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網棚に上着を忘るる。/ 幸福を語ることの難しさ

行きの通勤電車の網棚に上着を忘れた。
最寄り駅までチャリでダッシュして汗をかいたので乗車後すぐに上着を抜いだ。いつもは下車するまで頑張って腕に掛けておくかリュックに無理やり詰め込むのだが、今日は魔が差した。しばらくは腕に掛けていたがiPadでの作業を快適にしようと思って目の前の網棚に置いてしまったのだった。電車を降りる頃にはヒロインの頭の形を取ることに夢中になっていて会社に着く直前に今日はどうも身軽だなとハッとして、忘れたことにようやく気付いた。

朝少し席を外して鉄道会社に電話をかけた。僕の利用している通勤電車は2つの会社の路線が直結しているタイプなので2箇所に電話しなければいけなかった。どちらの電話でも「まだ上着の落し物は届いていないです。」と言われた。また時間を置いてかけてくださいとのことで、夕方かけ直してみたら「忘れ物の登録作業は夜10時頃になることがあるので、また明日かけ直してください」と言われてしまった。やれやれ、帰り道上着なし確定である。
いつもなら駅から自転車を飛ばして帰るが流石に風邪を引くと思いバスを利用することにした。バスが来るまで時間があったので駅のスーパーで買い物してから乗車すると、あいにくバスは満席で重い荷物を持ったままずっと立っていなくてはいけなかった。

バスに揺られながら、ああ、不運だなと思った。そして今日のこの不運を(完全に自業自得だが)、noteに書いてやろうという気持ちがフツフツと湧いてきた。
日々の生活を誰かに知ってもらいたいと思ったのは久しぶりのことだった。

何故だろうと考えて、思い当たった。僕は今幸せな状況にあり、自分の不幸なことはみんなに聞いてもらいたいが、幸せなことは誰にも話したくないのだ。それはたぶん不幸なことの方が他者にとって面白いという認識が自分にあるからだろう。幸せなことは自分にとってしか面白くない気がする。自分の幸せエピソードを他人に話しても眉をひそめられそうな気がする。
自分最近は先週末からほぼずっと恋人の家に泊まっていて大変幸せだったので(相手が幸せとは限らないが)、noteを書きたいとも誰かに生活のことを話したいとも思わなかったのだ。この感覚はきっと間違っていないと思う。世の創作物を見回してみても、幸福な状況だけを描いた面白い作品はないと言っていいし、流行しているポップなラブソングだって別れまでがセットになっている。幸福のみを書くことはきっと難しいのだろう。

そう考えると、日々の出来事を日記的に書こうと思っているこのnoteは、幸せな状況では書きにくいと言える。マンガも以前よりも描くのが難しくなるのだろうか?
でもそんなことも言ってられないな、と上着を網棚に忘れた自分は思う。僕は幸せとは言えない状況(少し前のサラリーマン・フリーター時代)で面白いものを描けなかった凡人なのだから、幸運にも幸せな状況にありメンタルが安定している今こそ筆を取り思考を巡らせ、今までの描いたことのない系統の作品に挑戦しなければならない。面白い・つまらないは抜きにして、今自分が人生で感じていることをまずは描いてみなくてはならない。

電車の網棚に上着を忘れてこのようなことを考えた次第です。
5月のコミティアで何を描くか考え始めていますがまだ全然まとまっていません。
どうしようかな。
ではまた。

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