デカルトの私小説――une esquisse――(『雛罌粟(コクリコ)』4号掲載)

4年後からのまえがき

この文章は2016年末に書かれ、2017年に詩誌『雛罌粟(コクリコ)』に載せてもらったものです。このころ博士論文の関係でジョルジュ・バタイユの、ことに「無神学大全」三部作における《私》jeについて考えていて、その参考にと読んだビュトールの文章が面白かったので、それをきっかけにして書きました。
学部を卒業する前後からデカルト、スピノザ、ライプニッツといった17世紀ごろの哲学者たちに興味をもつようになって、デカルトやライプニッツの翻訳・研究で知られる谷川多佳子先生の大学院の授業に出たりしていたのですが、その中間報告のような趣もあります。三木清や西田幾多郎など広義の「京都学派」には、西田や三木の文章を高校卒業間際ぐらいに青空文庫で読んで以来ずっと関心を惹かれ続けていて、研究テーマをバタイユでなく京都学派の誰かにしていたら今の自分はもっと違ったのではないかと思うことがよくあります。
最後の一段落は安易な私小説や、短歌の世界でやかましい「私性」をめぐる議論に関係して、ほとんど付け足しのような感じで書いたものです。

本文

 私、と書き付ける。それだけのことにも様々の思惑と戦略とがある。私は考える、ゆえに私はある――そうデカルトが書くとき、その《私》はほかの誰でもない、ルネ・デカルトその人でなくてはならなかった、とヴァレリーは言う。なるほど『方法序説』には、それに先立つ断片『思索私記』にあった「夢の啓示」など書かれなかったエピソードもあるにはあったが、ともかくこの本は一幅の自画像、デカルト自身の歴史=物語(イストワール)として著されたのであった。
 だが、その『方法序説』と続く『省察』との間には確かにひとつの断絶がある。そしてそれは前者が世俗語としてのフランス語で書かれたのに対し、後者が当時の学術語であったラテン語を以て綴られているという表面的な次元だけに留まる話ではない。『省察』もまた『方法序説』と同じく《私》という一人称単数で書かれてはいる。しかし、この二つの《私》の間には本質的な差異が存するということを、小説家の視点から指摘したのがミシェル・ビュトールだった。「新しい小説(ヌーヴォー・ロマン)」の旗手の一人として知られるビュトールはかつて「きみ(tu)」という二人称単数で語られる小説『心変わり(ラ・モディフィカシオン)』を発表して世を騒がせた。このいささかスキャンダルな小説をめぐってビュトールは一種の自己弁護とでもいうべきエセーを書くこととなる。「小説における人称代名詞の用法」と題されたその文章(『現代(タン・モデルヌ)』誌、1961年2月号)のなかでビュトールは、三人称で『ガリア戦記』を残したカエサルなどと並べて『省察』のデカルトを俎上に乗せ、端的にこう語っている。

「『方法序説』において《私(ジュ)》はデカルトという、我々にむけて彼の歴史(イストワール)を語る実在の個人を指し示しているが、『省察』のなかには或るフィクション、一篇の小説(ロマン)があり、そこで《私》は本質的に異なった性質を有する。それは偽装された二人称なのである。」

 こう説き起こしてからビュトールは『省察』を引用しながら論を進めてゆくのだが、ここで少しく注意を喚起しておきたいのは彼が拠っているのは『省察』のラテン語原文ではなく、そのリュイヌ公による仏訳――この訳文にはデカルト自身も目を通していると言われてはいるが――だという点だ。フランス語の「我思う je pense」がラテン語ではcogitoの一語を以てあらわされることからもわかるように、ラテン語には《私》にあたる主語代名詞がなく、動詞の活用語尾によってその主語が示される。それゆえデカルト自身の手になる『省察』のラテン語原文において《私》は、まったく存在しないというわけではないのだが、少なくともフランス語のように目にみえるかたちではあらわれない。ビュトールが仏訳を引いている背景にはそうした戦略が隠されているということに充分に留意したうえで、いま少し彼の論を追ってみよう。
 ビュトールによれば、まだ『省察』冒頭の《私》はデカルト自身を示していると考えられるという。ここでは三木清の訳でデカルトの言葉を引こう。遺稿となったこの邦訳で三木はラテン語原文に拠りつつも、箇所によっては仏訳も参照している。

「しかしこれはたいへんな仕事であると思われたので、私は十分に成熟してこの業に着手するにそれ以上適当ないかなる時も後に来ないという年齢に達するまで待った。」

 六部にわかたれた『省察』のうち、第一省察の最初のほうにある一文だ。確かに、ここで《私》が指し示しているのは『省察』を書こうとしているデカルト自身の姿である。だが、彼が読者にむけて語ってきかせる物語(イストワール)はすぐに彼自身の歴史(イストワール)から離れた一個の「冒険」に姿を変え、むしろ読者のほうがその冒険を実際に生きるよう彼から強いられることになるのだ、とビュトールは言う。「彼はまるで守護天使か指導者のように、この『省察』全篇を通じて、読者が一歩ずつ足を進めるのを導いているのだ。」そして『省察』のなかでも有名な一節が、同じく第一省察から引用される。

「しかしおそらく、感覚はあまり小さいもの、あまり遠く離れたものに関しては時として我々を欺くとはいえ、同じく感覚から汲まれたものであっても、まったく疑い得ぬ他の多くのものがある。例えば、今私がここに居ること、煖炉のそばに坐っていること、冬の服を着ていること、この紙片を手にしていること、その他これに類することのごとき。」

