、温かい紅茶をすする。テイラーも私も呆然としていた。2泊3日のカヌー旅はアッという間に終わった。

「明日もう一度カヌーするか?」とテイラーが聞いてきた。テイラーはどこまで本気で喋っていたのか。決して顔は笑っていなかったので、彼は彼で落ち込んでいたのだろう。

こっちも、まだまだ疲労困憊でもう一度カヌーで川下りする心境でもないので、疲れた笑顔で「ジャスト・シンキング(すぐには答えが出ないヨ)」と答えただけだった。

テイラーが今夜キャンプサイドで食べる筈だったスモークサーモンとサラミをナイフで切ってくれ、牧場の道端に座り込んで交互に手づかみで食べる。あっという間になくなったけど、紅茶のアテで食べるにはなんとも塩辛かった。

茫然自失。1時間くらいボンヤリ黄昏ていただろうか。エレナ嬢が迎えに来てくれた。エレナは笑顔でテイラーと私を迎えてくれたが、テイラーも私も言葉少なだった。

牧場を去る時に、ジェットボートで救助に来てくれたオジイサンを見つけた。深く頭を下げてお礼を言う。どうやらあの白いヒゲのオジイサンは牧場主だったのだろう。穏やかな表情でこちらを見送ってくれた。

「今日は俺の家に来い。泊まっていけ」
テイラーがボソッと放った一言、その言葉に素直に従った。 

(11)テイラー、エレナとまったり過ごす  

その日はテイラー宅で風呂に入ってそのまま眠った。と言ってもベッドに横たわっていたものの、あまりに衝撃の一日だったので殆ど眠れなかった。風呂場で裸になってみると、左手を除く四肢に直径5cm程度の青あざが無数にできていた。ザックリ、右腕、右足、左足に10コずつ計30~40はあった。それを見て、改めて衝撃の大きさに驚いた。左手はずっとカヌーを掴んでいたので無傷だったのだ。右手と両足はカヌーに引っかけて反転させようと何度もトライしていたので、傷だらけになっていた。

実は、両足に青あざを沢山作った武勇伝は国内でもある。志賀高原でスノーシューをするのは楽しい。ある年にガイドさんと一緒に凍った池の上を歩いた。北八ヶ岳の白駒池でも同じ事をしているし、スノーシュー・ツアーのハイライトの1つかも知れない。で、ある年に志賀高原の別の池をスノーシューで歩き始めた。やけに湿っぽい氷だな、と思っていたらパリーンっと足元の氷が割れた。両手で氷面を支えてどうにか上体を支えたけど、腰までどっぷり真冬の冷水に浸かった。そこでスノーシューを付けたままの足をバタバタもがいて這い上がる。ようやく立ち上がって2歩進んだらまた落ちた。その時に、割れた氷の周辺で足を動かしていたので、両足とも無残に青アザだらけになったのだ。

そんな経験があったので、四肢の外傷はあまり気にしてなかった。派手に内出血しているので痛々しいけど、それだけの事だ。

それよりも、グルグルと頭が無駄に回転して気持ちが高ぶって眠れない。頭を打った記憶はなかったけど、意識を失っていた2時間どのように経過したのだろう、頭部になにか障害とか残らないんだろうか、もし病院に行くにしても英語もたいして喋れないのにどうやって伝えるんだろう、いろいろと妄想してしまったのだ。

思えばワンガヌイ川で何度か溺れかけた。でも、肺に水が入ってむせたような記憶はない。意識が戻った時に歯がガタガタ震えていただけで、呼吸器系の症状はなかったけどテイラーがなにか処置してくれたんだろうか。

長年、先住民族マオリはワンガヌイ川を生きた存在としてきた。これまでの方針を一転させて、近年ニュージーランド政府はワンガヌイ川に法的な人格を与えている。カヌーが転覆したのは、当日の諸条件もあるだろうけど、もしかして自然に対する謙虚な姿勢が欠けていたんだろうか。あれこれ考え出すと止まらない。

そうこうしている内に夜明けを迎えた。テイラー宅は1階にロビーと寝室があり、2階にも3~4部屋あった。やや高台に建っていて窓が大きいので、明け方になると緑豊かな綺麗な景色が広がっていた。テイラー宅は広い芝生が広がっていた。バーベキュー・セットも転がっていたし、今更ながら庭にジェット・ボートがあるのに気付いた。

