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高校野球部の3年のときの様子


このnoteは、強豪校の野球部に、あまり野球がうまくないのに入部してしまい、かつ、あまりうまくならなかったときに、高校3年生のときに起こる様子を記載しています。

引退宣告

4月を迎え、3年生になり、1年生は入ってくるものの、大きな変化はなく、日々進んでいきます。僕は、相変わらず練習試合のメンバーにもなれず、全体練習ではフリーバッティングや、ケースバッティングに参加できない状態でした。ただ、全体練習の中で、何かが監督の目にとまって、試合に出れたらいいなと思っていました。

このころになると、僕のたまに実施するフリーバッティングを見て、「だいぶ振れてるね」などと、褒めてくれる人もいました。守備も、肩はよくないもののそつなくこなせるようになり、この高校3年生くらいの状態で、高校1年を迎えられたら、まだ勝負できていたのにな、といった状況でした。

客観的に考えて、夏の大会で、メンバーに入ることは無理なので、毎回メンバーの入れ替えができる、春の公式戦で、なんとか1回、お情けで背番号をつけさせてもらえる枠に、選んでもらえないか、と考えて日々練習していました。父兄の方々の集まりも結束が高かったので、僕の父は、息子がまったく試合に出ることはないので、毎回試合を見に来てくれていました。私立でお金を大変かけてしまっていたので、なんとか1回だけ、背番号をつけたい、と思っていました。

そんな中、5月中旬くらいに、僕を含め3年生が全員ベンチ入りする練習試合がありました。まわりのみんなが、続々と試合に出ていく中、僕の出番はなかなか来ない状態で、ケガしてベンチ入りできていない仲がよかった友達から「はしもと出せー!」と、監督をやじってくれたりしていました。その後、急に試合に出ることになり、まったくサインがわからないまま、僕は、途中で代打に送られました。(僕は今でも年に何回か、サインがわからないのに試合に出される、という夢を見ます。)

たしか、左ピッチャーでした。僕は人の投げる左投手のボールをほとんど打ったことがありませんでした。カーブを投げられると、その軌道を見たことがないんで、大きく空振りしたような気がします。その後、結局フォアボールになりました。

(僕が試合で打席にたったのは、このときと、全員出れる1年生大会のときの、合計2回でした)

試合が終わると、全体の終礼で、同級生何名かの名前がよばれ、

「お前たちは、今日で自分の実力がわかったと思う。夏の大会のメンバーには選ぶことはないから、これからは、メンバーのサポートに徹してくれ」と言われました。

メンバーのサポートをしてほしい、と言われても、実際、練習で何の役目をやったらよいのかも、各自よくわからず、結果、この宣告をされてから、部活を引退するまでが、高校の中で、一番つらい時間でした。

1年生の頃の軍隊のような上下関係や、肉体的疲労よりも、何の希望もない時間というのは、人の心を折るんだな、と思いました。

それでも、練習には、一応参加して、キャッチボールしたり、時間が空いたら、一緒の境遇になった友達と、筋トレルームにこもったりして、日々過ごしていきました。レギュラーメンバーと、控えメンバー、ベンチ入りもできないメンバーと、同級生の中にも、確執が生まれていってしまいました。

その後、1か月ほどたち、最後、夏の大会のメンバー発表で、一緒に夜中自主トレしていた友達が、メンバーに入ってくれて、とても嬉しかったです。

最後の夏の大会

夏の大会前には、偵察と呼ばれる他校の試合を見て、この投手は、MAX130キロで、こんな球種をこのカウントで投げてきます、といったことを調査する係を担当しました。最後の、夏の大会を、ベンチでもなく、応援するスタンドから見るのは、悔しさがともない、レギュラークラスとも、あまり仲はよくない状態になってしまっていたので、ベンチ入りできないメンバー同士で、勝っても素直に喜べない状態が続きました。
順調に勝ち上がっていき、準決勝前の偵察を実施したのですが、相手のエースピッチャーも、それほどすごいボールを投げるように見えなかったので、これは決勝までは勝ち進みそうだな、と思いました。もし、そのまま勝って、甲子園に行けたら、甲子園の前日練習とかでは、僕でも入ることができるのかな、と思ったりしました。

