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抜毛症が治っても幸せになれなかった

抜毛症というストレス症状がある。
所謂自傷行為で、爪をかじる、皮膚を掻きむしる、手を洗い続けるなどの強迫性障害の1つと言える。

私は12年間、髪の毛の抜毛症だった。もう治っている。

でも正確に言うと抜毛症は自体まだ治っていない。1番目立つ頭皮の毛を抜かなくなっただけで、それ以外の毛は未だに治らない。

私自身、自分が抜毛症であることを認めたくなくて、ずっと見ないふりをしてきた。
それでも、ある日コロナ禍で抜毛症患者が増えたというニュースを目にしてから、
ちゃんと向き合ってみようと思った。
 何故なら現在進行形で声をあげる人はいても、私のように(目立つ部分だけでも)治った当事者がいなかったからだ。

だから抜毛症のことを調べた。
でもやっぱり抜毛症が完治しました、なんて人は殆ど見かけられなかった。

抜毛症が治らなかったらどうなるか、の記事は沢山あれど
抜毛症が収まったその後の生活、みたいな記事は全然無かったので、自分で書くことにした。
一個人の体験なので、頭の片隅に置く程度にしてください。

ストレスの背景で言うと9歳の頃から兄(次男)からの性的嫌がらせ、10歳の頃兄(長男)が自宅で暴れ始めた。父は私が物心着く前には不倫の末本州から離れて住み、愛着に苦しむ母のもとシングルマザーとして育った。

最初の抜毛は10歳かそのあたりで、腕毛が気になったから抜いた。子供にとっての体感時間は長いはずなのに、毛を抜き始めると早かった。

12歳の頃(小学6年生)、教師からのいじめにあった。
理由としては極度に忘れ物をしてしまうから、親がPTAに参加しないから。
よく叩かれたり、立たされたり理不尽に晒しあげられたりした。

それがきっかけになったのかわからないが、その年に抜毛症が髪の毛に向かった。
とにかくストレスを上手く処理出来ない状態の中、 自分を痛めつけることで我慢しないといけないと思ったのかもしれない。

私はこの抜毛症が始まる前、教科書などの紙の端を折り曲げてぐしゃぐしゃにしてしまう癖があった。
何故そうしていたのかは未だにわからない。ただ、紙質によって変化する様子が面白かったのかもしれない。

その前は糖分依存性だった。
毎日コンビニで飴を買ってはバリバリと噛んでいた。
飴を噛んでいる間は誰かに甘やかされている様な感覚で辞められなかった。
1日3袋買っては毎日消費し、これは「異常だ」と自分でも気がついた頃には収まっていた。 

人はそれぞれ人に言いづらい変な癖の1つや2つあると思う。
でも自分の場合はそれが髪の毛だった。

中学1年生の年、
私の頭は落ち武者になっていた。

当時「いじめの標的になりやすいから」という理由で、美術部を断念し、中学から運動部に入った。
「なんとなくやりやすそうだから」という理由で陸上部に入っていた。
当然初心者の同級生だっていた。でも私は上手く走れなかった。
その後予備校に通い、道中、車で母の愚痴を延々と聞いていた。
兄が暴れたって言うことを聞かない母に対して、私は肯定し続ける人形になっていた。 

兄2人は勉強ができた。予備校なんて通わなくても地域で1番偏差値の高い高校に入れた。

夜は下の兄が夜這いをしてくるかもしれないから眠れなかった。

昼間学校では白目を剥いて涎を垂らしながら痙攣しつつ授業を受けていたかもしれない。
起きなければ、起きなければと鼓舞するかのように、苦手な科目ほど抜ける毛の量が増えていった。

気がついたら前髪がなくなってしまい、 
陸上部で前髪を隠しながら続けるのは無理だと断念して美術部に入った。

前髪は後頭部から無理やり作り、体育は先生の許可を取り帽子の着用、水泳も前髪が濡れると困るので入らなかった。

学校側は理解があった。
しかし私の保護者にあたる母は理解を示さなかった。
「止めろ」と何度もはたかれたし、寝ている間に何度も前髪をめくられておでこが広くなっていないかチェックされた。
ヒステリーを起こすと「坊主になれ」と言って母自らの手で髪の毛を抜かれたことさえある。