たいして眠れないのに空が白んできた
部屋から見た朝の景色

それから丸2日、テイラー、エレナ嬢と3人で過ごした。聞けばエレナはテイラーと同棲していた。
「結婚しているの?」
「ううん、まだなの。私はイタリアのアドリア海育ちだけど、この街が気に入って住み着いちゃった。もう2シーズン目になるわ」
「日本で何の仕事しているの?」

IT企業を辞めてから両面印刷のなんちゃって名刺を作っている。裏面を英語バージョンにしていると、こういう時に役立つ。
「今は充電中。旅のHPを立ち上げたんだ。これ見て」
「アサクサ(浅草)ってなんなの? 日本の山、それとも川?」

おおそう来たか。浅草観光なんてニュージーランド人には合わないな。ちょうど北イタリアの山岳地帯を旅した時の写真を載せていたので、それを見せると喜んでくれた。エレナからiPadを借りて、とりあえずAmebaブログに「ワンガヌイ川でカヌー転覆したヨ」くらいの速報を投稿した。カヌー転覆事故、これこそブログでリアルに残しておきたいハプニングだった。

「カヌーが転覆して怖かった?」
「とっても怖かったヨ。でも大丈夫」
と強がってみせた。一晩過ぎると、気分的に落ち着いてきたのも本当だ。まあ、生きていたからこそ笑いごとで済ませられる。

「でも、ヘルメットとスキューバスーツ、浮き輪どれも欲しかったなぁ」
「こっちでは最近になってライフジャケットが必須になったの」

おいおい、いくらおおらかなニュージーランドでも、ちょっと大胆過ぎるよ。怪我防止のためのヘルメット、寒さに耐えるためのスキューバスーツ、溺れないように浮き輪、どれも必須アイテムだった。でも全てを常時着用していたら2泊3日のカヌー旅を楽しむなんて現実的にムリだから、救命胴衣だけでなんとかするしかなかったんだろうな。

私も堪えていたけど、それはテイラーも同じかそれ以上だっただろう。ガイドとして私をずっと介抱してくれた訳でその心労はいかばかりだったか。翌朝になってもなかなか起きてこなかった。

昼過ぎになってようやくテイラーが眠そうな目をこすりながら起きてくる。カヌーに積み込んでいたストレージには、キャンプサイドで食べる筈だった食材が思いっきり残っていた。少し水が滲みていたけど、野菜も肉も大丈夫だった。で、テイラーとエレナがミートボール入りトマトソースのペンネを料理してくれた。

「これまでもワンガヌイ川でカヌーが転覆した事はあるの?」
「いや、初めてだ。」
「ドラム缶3つに衣装ケース2つとかオーバー・ローディング(積み過ぎ)じゃなかったのか?」
「いや、あれくらいの重量はいつも積んでいる。大丈夫だ」

カヌー旅の動画も見た。私が撮ったカヌーを引き上げる瞬間はつい昨日の事であまりにリアルだったけど、3人で見ていれば気落ちする事もない。むしろ「ビッグ・アドベンチャーだった」と冒険譚として2人でエレナに自慢する風だった。

過去のビデオも見せてもらった。ワンガヌイ川はどうやらいつも濁っているようだが、やっぱり水深の違いだったのか。平時の水深50cmなら転覆しても流される事はないだろう。冷静に体勢を立て直して再出発できた筈だ。それが2mでは如何ともしがたい。呼吸を繋ぐだけでもう精一杯だった。

ワンガヌイ川の左右は切り立った渓谷
前日のモニタ画面では現在水位50cm、そして予測水位は1m

(12)水没したデジカメを米びつに入れる  

川に30~40分も水没していたので、流石にキャノンのデジカメは翌朝になっても動かない。どーしようもないと思って諦めていたけど、エレナがSDカードをPCにくべてチェックしてくれたら、なんと保存データはしっかり生きていた。まさか!