 ここで暖炉のそばに腰掛け、冬物の部屋着をまとっているのは誰だろうか、とビュトールは問いかける。デカルトはここで一種の劇を演出している。読者にとっていかにも真実らしく感じられるような想像上の舞台装置を設定して、その舞台にいわば役者として読者を上らせるのである。そして第一省察の末尾で、デカルトは睡眠について語り、『省察』という舞台をいったん暗転させる。暗転からふたたび明りがともった舞台上で始まる第二省察は、このように書き出される。

「昨日の省察によって私は懐疑のうちに投げ込まれた。それは私のもはや忘れ得ないほど大きなものであり、しかも私はそれがいかなる仕方で解決すべきものであるかを知らないのである。」

 ここで「昨日」と言われているのは、あくまでデカルトが『省察』のなかで読者を俳優として設定した「劇」のなかの約束事にすぎない。ビュトールはここで『省察』における《私》の「偽装された二人称」への移行が、きわめて隠微な、それと感付かれないかたちで(insensiblement)遂行されたものとみている。「それゆえ、ここで《私》を使うのは語り手の存在を忘れさせるためである。そのことが語りの進展を分析することで明らかになれば、同時に、現象学的な意味で二人称というものの根本にある性格もまた明らかになるだろう。」ここからビュトールは『デカルト的省察』を書いた現象学の創始者フッサールに話を移してしまうが、『省察』のデカルトが《私》という一人称で語ることで、それと感付かれないように偽装しながら読者自身に《私》のおこなっていく省察を追体験させるという一筋縄ではいかない戦略、林達夫の卓抜な論考からタイトルを借りれば「デカルトのポリティーク」が念頭に置かれていたことがわかるだろう。
 しかしそのうえで、デカルトの《私》が「偽装された二人称」という複雑な、あるいは狡猾とさえいえる戦略のもとに書かれていることを、ほとんど動物的な勘で嗅ぎつけて容赦なく批判したのが晩年の西田幾多郎であった。第二次大戦末期、のちにデカルトを中心とする西洋哲学史の研究者として京大教授となる野田又夫が召集されたとき、西田は彼にあてて、野田の専門であったデカルトを題材にして自己の思想を表現した「デカルト哲学について」という一文を草して送った。あらゆるものごとの実在性を疑ってもなお「疑っている自分」だけは確実に存在する、たとえ悪しき霊に騙されているとしても「騙されている私」の存在だけは疑いえないというデカルトの「我思う、ゆえに我在り」の射程を的確に把握したうえで、西田はそこに批判の刃を突き付ける。

「私は此にデカルト哲学の不徹底があるというのである。神が自己を欺くとも、欺かれる自己がある、私が私の存在を疑うというなら、疑うものが私である。疑うという事実そのものが、自己の存在を証明している。かかる直証の事実から把握せられる実在の原理は、主語的実在の形式ではなくして、矛盾的自己同一の形式でなければならない。スム・コギタンスの自己は、自己矛盾的存在として把握せられるのである。自己は、何処までも自己自身を否定する所にあるのである。しかもそれは単なる否定ではなくして絶対の否定即肯定でなければならない。それは主語的論理が自己自身を否定することによって考えられる実在でなければならない。」

 晩年の西田が到達した「絶対矛盾的自己同一」は、白を黒とさえ言いくるめうる詭弁じみたスローガンとして悪名高いけれど、こうして、そこに対置される「主語的論理」の代表者ともいうべきデカルトの思想と並べるとその有効性がみえてくる。デカルトの《私》は、その存在が疑われる限りにおいて存在を認められるというパラドックスの上において初めて成り立っている。それは常に鋭く研ぎ澄まされた刃の切っ先に足をかけているような、きわめて危ういバランスで成り立っているはずなのだが、デカルトの論述を追ううちに読者はいつしか《私》という偽装された二人称にそれと気付かぬまま一体化して、語り手の存在を忘れてしまうとともに、その《私》が絶えざる否定に晒されることでしか《私》たりえないものだということさえも忘れてしまう。かつて徹底的に遂行されたはずの「我思う」の方法的懐疑が、いつの間にか《私》という主語のなかに還元されてしまっていることを西田は衝く。かつて『善の研究』で「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」といった西田自身の口吻を借りれば、まず《私》があってからそのうえで存在を疑うのではなく、疑うことによってしか《私》は存在しえないのである。《私》という主語よりも先に、まず「思う=疑う」という述語がある。ビュトールの指摘のごとく巧みに二人称へと偽装された『省察』の《私》を、西田はふたたびデカルト自身に押し返すことで問い直している。

「冬の或日の夜、デカルトは炉辺に坐して考え始めた。彼は歴史的現実的自己として、歴史的現実において考え始めたのである。彼は疑い疑った。自己の存在までも疑った。しかし彼の懐疑の刃は論理そのものにまで向わなかった。真の自己否定的自覚に達しなかった。彼の自己は身体なき抽象的自己であったのである。」

 白紙に向かって《私》と書き付けるとき、書き手はまずその《私》という単純な主語とそこから成り立つ論理を根本から疑い、解体しつくしたところから始めなくてはならない。そこにおいて、「リアリズム」の名のもとに実体験を何の工夫もなく《私》という主語で語るだけの方法論なき方法論をとることは、書き手として許されざる不誠実に他ならないだろう。

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