そんなことを思っていたのですが、準決勝で、途中大量得点をとられてしまい、9回を迎え、これはもう逆転できないな、と思いました。ずっと、早く負けてしまえばいい、と思っていたのですが、最終回、いろいろなことを思いました。1年のころは、一緒に基礎トレーニングしていて非力だった同級生も、公式戦でホームランを打つようになったり、一緒に内野ノックを受けていた同級生は、プロ野球選手か、というくらいのものすごい送球を1塁に放っていました。みんな、努力してきて、成長してこの日を迎えたんだよな、などと、入部してからの日々を思い出しました。

最後の攻撃が始まると、同じベンチ入りできなかった友達と、応援席の最前列に言って、大声で、打席に立つメンバーを応援しました。結果、逆転はできず、最後の、夏の大会は終わりました。

先に部室に帰って、メンバーを待っていました。
戻ってくると、レギュラーメンバーから、「負けてごめん」と泣かれました。きっと、みんなの代表として、ベンチ入りできなかったメンバーの分まで、という気持ちで戦ってくれていたんだと思います。
いま、考えると当たり前のような気もするのですが、コミュニケーションを全くとっておらず、そういう気持ちだったことを初めて知りました。

こうして、夏の大会が終わりました。
僕たちの代は、秋、春、夏と、一度も県で優勝することがなく、途中で、部員の中での暴力行為が表沙汰になってしまったりして、負けた日の終礼で監督から、「最後の試合は、お前たちの集大成のような弱さがでた試合だったな、引退するわけだけれど、頼むからこれ以上後輩に迷惑をかけるようなことはしないでほしい」と、お説教タイムになってしまいました。

このこともあって、後輩たちのその後の練習サポートする人も、ほぼいないまま、卒業式を迎えることになりました。


各自進路について

先輩方は、毎年東京六大学で野球をする方がいたのですが、僕たちの代は、大学でがっつり硬式野球に進む人は少なかったです。
野球チームがある会社に就職する人、多少は野球をするために大学に行く人、すっぱり野球は辞めて興味のある分野に進学する人、といった感じでした。

僕は、野球はメンバーにはなれなかったものの、体育の成績は5だったので、スポーツ関連の仕事につけたらと思い、フィットネスクラブで働くための専門学校を選びました。(別で投稿しようと思うのですが、できれば専門学校ではなく大卒を取得したほうが選択の幅が広がってよいです)

3年生を送る会

卒業式の翌日、1年生から3年生まで全員と、父兄の方なども集まる、3年生を送る会を実施していただきました。
甲子園に出ている、先輩方のときは、楽しかった思い出話が監督などから、繰り広げられるのですが、僕たちの代は、華やかさが皆無でした。
最後、部員一人ずつ、5分ほど思い出をスピーチしていくのですが、トップバッターのキャプテンから、辛い思い出のお話をしながら号泣でしんみりスタートしました。

僕は、最初に、監督、コーチ、そして両親に感謝の気持ちを述べ、その後、メインとしては、
「レギュラーメンバーと、ベンチ入りできなかったメンバーの確執みたいになってしまったので、後輩のみんなは、お互いの気持ちを思いあってこうはならないようにしてほしい」というメッセージを送りました。

この送る会以降、一度も会っていない同級生も多いので、ぜひ集まってみたいです。


3年生まとめ

よく高校3年間といいますが、野球部の場合、実質、2年4か月です。16歳、17歳をスポーツに捧げても、そこからいくらでも好きなことができますので、存分に没頭して問題ないと思います。(高校でがっつり体育系の部活をやっていると就職してからも、休まず会社にいける体力がつくと思います。毎日病気にならずに出社するというのは、当たり前のことではありません)
社会に出てから友達を作るのは、とても大変です。部活の同期とは、いつまでも連絡を取り合えるような関係を築いて、卒業を迎えていただくとよいと思います。
プロ野球選手や、社会人野球をやらない限り、野球がうまいことでマウントがとれる(集団の中で優位に立てる)のは、高校生の間だけです。野球の技術以外のこと(リーダーシップ、コミュニケーション、勉強)も、積極的に勉強していただくとよいと思います。
進路の決め方は、ぜひ部員同士で共有しあうとよいと思います。誰にも相談しないで決めるのは、同じ環境で高校生活を送ってきたものとしてもったいないと思います。ぜひ同級生同士で客観評価してもらうとよいと思います。

ここまで、読んでいただいて、誠にありがとうございました^^

次回は、フィットネス系の専門学校の内情を記載していこうと思います。

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