それを見ていたテイラーが「デジカメだって大丈夫だ」と引き取ってくれる。タッパに米を入れて、その中にデジカメを埋ずめる。そうすると、カメラの水分を米が吸い取ってくれるから使えるようになると言う。

実は、これスリランカでも全く同じ事を云われた。かつてシギリヤ村でシギリヤロックの周辺の川で蓮の葉っぱを掻き分けながらカヤック旅した事がある。そこで陸に上がる時に体勢を崩しかけてポケットからカメラを落とした。ほんの一瞬水没してすぐに引き上げたけど、キャノンのカメラは濡れて動かなくなった。その時にも、明るいスリランカ人たちは、
「すぐにホテルに戻ってドライヤーで乾かせ。それが終わったら、米を借りてきてその中に埋めとけば必ず動く」
と言っていた。

あの時は笑い話と思っていたけど、確かに翌日になって画像表示できるようになり、もう1日経過すると写真を撮れるようになった。恐るべしアジアン・パワー。

それと全く同じアドバイスをニュージーランドで受けるとは思ってもみなかった。日本人はそんなリカバリー策を思いつかなくなっていると言うのに、世界はみんな逞しい。 

(13)映画「サバイバル・ファミリー」

翌日はトンガリロ・ナショナルパークの展望台までドライブに連れて行ってもらった。下界は快晴だったけどヤマはガスに覆われていた。スキーシーズンなら賑わうのだろうけど、南半球の12月に麓にあるオハクニの街も寒いので、標高を上げると更に厳しくなる。日本で言うと標高2500mくらいのヤマに登った翌朝のような肌寒さだった。

この日もまったりと過ごす。晩飯はテイラー自慢のステーキだった。皮つきのじゃがいもを10コ、アスパラガス並みに細いニンジンも10本くらい、それぞれ別の鍋でボイルしていく。大振りのマッシュルーム10数コを4つ切りにして炒める。そこに生クリームを垂らしてステーキソースを作ってくれた。

「俺はマッシュルームソースで食べるのが好きなんだ」
とテイラーが言う通り、300gくらいある厚めの牛ステーキはメチャクチャ美味しかった。3人でこの1皿を食べただけでも、カヌー3日分の価値があったんじゃないか。

テイラーが気を使ってくれたのか、一緒に日本の映画を見た。テイラーがチョイスしたのは小日向文世主演の「サバイバル・ファミリー」だった。妻は深津絵里、2人の子供は葵わかなとNHK朝ドラ「ひよっこ」のミツオ(役者名よりも朝ドラの役名で覚えてしまった)だった。電気も電車も止まった非常事態でも会社漬けのサラリーマンは這ってでも会社に向かう。TVが映らなくなって情報が遮断された中でも人々は噂に踊らされて自転車と徒歩でヘトヘトになりながら西に向かう、そんなストーリーだった。

この映画をテイラー宅で初めて見た。日本語の音声だけで英語字幕はなかったけど、テイラーとエレナも大凡ストーリーを理解できているようだった。偶に、難しそうな場面はこっちでカタコトの英語を挟んでフォローしたけど、2人とも笑って観ていた。自分達も大自然のサバイバルを体験した直後だっただけに、北半球のサバイバルを単純に笑っていた。

テイラー&エレナと
マッシュルームソースのステーキ

(14)隠しておいた涙がポロリこぼれてしまう

丸3日、テイラー、エレナとのんびりしたニュージーランド・ライフを送っているとそれはそれで楽しかった。自分が旅人なのか、そこに暮らしているのか区別がつきにくくなる。

ワンガヌイ川カヌーはいつかリベンジするとして、別れの日がやってきた。テイラーは「もっとゆっくりしていけ」と長期滞在を勧めてくれたが、帰国便の日程は決まっているのでそうそうノンビリもしていられない。

ブルズの街まで送ってくれる事になり、3人でドライブした。途中の緑が眩しい渓谷(おそらくRANGTIKEI)で写真を撮ってもらい、ノンビリと南下していった。車窓の左手に大きく盛り上がった崖地が続いており、ニュージーランド北島には南北に地溝帯が走っているのだと知った。

途中で寿司も食べた。流石に日本のそれとは比べ物にならない。米も固くて決してオイシイものではなかったけど、3日過ごした3人で一緒に食べれるのがいい。もしかしたら、テイラーもカヌー転覆の戦友とこうして日常を重ねてきた事で、お互いに生き延びた事実、その安堵感を味わっていたのかも知れない。テイラーもエレナも慣れない箸を握りながら笑顔だった。