三学期に差し掛かる時期に、兄が暴れていた。暴れるのはいつものことだったので、いつも通り隠れて耳を塞いでいた。
しかしその日は振動がやけに激しく、長かった。押し入れの中でヘッドフォンで音量をMAXにラジオ放送を聞いていたのに、それでも兄の怒号がすり抜けて入ってきた。

物が壊れる音には慣れていたが、悲しかった。
私にとってここは借家だとしても実家であり、帰るべきところだから何も壊さないで欲しかった。

そうした暴力が終わった頃、
押し入れを開けてくれたのはオレンジの服を着て白いヘルメットを被った知らないおじさんだった。

兄が救助隊に連れて行かれた。
経緯はわからないが、東北の父方の祖母の家に引き取られたらしい。

そこで私の抜毛症は半分くらい収まった。
 多分、数ある中でも1番のストレッサーだったのかもしれない。

過緊張状態で生きていた。
今思うと人生で1番地獄だった。

そこからはつむじを超えるほどの抜毛は無くなった。
少しずつ生えてくる毛も増え、抜きたい衝動に駆られながらも、なんとか少しづつおでこの面積が減っていった。

それでもバレたらいじめられる範疇だった。

だからずっと前髪を伸ばして、下を向いていた。
物理的に上を向くと重力に負けて少ない前髪がわかれてしまう。
私の住んでいた静岡県はとにかく風が強かった。

だから友達とただ歩いているだけでも、常に前髪を押さえることに必死で、「私は友達と笑い合うことさえ出来ない」そう思って生きていた。

20歳くらいの頃、オフ会に参加した時、女性作家に「肌、綺麗ですね」と言われたことがあった。
私は人の視線が怖かった。
私の目を見ているのか、前髪を見ているのかわからなかったからだ。
丁度その女性は私の隣に座っており、覗き込むような形になっていたことから勝手にバレたかもしれないと思い疑心暗鬼に陥っていた(多分気づいてない)
人の視線が怖いなら人の顔を見なければいい、そうして生きていた。

完治した、と思ったのは24歳くらいのことだった。
元々の生え際を忘れてしまったが、ちゃんと産毛があって指三本くらいにまで減っていた。

まだまだ短い毛はあったが、「前髪ができた」と思った。
やってみたかったセンターパートをして、実家へ戻ると母が泣いていた。「ずっと見たかった、可愛いおでこが戻ってきた」と喜んでいた。これでマイナスが0に戻ったと思った。

でも失った12年間は長かった。 
髪の毛があれば、出来たことも多かった。 
過去を振り返ると、したくても出来なかった青春が多すぎた。
成人式も、その前撮りも、卒業式も。
美容室にとにかくいけなかった。
だから晴れ着なんて着られなかった。

抜毛症、特に髪やまつ毛、眉毛等目立つ部分は治りが早いに越したことはない。

治りを早くするにはまず周りが理解して受け入れることが第一だと思う。

私は上の兄が家を出たこと、私が家を出たことなど、環境が変わるにつれ改善していった。

私の場合は寝不足だと大概抜毛症が出る。だからそういう時は我慢せず寝るようにした。そういう環境に、無意識に少しづつ変わっていった。

深刻な抜毛症は治りました、だからお終い、幸せになりました

とはならなかった。私の場合は。

皆が成人式をしていた「あの時」には戻れないし、リクルートスーツで参加した卒業式に戻れるわけでもない。

若いうちだから、可愛いから出来ることが出来なかった。
だから結婚式は若いうちに盛大に挙げてみたかったが、コロナ禍でそんなことはできなかったし、
夫と私の家族は主役になることへの抵抗感があるようだった。

