自分から「助けて」と言える子に。

あなたは正しく自分から「助けて」と言えますか?


自分から助けて。と、言える人はどれだけいるだろう。

子供達には、いや、みんなみんな自分も含め、見るからに命の危険がある時以外でも、目に見えない命の危険が迫っている時でも、苦しい時にも、辛い時にもきちんと助けを求める人になってほしいと思っています。


正しく助けを、求めるというのはどういう事だろう?

自分なりにまとめてみました

1、助けを求める時期を自分なりにわかっている
2、誰に助けを求めるか相手をわかっている
3、どう助けて欲しいかを伝えられる
4、助かるんだ、と信じる事ができる


↑できる自信はありません。

誰に助けを求めればいいのか、どう助けて欲しいのか、自分からちゃんと正しく助けを求められるように、自分の弱さを伝えられるように、ある意味で学ばなくてはいけません。




子供が幼稚園や小学校、保育園など集団生活に入っていく時、自分を出す時と相手を受け入れるバランスに、とても悩むし、大人でさえ相手との距離感ってとても難しい。




鬱で悩んだって、病気の後遺症で苦しんだって、助けてくれる人なんていないんじゃないかと思ってしまう。


娘は最近反抗期で、いつも楽しくなさそうです。楽しくない原因を私なりに詮索するのは辞めました。どうした?塾の宿題が嫌なの?欲しい物があるの?学校で何かあった?疲れちゃった?お腹すいちゃった?


聞いても答えないし、一緒に考えてみてもどうやら自分でもわからないらしい。

昨日、こんな事がありました。

弟の誕生日を、祝わない。1人でコナン見ると言ってイヤホン付けてテレビ見てふて腐れていました。

夫はどうした?何があった?しつこい。
いつもこうなんだよ。ほっとけ、






この「ほっとけ」は、夫には私が娘の相手するのが面倒だからこの言葉が出たんだと思われているんでしょうが、実は違う。


ちゃんと、自分の口から弟のお祝いをしたくない理由を話すべき、実は仲間に入れて欲しいとか、自分から歩み寄るべきだと私は思いましたのでこちらから聞かないんです。



自分からちゃんと理由を言う。
自分からちゃんと嫌だと言う。
自分からちゃんとやめてと言う。


自分の正しさ、考え、秩序も相手に無言で求めない事。



「非常識過ぎ、少しは考えろよ」
「あり得ない、少しは気を回せよ」
「酷いな、人が傷つくのがわからないのかな」

と思う場面で、自分に理不尽や苦しみがある時、なぜ相手に言わないんですか?
我慢するんですか?そして非常識を受け入れも出来ずに無言で相手に求めているんですか?



いっときのすれ違いの相手ならまだしも、友人やそれなりの時間を重ねる相手にさえ、我慢しているのは、自分が悪者になりたくないからですか?相手が受け入れてくれるとは限らないからですか?否定されるのが怖いからですか?

私も、働く社会に、出たら、やはり言えなくなってしまうんだろうか、、、



今日のまとめ
いじめ問題で気になるのは被害者は、やめて、と言い、きちんとsosが出せていたのだろうか。私達は出し方を教えていたのだろうか。
相手に気付いて欲しい、少しは察して欲しい、など相手に求めても無駄かもしれない。
やめてと、助けてと、はっきり伝えた上で、そこから敵が出来たとしても自分だけは最後まで今の自分の味方でなくてはならない。
自分がいつか助けを差し出せる人になる為に





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