あの人が牛だったの。

まえおき

『美少女戦士セーラームーン』主題歌として知られるDALI「ムーンライト伝説」(作詞・小田佳奈子、作曲・小諸鉄矢)にメロディを流用されたKEY WEST CLUBの「夢はマジョリカ・セニョリータ」という楽曲があります(作詞・川島だりあ、作曲・小諸鉄矢→川島だりあ)。作曲に「→」を入れたのはCD発売時にクレジットが変更になったからです。小諸鉄矢はCM NETWORKなるTM NETWORKをもじったユニットの作曲担当者で、近田春夫が小室哲哉をもじって使用した名前でもあります。
この曲はもともとライブステージなどでうたわれていたのを、「ムーンライト伝説」発売と同じ1992年に、メロディを別のものにすることでCD化されます。しかしメロディ改変後(歌詞は最後の2節が削除された以外はそのまま)のものをフルで聴いてみても、改変されたメロディにどうもなじめない以上に歌詞がいまひとつで、むしろ元のメロディが「ムーンライト伝説」に流用されたのは結果的によかったんじゃないかと思わせられます。(ちなみにこの曲をうたったKEY WEST CLUBは二人組で、その一方が中谷美紀です。)
「ムーンライト伝説」を聴いてみてもわかりますが、元のメロディは明らかに昭和歌謡を意識して作られたもの。前年にスマッシュヒットを飛ばしたMi-Ke「想い出の九十九里浜」(ザ・ピーナッツやグループ・サウンズを意図的に引用した楽曲で作詞・長戸大幸、作曲・織田哲郎)を範としたのではないかといわれています。実際、「想い出の九十九里浜」を作詞した長戸大幸はKEY WEST CLUBのプロデューサーでもあります。
なお作曲者の「小諸鉄矢」は川島だりあの変名という説もありますが、編曲の池田大介が明確に否定していたように「小諸鉄矢」は川島だりあではなく、元の昭和歌謡ふうのバージョンを作曲したのが器用な近田春夫で、それが「ムーンライト伝説」に流用されたあと別の曲を付けたのが川島だりあ、というのが真相ではないかと思います。「夢はマジョリカ・セニョリータ」がCD化された際には、クレジットに「作曲・小諸鉄矢」とあったのが封入物で「作曲・川島だりあ」と訂正されたそうです。ちなみに、先にこの曲は昭和歌謡を意識して作られていると書きましたが、実際に「ムーンライト伝説」は倍賞千恵子「さよならはダンスの後に」(作詞・横井弘、作曲・小川寛興)という昭和歌謡とメロディが似ているということで印税の一部は小川寛興サイドに入ることになっています。このあたりも自ら「パクリ」を公言するほど(代表的な例としてダーツ「ダディクール」を元にしたザ・ぼんち「恋のぼんちシート」など)本歌取りの名手だった近田春夫の作曲ではないかという印象を強化しています。

「ムーンライト伝説」の歌詞は基本的にラブソングなのですが、随所に『セーラームーン』の世界観やモチーフを取り入れることで、アニメソングの定番として残ることになりました。楽曲のヒットには『セーラームーン』自体のヒットが大きく寄与しているとはいえ、「夢はマジョリカ・セニョリータ」の歌詞を見ると、歌詞が変わってよかった……と思ってしまう。「夢はマジョリカ・セニョリータ」の歌詞はそんな感じです。
レトロな曲調に合わせて、たとえばザ・ピーナッツなどが歌ってヒットした「ウナ・セラ・ディ東京」あたりを想定したのか、タイトルからもわかるように、歌詞にはスペイン語が取り入れられています。とはいえスペインを想定した歌詞なのか、それともスペイン語圏の南米を想定しているのか、そのあたりが既に怪しいです。
歌詞全体としては女性が主人公。恋の終わりをうたってはいますが、フラれたというよりは自分から失望してフッたものの、どこか未練が断ち切れないような感じです。恋人ないしその候補だったと思われる男性が、思いのほか積極的かつ男尊女卑的だったことが明らかになって別れたものの、男性そのもののことはまだ恋しいと思っているというような、複雑な感情をもっているらしい。……と歌詞の設定がわかりにくいのは、恐らくあまり世界観や設定など気にせずに雰囲気重視で書かれたからなのでしょう。
以下、そのどこか珍奇な歌詞を逐行考察していこうと思います。果てしなく不毛な作業ですが、思いついてしまった以上やらずにはいられない。