多分、あまりこういうタイプの青春コンプレックスに関して理解を得られる人は少ないかと思う。
 
「勿体ないことをした」
「昔は可愛かったのに」

そんな言葉も沢山言われた。

1番楽しむべき時代に楽しめなかったし、
じゃあ今を楽しもうと思っても、結局社会一般的に女性は年齢で差別されやすい。

コスプレなんかもよくするが、抑圧された変身願望と承認欲求の現れだと思う。

現実世界で誰も欲求を叶えてくれなかった、だからネットで承認欲求を満たす。
でも加工した自分を見るのは虚しいし、実際コメントで「イタイ」やら「ババア」やら「自分では若く見えてるつもりかもしれないが年相応」、「その服で日常生活送ってるの?」と言われると現実に戻らざるを得ない。

Z世代の可愛い子を見て、未来があることを羨ましく思うことがある(彼女たちは彼女たちで大変な事も背負っていると思うけど)

ああ、この角度でもほうれい線が出来ないのか、笑顔が上手くて羨ましい、こんな若くて可愛い服を着ることが許されて羨ましい

そうして現在の自分とZ世代の子を比べてしまう。
いや、私にもそういう時代はあった。でも前を向けなかった。

今年で28になるが、着たい服と現実的に年齢に見合って着なければいけない服のギャップに耐えられない。

よく可愛らしいロリータ服を着て、年齢で叩かれている女性を見ると我が事のように辛く思う。

可愛い服を買う度、自分の気持ち悪さに苛まれる。

抜毛症が治っても幸せにならなかった。自分の場合は。

変な青春コンプレックスを拗らせたモンスターになった。

従姉妹が2人、誌面モデルをしていたから顔面差別を受けていた。それが今でも苦しいのかもしれない。

結婚式の白無垢を父に「おかしい、変」と言われたことも悔しいのかもしれない。

ちなみに発達障害にこういった抜毛症などの強迫性障害は起こりやすいらしい。

私は抜毛症が収まったあと、歯ぎしりにスライドした。

止められなくて、歯医者にも行ったし、歯科大学病院にも行った。
嘔吐反射を起こすためマウスピースが出来ず、現代の医療ではお手上げといったところだそうだ。

今は詰め物や銀歯が肩代わりしているが、現段階のまま行くと10年後には歯そのものを粉砕してしまうと言われた。

元々筋弛緩作用のある抗不安薬を飲んで眠っていたが、やはり寝ている間に歯ぎしりをした感覚がする。

過緊張が中々抜けないんだと思う。

兄達も似たような過緊張状態で不眠、躁鬱など抱えていて生きづらそうだと思った。

別に抜毛症が治ったからと言って、幸せになれたわけではない。私は。

寧ろやれなかったことを知り、そしてその後悔が日に日に増え続け、老化したくないと強く思う。

よく「30-40代でも綺麗で魅力的な人いる」と言われるが、
美容にかけている金額が違うと思う。

誰かの人生の舞台に上がれると思い上がった自分が馬鹿だったんだろうか。

最初から裏方に徹していれば、夢を見なければ幸せだったのかもしれない。

誰かを支えて、誰かを可愛くして、アシストすることで満足出来たはずなのに、無駄な欲求を産んでしまった自分が悪いのかと考えることがある。

でもやっぱり誰かに見て欲しかった。

抜毛症には感謝している。あれが肩代わりしてくれなかったら、13歳にして命を絶っていたかもしれない。

けど、日常にまとわりつく常識と夢のギャップで今、苦しんでいる。

せめて周りに理解があればと思う。
抜毛症のことを少し許容してくれれば、治さなければというプレッシャーに気圧されることなく治癒が早まったのかもしれない。

私は自分と似た経験を誰にもして欲しくない。
だから、抜毛症はもっと世に認知されればいいと思う。
自業自得ではなく、やめたくてもやめられない。
アルコール依存や、ギャンブル依存、ゲーム依存、スマホ依存よりも身近にある依存性だと思っている。そういう風に考えを置き換えてみてほしい。

そしてこれをある種の治療法の確立されていない病気として、覚えていて欲しい。

第2の自分が生まれないことを祈る。



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