ブルズでは小さな博物館を見学してテイラーの幼い頃の話を聞いたりしてバスの時間を待つ。のべ3日も一緒に過ごしたのだから別れは感傷的になる。この3日間あれこれ喋った。テイラーはどちらかと言えば無口な方なので、正確に言うとエレナと喋った時間の方が多い。けど、最後はエレナが席を外してくれ2人で喋った。

ラグビーで試合終了後にジャージ交換するシーンを見た事があるけど、別れ際にテイラーが黒色の暖かそうなフリースをくれた。私が12月のオハクニにいるにしては薄着で寒そうな恰好をしていたためだ。生憎こちらは旅のザックにたいしてモノを詰めていないので、ワンガヌイ川で転覆していた時に来ていたTシャツを渡した。小田原郊外にあるアサヒビールの工場見学で買った南国の花柄がカラフルな濃紺地のものだ。でかでかとオリオンビールと印字されている。テイラーの体格はひ弱な日本人よりふた回りもデカいのですぐに破れてしまいそうだった。どうにも彼自身は着られないので「エレナにプレゼントするヨ」と言ってくれた。

「またオハクニに戻って来るから、その時はよろしく」
そう言って、ニュープリマス行きの長距離バスに乗り込んだ。

車窓には緑の大地が広がる。郊外に出ると羊の群れも疎らに目に飛び込んでくる。海の青さも目に染みた。一人になると急に寂しくなる。そこで落ちるともなく涙がこぼれ落ちた。「生きていて良かった」心からそう思った。改めてそう感じたのだ。

おそらくRANGTIKEI渓谷
ブルズの街角

いざ一人になってみて、初めて素朴な疑問を抱いた。自分はどうやって陸に上がる事ができたのだろうか? 必死で泳いでなんとか自力で辿り着いたのか、テイラーが引き上げてくれたのか、それとも川の流れが偶々その洲に向いていたので流れ着いただけなのか。実はこれに関して帰国後にエレナとビル(ボス)にメールを送ったのだがハッキリしなかった。テイラーのメールアドレスを知らなかったので2人に託したのだ。

それと、冷静な状況に戻ると、あれこれ考えだす。サラリーマンを卒業して2年、どうにか生活も回りそうでまあのんびりしていた時期だった。カヌー転覆の原因は水位上昇かオーバーローディングなど外的要因で自分でない。けど、こういうハプニングに巻き込まれたのって、自分の生き方を問われているんだろうな、と思わずにはいられなかった。人生10年に一度くらい転機がある。開腹手術してちょうど10年経過していたし、「油断するなよ」「もっと真剣に生きろよ」と言われているような気がした。充電中って肩書きはいつまでも通用しないしね。

バスの中でずっと神妙な面持ちをしていた。

その後、ニュープリマスの中華系モーテルに泊まったら、深夜1時過ぎに男が何か叫びながらドンドン! とドアを叩く。トイレの窓から覗くと白人やマオリではなく黒人系で、執拗にドアノブを回してくる。あまりに不気味な夜だった。この事件はまたの機会にしたい。

オークランド国際空港に辿り着いた時にも、ふいに涙が流れた。センチメンタルなタチではないけど、今回のカヌー転覆ハプニングは本当に命に係わるものだった。オークランドは常にニュージーランド旅のスタート地点であり終了地点でもある。その見慣れた空港に戻ってこられた安心感でホロッと来たのだ。 

(15)Gメールで届いた「Disaster river trip in the Whanganui」 

帰国してほどなくニュージーランド・オハクニのエレナ嬢から電子メールが届いた。グーグル・フォトが付いており、デジカメが壊れて旅の写真を撮れなくなった私のために沢山の写真を送ってくれたのだ。カヌー沈没から2時間経過して意識が戻った時のくたびれ果てた顔、カヌーを引き上げた時の動画、テイラーやエレナそれにビルとの記念写真、テイラー宅の風景、そしてブルズへのドライブ途中に渓谷で撮ってもらった写真も入っていた。

それらは1つ1つ懐かしい想い出だ。結局、米に沈めておいたデジカメが復活する事はなかったので、いずれも貴重な旅の想い出なのだ。

ただ、エレナが共有してくれた写真のタイトルで驚いた。「Disaster river trip in the Whanganui」と書かれていたのだ。ディザスターって何? 英単語を検索してみると災害って和訳が出てきた。語感次第で人に与える印象ってなかなか微妙なもので、私にとってあのカヌー転覆は確かに生死の境を彷徨ったけどハプニングか事件だった。でもエレナは災害だと表現してくれた。当事者は事態をなかなか客観的に把握できないものだ。災害だと3ランクくらいシビアに感じる。当日はなんとか凌いだ事でその場をやり過ごす事しかできなかったけど、第三者の目の方が確かだろう。