1番

まず冒頭で恋人と別れ、ヤケ酒に泣くような夜を過ごしていることが語られます。

踊り明かしましょうルナ 12杯目のテキーラ
今宵独り身同士 泣きましょういいじゃない

ルナはスペイン語の「月」。ここだけがかろうじて「ムーンライト伝説」や『セーラームーン』とつながりそうなところでしょうか。女性名詞なので、月を相手に独り身の女どうし強い酒をあおりながら踊り、泣き明かそうといった歌詞です。この時点ではまだ普通の失恋ソングといった趣きですが、普通はテキーラのような強い酒を12杯も飲むものじゃないと思います。よほどの酒豪なのか。ちなみにテキーラは、アステカの蒸留酒をもとにスペイン人のコンキスタドールたちが作ったメスカルと呼ばれる酒の一種。ここもスペインにちなんでいるわけですね。

男なんてみんなみんな 究極のスピリタス
お目にかかるだけで もう ゴメンしたくなる

スピリタスはテキーラよりさらに強い、ほとんどアルコールそのもののような酒(調べたところポーランド原産のウォッカだそうです。そこはスペインじゃないのね)。「究極の」とついているところを見ると、強すぎる酒で失敗したようなイメージでしょうか。比喩とはいえ、酒の失敗を酒でごまかすのは危険な気がします。お酒はほどほどに。

夢のマジョリカ・セニョリータ
あなたはマタドール(闘牛士)

タイトルだと「夢は」になっているところが「夢の」になっていますが、どのみちそれに続く「マジョリカ・セニョリータ」がよくわからないので正直どうでもいいですね。マジョリカはイタリアのマヨルカ島を原産とする陶器のことで、スペインやスペイン語圏でも作られているようです。そして「セニョリータ」は未婚女性のこと(フランス語でいうマドモワゼル)。美しくも脆いところのある、陶器のような女性でありたいと夢見ているのでしょうか。
対して「あなた」はマタドールなので(ここだけルビでもなくカッコ書きで「闘牛士」と訳語が示されているあたりも謎)強くてカッコいい感じです。割れやすいマジョリカの私を守ってくれるのかも知れません。しかし、

ところが気付いた時に あの人が牛だったの
追いかけられる愛は 背を向けたくなる

マタドールだと思っていた相手は、実はマタドールを追いかける牛のほうだったのです。ここまでなんとなく雰囲気だけで聴いてきたところ、あまりにも唐突にあらわれるシュールなパンチライン「あの人が牛だったの」はこの曲のいちばんの聴きどころといっていいでしょう。よく考えれば牛というのはマタドールと対比した比喩表現で、猛然と相手を追いかける牛と、それをヒラリヒラリとかわす闘牛士をそれぞれ恋愛のスタンスに置き換えたものだということはわかります。とはいえ、それまでの歌詞がそれほど深く考えることを要請していないため、いきなり突飛な比喩を持ち出されるとさすがに面喰らいます。
ともあれ、歌詞の主人公は男性側から積極的に(というか闘牛のようにかなり猛烈に)アタックされるのは御免こうむりたいようです。それはそうですよね。牛は草食動物とはいえ、闘牛となると、ひところはやった「草食系男子」とは似ても似つかない。
そんなわけで失恋ソングとはいっても、マタドールかと思いきや牛だった「あなた=あの人」にフラれたというよりは、彼が牛だったことに気付いてこちらから別れを切り出したのでしょう。しかし未練が残って……というのが続く2番の歌詞になります。

2番

2番の歌詞はかなり字余りや字足らずが多く、元のメロディにも改変後のメロディにもうまく乗っていません。

その前の時を聞いて これも悲しすぎるわ
優柔不断のとこが 大好きだったのに

闘牛のようになる前の彼は、「その前の時」は優柔不断なタイプだったようです。草食だ。そして歌詞の主人公は彼のそういうところが好きだったらしい。とはいえさっきマタドールと言っていたのが今度は優柔不断と言われてしまうと、印象がちぐはぐになります。彼はマタドールのように強くてカッコいい男なのか、それとも優柔不断なちょっと頼りない男なのか、判断に困る。優柔不断なマタドールではすぐやられてしまって、マジョリカのようなセニョリータを守るどころではない気がします。

