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結局のところ〝便利〟が全ての生活をつまらなくしていた

僕の車はマニュアル。
いわゆるオートマ車と違って、運転中にギアチェンジをしなければいけない。

もっと言えば、ジムニーシエラ というオフロード専用に近い車なので4輪駆動、2輪駆動、そして4輪駆動のオフロードモードと、色々なギアも付いているため、運転中も色々な作業が発生する。

ギアチェンジをしながら、AV機器を操作し、車の冷暖房の調整も行い運転をする。
とてもじゃないが、車の中ではいつもせわしなく動いている。

今の生活は、どこの町に行くにも峠を走らなければいけなく、峠を登り降りする時には、路面状況やカーブ、タイヤの摩耗を考えてギアチェンジやブレーキを駆使する。

オートマ車に慣れている人からすると〝面倒そう〟などと思われることもあるけれど、この手間が楽しい。むしろ、もうオートマ車がつまらなくて運転が楽しめない。


そんな時にふっと思った。


結局、僕たちの生活をつまらなくしているのは〝便利〟という都合であり、本来僕たちは〝不便〟という都合を楽しんでいるのではないかということに。



不便を楽しむ生活

僕を含め、僕の周りの友達は便利な生活をしていない人が多い。

石油ストーブではなくて、薪ストーブ。
機会を使うのではなく、手作り。
野菜を購入するのではなく、自給自足や山菜採り。
魚を買うのではなく、釣ってくる。

ある程度の都会で育つと経験したことのないことばかりかもしれないが、田舎ではこんな生活をしている友達ばかりだ。

もちろん、彼らだって便利な生活をしようと思えばできなくもない。
でもあえて、不便な生活をしている。

昨年末に、仲の良い友人たちと餅つきを行なった。
冬の北海道。わざわざ寒い外で30kgにも及ぶもち米を、突きに突きまくった。

スーパーへ行けば、餅なんていくらでも売っている。
わざわざ、体を酷使して突かなければ手に入らないものではない。

でも僕たちは、その一つ一つの不便な〝手間〟を楽しんだ。

男性陣は餅を突き、女性陣はできた餅を丸め味をつける。


便利な世の中や生活は「楽(ラク)」ではあるかもしれないが「楽しさ」は兼ね備えていない。

車の運転も同じで、オートマ車は「楽」ではあるけれど、楽しくはない。
僕たちの生活の楽しさは、便利という言葉に惑わされ、濁されているのではないだろうか。


人は回帰する

「アレクサ、電気つけて」
「ヘイ、Siri!明日の天気を教えて」


言葉一つで身の回りのことや明日の予想ができる時代。

以前なら、ランタンにオイルを入れて、マッチで火をつけて天井から下げられているフックにランタンをかけて明かりを灯した。

昔は太陽や風や湿度、動物や植物の様子を見て、明日の天気を予想した。

もしかすると、当時の人たちは明日の天気を予想するゲーム遊びをやって楽しんでいたのかもしれない。



僕の周りには、手間暇をかけて発酵食品を手掛ける人、着物の生地から様々な生活必需品を作る人、土に手間をかけてから畑を手掛ける人、DIYで家を直す人たちが数多くいる。

あなたの周りにそういう人たちがいるかどうかは知らない。


でも、僕の周りの人たちは回帰している。
そしてその回帰に憧れ、そうしたいと思っている人も少なくないのも知っている。

引きこもりでも、生き延びることができる時代になっている。
パソコン一つでお金が稼げる時代になっている。
スマホの画面を眺めているだけで1日が終わる時代になっている。

だからこそ、人は不便を快適に思い、わざわざ不便を求めてやってくる。


最近になって田舎の生活や、不便な生活が世間にクローズアップされ、自分にはできなくとも憧れている人が増えているのは、そういうことではないだろうか。

便利さに慣れている分、すぐにできることではなくとも、本当は多くの人が心のどこかで不便さを楽しんでいる。


あなたの生活がつまらないのなら

生活がつまらない。


この一言で「ドキッ」とした人は、現代が作ってしまった「便利」という波に巻き込まれ、その波に流されるまま生きているからかもしれない。

「不便」という波は、時に流れが遅くなることもあれば、止まることもある。波の中に異物が混じり、かわす作業も必要かもしれないし、波の形状に合わせて泳ぎ方を変えなければいけないこともある。

やることが多くて、忙しいかもしれないが、波の動きを考え手間暇をかけることによって「飽き」がこない。


僕が運転するマニュアル車は、まるでゲームを体験しているような楽しさがある。
車の運転をゲームに例えてしまうことで、安全をおろそかにしているかと思われるかもしれないが、そうではない。


路面の状況に合わせて2輪駆動か4輪駆動か自分で選択し、車のスピードに合わせてクラッチを使いながらギアをチェンジをする。

オートマ車で選択できるのは、「走る」「止まる」「曲がる」の3つだけであり、子供の頃に乗っていたゴーカートと同じ作業しかない。

ある意味、男の子な僕は車の運転というよりも〝操縦〟をしている感覚が楽しく、ゲームの延長線上にある作業をこなしながら、運転を楽しんでいる。

これから現金のやり取りがなくなり、電子マネーや仮想通貨の時代になると、きっと僕らは現金のやり取りが懐かしく思い、50年後には「本日は全て現金でやり取り」というイベントが盛況に盛り上がりを見せる日が来るのだろう。

今の子供たちが大人になり「いやー子供の頃は、こんなコインや紙幣を使ってモノの売り買いをしていたな」と懐かしく感じ、そんな〝不便なやり取り〟を、会話と共に楽しむ日が、きっと来る。


僕たちは自分の生活を「楽」にするために、多くのことを便利に任せているが、その裏では「楽しさ」が薄れ消えていっているという事実に気がつかないふりをしていた。


楽は便利だが、不便は楽しい。


そう思えたなら、生活の一つ一つがゲームのように感じるかもしれないし、ちょっとしたことがイベントに感じることもできるだろう。

「不便」という言葉の裏に隠された、楽しさを感じることができた時、生活の中に新しい楽しさが舞い込んでくるのではないだろうか。

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