実際、帰国してから大変だった。旅先での緊張がほぐれたためか39.9°の熱発に襲われたり、四肢の内出血が足首に降りてきたために1週間ほど歩行困難になったり、念のため神経内科で頭部CT撮影してもらったり、波状攻撃に襲われたのだ。

では、これでカヌーに懲りたのか? そんな事はない。転覆事故の4日後にニュープリマスでシーカヤックしているし、コロナ禍の2020年にも積丹の海でガッツリ漕いでいる。また、その内にテイラーとエレナに再会したいと暢気に構えている。

(16)帰国後にヨロヨロと5連打

この項を書くべきか迷った。ただ、こうしたトラブルに巻き込まれた旅行者は稀だろうし、カヌー転覆事故の記録をしっかり残しておく事も大事だと考えて載せておく。勿論、海外旅行記としては余分な章なので読み飛ばして頂いて構わない。

手足の内出血は30~40ケ所(+右下腿に骨膜の腫れ)あって外見上は痛々しかったけど、痛みはなかったため、その後も普通に旅を続けられた。転覆した3日後にはニュープリマスの海岸で軽くシーカヤックもしたので、トラウマもなくメンタル的にも元気だった。なんだ大した事なかったのかと自分でも安心していたのだが、強気を装っていられる程度の事では済まなかった。帰国してからガタガタと5連打を浴びてしまったのだ。

①  熱発
帰国翌朝は悪寒で目が覚めた。明らかに熱発だ。体温計で計る度に上がっていき、14時頃に39.9℃。こんなの人生の最高記録じゃないか。少なくとも大人になってからこの体温は初めてだった。のども痛い。取り敢えず余っていたカロナールを服用したけど、大して下がらない。だるいし動きたくなかったけど、流石に40℃を超えたら怖いし、近所の病院でロキソニンとトランサミンを処方される。いずれも後発薬を渡されたのには参ったけど、悪寒があって「交換して」って言う気力もなくそのまま寝込んだ。

熱は1日で平熱に下がった。会社勤めだったらあまりのだるさで休んだだろうけど、翌日から楽しみにしていた「素数とゼータ関数」の講義があったので、這ってでも出席したかった。実際のところ座っているだけでだるくてフラフラ。

②  アキレス腱など足首の痛み
その講義を終えていざ立ち上がると足首が痛くて動けなくなった。右足はアキレス腱で、左足はくるぶしの下辺り。時間帯によりどちらかがより痛かったけど、とにかくヨボヨボだった。机とか壁に手を当てながら伝って歩く感じ。周囲から「大丈夫ですか?」と声を掛けられて体裁が悪い。タクシーで帰るには距離があるし、松葉杖が欲しかった。

で、痛み出してから3日目に整骨院に行くと「なかなか派手な内出血でヒドイ。痛いのは足の内出血が下に降りてきて足首に溜まって腫れている為」と言われる。だから、カヌー転覆から数日はなんの問題もなかったのか。で、電気治療とテーピングする事になった。足首の腫れは痛み初めて3~5日目がピークだった。腫れあがっていたので、くるぶしのでっぱりは見えなかった。

③  歯が欠けたのか
カヌー転覆後に意識が戻ると、口の中に違和感あり。舌で触ると歯の角が尖っていた。歯並びの中で、そこだけスコンと抜けた感じで高さが揃っていない。欠けたのか、ズレたのか、圧迫感がある。それが右下のどの歯なのかハッキリしないまま帰国した。で、ようやくヨボヨボと歩けるようになってから歯医者を受診した。健康な歯でなくて、仮止めしていた仮歯で助かった。

④  頭がボーッとする
正月はボケーッとしていた。なんか頭がボンヤリする気もする。そりゃあ旅行の疲れもカヌー転覆もメンタルもあるかも知れない。でも、頭がクラッとしたり不安定な感じは年末年始ずっと続いた。海外旅行中にはそんな症状はなかっただけに不気味だった。毎日昼間から眠りこけていた事も家族から指摘されて、私自身もだんだん不審に思えてきた。確かに、カヌー転覆で30~40分流されて最後の5分は記憶にない。その後2時間も気を失っていた。うーん。