男上がれば 頭が下がる アタシはパセリじゃない

このへん(ムーンライト伝説でいう「月の光に導かれ 何度も巡り会う」に相当)、歌詞の音数とメロディがあまり合っていなくて、とても歌いにくそうです。
「男上がれば 頭が下がる」という歌詞は、歌いにくいうえにわかりにくい。彼が男として地位を上げれば上げるほど、こちらは男尊女卑的に頭を下げなくてはならない……ということなのでしょうか。頭をペコペコ下げて夫の三歩後を付いてくる、古くさい良妻賢母のようなイメージ。しかしそれは後に続く「アタシはパセリじゃない」すなわち自分は男の添え物じゃないんだ、という主張があってようやく想像がつくところで、いきなり「男上がれば 頭が下がる」と言われても困ります。僕は初めて聴いたとき「彼がいさぎよく土下座したことで男を上げた」のかと思いました。ともあれ、「男を上げなくてはならない」ホモソーシャルな場面で添え物のパセリのようなひどい扱いを受けて、「アタシ」は悲しかったのでしょう。ここでようやく前節の「これも悲しすぎるわ」の意味がようやくわかります。歌詞としての順番が前後してしまっている感じです。

だけどね 女はいつも スピリタスが欲しいのよ
唇によせるだけで 腰くだけ fall in love

ここも歌詞とメロディがうまく合っておらず、やはり歌いにくそうです(ムーンライト伝説では「星座の瞬き数え 占う恋の行方/同じ地球(くに)に生まれたの ミラクル・ロマンス」の部分に相当)。
1番で「男なんてみんなみんな 究極のスピリタス」とうたっていたので、スピリタスは「牛だった」彼に限らず、男性一般のことだと思われます。男尊女卑なうえ猛牛のように迫ってくるから別れたものの、男がいないと結局は寂しいということでしょうか。「アタシはパセリじゃない」という割に、男なしでは生きていけないような言い草には違和感があります。そもそもなんだかこのへんは歌詞そのものが男尊女卑な感じがして、あまり好きになれません。別に女の人は男がいなくたって生きていけるものです。「いつもスピリタスが欲しい」のはその人個人の問題であって、「女は」と普遍化してしまうのはよろしくないかと。デカすぎる主語は危険。「あの人が牛だったの」というけれど、作詞家が牛だったような気分になります(川島だりあは女性ですが)。このへん19年前の歌詞の限界なんですかね。
「唇によせるだけで 腰くだけ」はスピリタスの縁語。少し口にしただけで腰砕けになるほど酔ってしまうほど強い酒・スピリタスと、口づけを交わすだけで腰砕けになってしまうぐらい魅力的な男性とを掛けた表現になっています。縁語とか掛詞とか序詞とか、古文の授業で和歌を読むのに習う用語は、なんだかんだ歌詞のことなど考えるときに役立つので、「こんなこと覚えて将来なんの役に立つんだよ」などと言わず勉強しておきましょう。
そして「fall in love」。ここまでスペイン語で通してきたのにここだけ英語なのでチグハグ感があります。このあたり単にメロディにうまく乗っていないだけでなく、歌詞自体が全体として見たときに不調和になってそこだけ浮いてしまい、成功していないように思います。

夢のマジョリカ・セニョリータ
あなたはマタドール(闘牛士)
ところが気づいた時に あの人が牛だったの
追いかけられる愛は 背を向けたくなる

サビの部分は1番と変わりません。要約すれば「彼をフッたけどまだ名残惜しい。男というスピリタスはいつも欲しいけれど、闘牛のように迫ってきたり、男を上げるために頭を下げさせるようなタイプは嫌い。マタドールのように自分を守ってくれて、でも優柔不断なところもある人が好き。」……ということになりましょうか。ところどころ矛盾する願望をかかえた女性像ができあがってしまいました。いや別に女性が矛盾を含んだ願望をもっていようがそのこと自体はかまわないのですが、歌詞の矛盾がそのまま作中の女性の矛盾になってしまうのはなんだかかわいそうです。

