タルコフスキーあるいは世界の救済

5年後からのまえがき

この文章は2016年、詩誌『雛罌粟(コクリコ)』に載せてもらうつもりで書いたものの、何となく詩誌に載せるには似つかわしくない文章のような気がして当時もっていたブログに上げたものです。池袋新文芸坐での怪獣映画オールナイトをきっかけに名画座通いをするようになって、タルコフスキーなども熱心に観ていた時期に書いたのだと思います。例によって気負った、そしていささか熱っぽい文章でお恥ずかしいのですが、どこかに残しておきたかったのでやはりここに公開しておきます。

本文

 もとより僕はこのシネアストについて自分が何かを云いうるなどとは思っていない。ただ彼の決して多いとはいえない作品のうちとりわけ僕の偏愛する『ノスタルジア』について、その偏愛の依って来るところをごく粗いタッチの覚え書として残しておきたいのだ。
 タルコフスキーは予言者であった。すべてすぐれた芸術家が予言者であるわけではないが、少くともすぐれた予言者はすべて芸術家である。彼が『ストーカー』でチェルノブイリの事故を予言していたとしても、僕等はことさらに驚くべきでない。核兵器は終末思想に科学的保証を与え、人類が人類として自殺することを可能にした。核時代=原子力時代にあって芸術家の想像力が到達しうる射程を過小評価してはならないのだ。タルコフスキーに色濃くあらわれたキリスト教思想の影は核戦争に対する不安によって肉付けされ、彼の作品においてメランコリックな終末論として結実している。木村敏が現象学的時間論を援用して精神病質の三類型を「分裂病=ante-festum(祭りの前)」「てんかん=intra-festum(祭りの中)」「鬱=post-festum(祭りの後)」と定式化したのに倣えば、終末論というポスト=フェストゥム的な時間把握をその根底にもつという点でタルコフスキーの映画は単なる印象論でなくより原理的な意味で「メランコリー」を体現していると云えよう。『惑星ソラリス』『鏡』『ストーカー』といった作品はいずれも既に起こってしまった「なにか」を描いている。妻の自殺、父の出奔、ゾーンの出現といったドラマの核となるべき事件は映画が始まった時点で既に起こってしまっているのだ。その「取り返しのつかないことになってしまった」後の世界で主人公はただ過去を生きることしかできない。回想シーン――それはしばしばモノクロームの色彩によって明示的にあらわされる――を多用して錯綜していく時間は、もはや現在にあって過去=記憶をふりかえるという(アウグスティヌス的な)図式の上に安住していることを許されず、絶えず過去は現在を浸蝕し、干渉し、簒奪してゆく。思念の中から自殺した妻を幾度も実体化させて送りこむソラリスの海や、何らかの事故のために傍からは無意味にしか見えない手続きを踏まなくては生命の危険に晒される「ゾーン」のようなSF的道具立ての果たす役割の大きさは云うまでもないが、より重要なのはこうした道具立てがなくとも怖るべき強度を以て主人公に迫ってくる「過去」という時間意識を自伝というきわめて個人的な形式によっても描きうるのだと『鏡』において体得したことが、彼をして『ノスタルジア』『サクリファイス』という晩年の二作品へ向かわせる契機となった点である。『ノスタルジア』は再び自伝的な方法を採用することで彼の時間意識をより深化させ「終末論」を超克するひとつの途を見出すまでに到った記念碑的作品であり、『サクリファイス』は同じ主題を今度はより寓話的な方法によって、しかしそのために却って生々しく変奏している。
 いま僕は終末論の「超克」という語を用いたが、ここにはひどくイローニッシュな響きがある。いかに自己の時間意識が深化され変容しようとも現実に存在する不安要素を排除することなどできはしない。タルコフスキーは主に家族にまつわる個人的なトラウマの次元と、核時代=原子力時代を迎えた人類全体に兆す不安という社会的次元とを巧みに織りまぜ、終末論という、より高次の普遍的主題へと昇華することでそれまでの作品を撮ってきた。個人の次元や普遍的な次元は時間意識の変容にともなって変わるかも知れないが、少くとも社会的な次元での不安はどうすることもできない。終末の到来を「超克」することなどはじめから不可能ではないか、という諦念がつねに彼の作品には漂い、それゆえに『ノスタルジア』の主人公が前進するとしても、その前進は、苦い。
 核戦争の勃発という剥き出しの姿で終末が現前する『サクリファイス』において、北欧の島に隠棲する主人公は託宣に従って下女マリアと一夜を共にすることで終末を防ごうとし、実際その翌朝に核戦争は「なかったことになる」のだが、彼は世界の救済を果たした代償(サクリファイス)に自分の家に火を放たねばならない。世界の救済が下女とのセックスという甚だ個人的で無意味としか思われない方法によって執行されるのは後述する『ノスタルジア』にも重なるが、既に死期を悟っていたであろうタルコフスキーにとってこの作品が遺作となることもあってか、世界の救済は本当に果たされてしまうし(核戦争の勃発じたいが夢だったかも知れないと思わせるような描写こそされてはいるが)、自分の家を燃やしながらもそのラストシーンは多幸症(オイフォリー)じみた希望にみちて描かれる。作中で寓話として語られるように「枯木に水をやる」徒労もいつかは報われ、未来を象徴する子供は失っていた声を取り戻す。足の悪かった娘が不思議な念力を習得したことを仄めかして終わる『ストーカー』と似てはいるが『サクリファイス』のそれは未来への希望という色彩が圧倒的に強く、もはや『ストーカー』にあったしぶとい苦みは感じられない。