で、正月明けに頭部CTを撮ってもらう。出血とか異常はないとの事で安心。ただ、定期的に血液検査している医師の診察を受けて驚いた! 腎機能が露骨に落ちていると言う。「尿が出ている? 水分は摂れている?」と問われる。腎機能の異常を告げられたのは初めてだった。

肝臓は毒物や薬物の解毒作用があるのでクリアランスって言葉がある。クリアランスが高いと経口薬を一般容量で服用しても効き目が弱い、ってかつて言われた事がある。同様に、腎臓は不要なものだけを尿として濾過するのでその機能を見るためにクリアランスって言葉を使う。こちらはクリアランスが落ちると老廃物を体外に排出できなくなってむくんだりする。幸い自覚症状はなかった。腎クリアランスの低下はeGFR(血液検査)で確認できるけど、これまでずっと60~80で安定しており気に留めた事もなかった。それが、なんと37に急落したのだ。

腎臓は沈黙の臓器なので焦った。けど、定期的に通院していたからこそ可視化できた変化だった。

「カヌーが原因かも知れないし、であれば治まっていく過程だろう。そのせいで頭部に症状が出るかも。1ケ月後に再検査しましょう」
目に見えない異常を医師が告げてくれた事でようやく安心できた。

⑤  ぎっくり腰
一難去ってまた一難。足首の痛みが治まった頃に、今度は腰に来た。ぎっくり腰なのか。足首の痛みのせいで不自然な歩き方を続けていたのが行けなかったのか、それともそもそも30~40分流されていたので、その間ずっと立ち泳ぎしていたって事。水深2mだったし、両岸の岩に当たっても怪我するし為す術がなかった。それで下半身の筋肉に疲労が蓄積していた為かも知れない。腰痛には前に曲がったまま直立できないのと、立っていられるけど前屈できない、その2パターンがある。

この時の痛みは明らかに後者だった。前屈しようにも手の指が太ももの辺りで止まってしまう。固すぎ。立ったり座ったり動作が辛いし、畳の上に座っているのもすぐ限界が来てしまう。どこの筋肉に損傷があったのかで症状が違うらしいけど、いずれにせよ悲しい状況が続いた。腰痛って端から見ていると笑えるけど、当事者になるととにかく辛い。10日ほど連続でマッサージに通った。

不思議な事に、1つ1つの症状が順繰りに「大変だよ」と訴えてきた。勿論、熱と足首痛と頭痛と腰痛が一気に襲ってきたらこっちも耐えられないけど、ヒトの症状の出方って我ながら面白いものだと感心してしまった。ただ、体のダメージもここまで来れば十分でしょ。 

(17)2020年は地球上どこもサバイバルな世界だった

2019年12月、映画「サバイバル・ファミリー」を3人で観ていた時、あの時は単なるエンターテイメントとして笑っていた。働き過ぎの日本人が滑稽、それだけの事だった。

でも、この旅を終えてほどなくすると新型コロナウイルス感染症が世界中で広がっていった。最初は武漢の風土病、対岸の火事でしょ、と他人事だったけどまさしく現代のペスト、未知の感染症に対して日常の変化を強いられる事になった。テレビを付けてもニュースとワイドショーの区別がつかないくらい似通ってきた。

2020年春の緊急事態宣言下で、世界中の人々がなんらかこれまでの生き方を見つめ直す事になっただろう。東京は便利だけど密から逃れる事はできない。暫定的にライフスタイルを見直した都会人もいるだろうし、思い切って移住した若者もいるだろう。私もコロナ疎開した。勿論、もっと深刻に職住を脅かす恐怖に苛まれてしまった方も少なくない。

映画「サバイバル・ファミリー」の世界を決して笑えないし、こんな厳しい現実が待っているとは想像だにしなかった。映画では電気が止まった暮らしが2年くらい続いた後、ある日ずっと止まっていた筈の有線放送が突然に聞こえてきた。灯りも点く。人々は何事もなかったように便利な都会生活に戻って行ったけど、アフター・コロナはどんな世界になっていくのか。

まさか、南半球のテイラーとエリーザがこんな時代を予見してこの映画を選んだ訳でもないだろうに不思議な偶然だった。

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