削られた箇所

「ムーンライト伝説」にメロディを流用され、別のメロディをつけてこの曲がCD化されたときに、元のメロディでうたわれていたときにはあった最後の歌詞が削除されてしまっています。「ムーンライト伝説」でいうと最後の「信じているの ミラクル・ロマンス」のところです。

涙の東京 歌うデル・コラソン

「涙の東京」のあたりは、当初の目的だった「昭和歌謡っぽい歌」を作ろうとした名残なのでしょう。とはいえここまでひたすら酒と闘牛と恋愛の話題に音数を割きまくってきたので、急に「涙の東京」と言われてもちょっと不自然なところがあります。続く「歌うデル・コラソン」のdel corazónとはググってみるとスペイン語で「心から」という意味らしい。こうして丁寧に(というか、しつこく)読んでくるとずいぶん前のことのように思われますが、1番の最初の方に「踊り明かしましょうルナ 12杯目のテキーラ」「今宵独り身同士 泣きましょういいじゃない」とあったように、恋愛と闘牛(とスピリタス)のくだりは全て過去の話で、今はそのことを思い出して月を相手にヤケ酒を飲みながら、歌い踊っているわけです。涙ぐんだ眼で東京の街を見ながら、心から名残惜しくも終わった恋をうたう……というところで歌詞が終わるわけです。
この箇所がなぜメロディ改変後のCD版では削られたのか、理由は定かではありません。が、恐らく昭和歌謡をもじった元のメロディを「ムーンライト伝説」に流用することになり、こちらをあまり昭和歌謡っぽくない曲調にしたことで、とりわけレトロな印象をもたせる箇所を削除したのではないでしょうか。あくまで推測ですが。

最後に

そんなわけで「夢はマジョリカ・セニョリータ」の歌詞を逐行読んできました。やってみてわかりましたが本当に不毛です。しかも(よく考えれば1番からその気配はあったものの)2番の歌詞はだいぶ男尊女卑的というか、いまの時代には受け容れにくいもので、ちょっとビックリさせられました。作詞した川島だりあは女性ですが、女性が男尊女卑的な考え方を内面化してしまっていることはままあります。まして20年ほど昔のことですから、今と比べればなおのことそういう傾向は強かったでしょう。
以前、映画『ワンダーウーマン』の日本版テーマソングとして乃木坂46が(ということは当然ながら作詞・秋元康で)「女は一人じゃ眠れない」なる楽曲をうたって、そのタイトルや歌詞が『ワンダーウーマン』という作品にそぐわないというので反発を呼んだことがありました。今回「夢はマジョリカ・セニョリータ」の歌詞を読んでみて、ちょっとそのことを思い出します。男だろうが女だろうが、誰だって別にひとりで眠れるし、ひとりで寝たところで何も問題はないのです。ひとりで寝ることをとやかく言うやつのほうが問題だし、何より誰も「牛の添え物のパセリ」(と書くと牛がマタドールにやられて牛肉料理にされてしまったみたいですが)になんかなる必要はありません。この「女は一人じゃ眠れない」がライブで披露された際にメンバーの齋藤飛鳥がドラムを叩いたことがあって、すごくかっこよかったのですが、それだけにタイトルや歌詞が残念です。まして齋藤飛鳥という人が、恋愛や結婚に対して消極的かつドライな考え方をもった「一人で眠れる」タイプなだけに。あまりにも露骨だった「セーラー服を脱がさないで」の頃からそうですが、秋元康は性の問題について危険球を投げ込んでくることがままある。欅坂46の楽曲でも「月曜日の朝、スカートを切られた」という痴漢被害を題材にした楽曲で批判を集めています。
ともあれ、昭和歌謡ふうのメロディが「夢はマジョリカ・セニョリータ」として終わることなく、「ムーンライト伝説」としてヒットしたのは改めてよいことだったなと思います。ここまで読んできた歌詞とは違って、『セーラームーン』という、男尊女卑とは距離のある作品にかかわることになったのも今となってはプラスにはたらいているでしょう。(もちろん「ムーンライト伝説」の歌詞も、運命に導かれたふたりが何度も巡り合うという原作の設定を反映したもののとはいえ、典型的なラブソングとしての色彩も強く、決して単純に肯定はできないのですが。)
というわけで「ところが気づいた時に あの人が牛だったの」という突飛な歌詞が気になって全体を丁寧に読んでみたのですが、思いもよらぬ結果になりました。

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