 対して『ストーカー』と『サクリファイス』の間に位置する『ノスタルジア』にはいまだその苦みが持続している。枯木に水をやる『サクリファイス』の寓意がそのまま(徒労もいつか報われるという)結末を暗示していたとすれば、ここで同様の寓意的役割を果たすのは主人公の詩人が足跡をたどっているロシアの音楽家の生涯であろう。イタリアにいたその音楽家はロシアに戻れば農奴になるか、ともすれば殺されるだろうと知りながらそれでも故国に帰り、最後は自殺を遂げる。彼を死へと追いやるほど強力な望郷の念こそが表題となる郷愁(ノスタルジア)であるわけだがそれはともかくとして、徒労は徒労のまま報われず、報われないことを半ば以上知りながら徒労(=死)へと赴く、という音楽家の姿こそがこの映画を支配する図式であり、情念である。そこにこの伊仏ソ三ヶ国合作の撮影でソヴィエトを出国してそのまま亡命、のちパリで客死することとなるタルコフスキー自身の影がさしているのは間違いないが、ここで敢えて扱うべき事柄ではないだろう。
 詩人は音楽家の足跡を追って訪れたトスカーナ地方の温泉町で一人の狂信者と出会う。彼は世界の終末が近いと信じこみ、せめて家族だけでも救おうと家に閉じ込めていたが、そのことが知れて警察が介入、家族と引き離され、廃墟同然となったその家にひとりで残っている。雨が遠慮なく降りそそぐ家の中で、1+1=1と大書された壁を背景にして彼は詩人に語る。――家族だけを救おうとしたのはエゴイズムだった。自分は世界を救済せねばならない。その方法は簡単だ。ロウソクに火をともして、その火を消さぬまま町の温泉を端から反対の端まで渡りきればいい。だが自分が試みようとすると町の住人に止められてしまって果たせない。――そう語って彼は、すっかりちびてしまったロウソクとともに詩人に世界の救済を託し、ローマへ旅立つ。ここでも世界を救済する方法はのちの『サクリファイス』と同様、無意味としか思われないごく個人的な行動というかたちで提示されるのだ。やがて詩人は彼がローマのマルクス=アウレリウス騎馬像の上に昇って三日間にわたり演説を続けていること、そして詩人に託してきた「義務」が果たされたかどうか絶えず気にかけていることを知らされる。詩人は「義務」を果たすべく、すなわち世界を救済すべく湯を抜かれた温泉へと向かうが、その達成を知らぬまま狂信者は「音楽(ムジカ)!」と叫びながら油をかぶって焼身自殺を遂げる。彼の身体が燃え上るのに合わせて協力者らしき男たちはカセットでベートーヴェンの第九を流すが、テープの不調ゆえ合唱の声は醜くゆがみ、像から墜落した狂信者は炎をまとって無様に転げまわった末に息絶えるのだった。そして同じく彼の壮麗にして無惨な死を知らされぬまま詩人はロウソクを手に温泉を渡り、三度目にしてようやくその「義務」を果たすことに成功するが、冒頭から示唆されていた心臓病の悪化のためそのまま事切れ、雪の降る故郷を脳裏に思いえがきながら死んでゆくところで映画は終わる。
 このラストシーンの美しさゆえ印象が紛れがちだが、詩人と狂信者という二人の主人公による「世界の救済」はタルコフスキー自身の強烈なシンパシーとそれに拠るロマンチシズムとを濃厚に匂わせながらも、あくまで独り善がりの愚行として、無惨かつ無様な報われることのない徒労として冷酷に描かれている。彼等は互いが何を達成したか知ることのないまま死んでゆくし、彼等によって執行される「世界の救済」は誰からも見向きもされない(狂信者の演説から焼死までを多くのローマ市民は冷たく無関心な目でうけとめ、詩人は邪魔の入らぬよう人気のない時を見はからって温泉渡りを決行する)。下女と寝ることで核戦争をなかったことにできた『サクリファイス』のような救済が彼等に起こることもなければ、家族に逃げられた狂信者と家族をソヴィエトにおいてイタリアへ来た詩人とは二人とも『サクリファイス』にあった未来への希望(=子供)をも奪われている。彼等の犠牲(サクリファイス)はあまりにも虚しい。片やテープの伸びきった第九を背景に炎熱にのたうち廻りながら、片や湯を抜かれて錆びたごみの散乱する湯治場で苦しみながら、呆気なく犬死にする。だが自分の死が何の意味をも持ちえないことを知りつつ無駄死にを遂げるという、いわば「あらかじめ挫折を運命付けられたヒロイズム」にこそ、タルコフスキーは――少くとも『ノスタルジア』の彼は――終末論の超克を、そして世界の救済を見出していたのである。
 詩人と狂信者が世界の救済について語り合ったとき、背後の壁には1+1=1の数式が大書されていた。一人と一人が出会っても、結局ひとりひとりはひとりでしかない。世界の救済は個人が個=一に還るとき、すなわち独りぼっちで惨めたらしく死んでゆく瞬間にしか実現しえない。そのタルコフスキーの逆説的なロマンチシズムを信じて、僕は僕自身をそこに賭けようと思う。

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