「さみしさ」の正体とは
最近ふと、心にぽっかり穴が空いたようにさみしくて、"誰か"に抱きしめられたくなることがある。
この「さみしさ」の正体は何なのだろうか。
この"誰か"とは誰なのだろうか。
双極性障害という"病気"の抑うつ状態のせいなのか?
それとも親しい友人となかなか会えなくなってくる年齢のせいなのか?
肉親や大好きな友人らに抱きしめてもらえばよいのだろうか?
それとも恋人をつくればよいのだろうか?
パートナーが「さみしさ」のカギとなるのか?
恋人といえば、年齢のせいもあり、ここ数年一気に周囲の人間が結婚していっている。
「25を過ぎると競うように周りが結婚する」とは耳にタコができるほど聞いていたが、これほどとは思わなかった。
結婚していない同期の数名も、数年前から婚活を始め、今でも続けているようだ。
「婚活」というくらいだから、初めから一生を共にするということを目的として相手を探しているということなのだろう。
彼ら/彼女らも、漠然と「さみしさ」を感じて、"誰か"に抱きしめられたくなったのだろうか。
実際に婚活をしている同期の中には「ひとりはさみしい」と発言している人もいたし、偶然目にした以下の漫画でも「仕事に打ち込んでいるうちにさみしくなった」という表現があり、30歳のときにご結婚なさったとのこと。(おめでとうございます)
つまり、最近個人的に、「20代後半になった人間はひとりでいることをさみしがる」ということを体感することが多くなったのである。
自分もその一人なのだろうか?
だから漠然としたさみしさを感じ、"誰か"に抱きしめられたくなるのだろうか?
パートナーシップを築いていく周囲、誰の「特別」にもなれない自分
とはいえ、このnoteの初めの記事でも書いたように、自分はAセクシャルである。
誰かたった一人を「特別」な存在にすることはできないし、そのため自分も誰かにとっての「特別」にはなれないと思っている。
結婚する人間や婚活をしている人間は、この「特別」を求めて結婚する/したいと考えているのではないか。
そこにおいて抱きしめてくれる"誰か"とはパートナーのことであり、それによって「さみしさ」を埋めようとしているのではないだろうか。
(…と考えるのは見当違いかもしれないが、ちょっとそのへんはよくわからないです。ごめんなさい。)
それならば、その「特別」を得られない自分は、どうしたら「さみしさ」を埋められるのだろうか。
抱きしめてくれる"誰か"が恋愛対象としてのパートナーのことであれば、自分はそれを一生得られないし、さみしさも埋められない。
周囲がどんどん結婚して自分には時間を割いてくれなくなるだろうし、このまま歳を重ねていけばいくほど、この「さみしさ」は拡大していくのだろうか。
それはとても、自分が性的マイノリティであることによって受ける差別よりも、ずっと怖いことのように思える。
「特別」なパートナーシップも万能ではない?
しかしその一方で、最近離婚を検討している友人もいる。
話を聞く限り、ふたりのパートナーシップの間に亀裂が生じてしまったとのことであった。
もうパートナーから気持ちが離れ、いっしょにいたいと思えなくなってしまったという。
彼らが現在、互いの"誰か"となって、互いに「さみしさ」を埋め合うということは難しいのではないだろうか。
そうとなると、Aセクでない、パートナーのいる/求める人にとっても、この点は簡単な問題ではないようである。
つまり総括すると、
・漠然とした「さみしさ」に襲われることがあるが、なぜそうなるのか、どう対応したら良いのかわからない
・ロマンチックな関係のパートナーがいると「さみしさ」が埋められるように思われるが、パートナーシップは瓦解することもあり、パートナーをつくることが「さみしさ」問題に対する最適解というわけではなさそうである。
ということだ。
これではますます、自分がどうしたら良いものかわからなくなってきたぞ。
今の自分が「さみしさ」に対抗できる手段
胸にぽっかり空いた穴が埋まらず、その正体も対応もわからないとなれば、とりあえずは楽しいことだけ考えて生活するのが次善策ではないだろうか。
というわけで、気分が明るくなる写真をスマホの画像フォルダから探してみる。
(ぬいぐるみ病院から退院した、我が家のくまのぬいぐるみたち)
(Social Cafe Sign with Meのスープとデザートセット)
(楽土さんの「シロクマの熊五郎1号・2号」のお猪口と、シロクマパッケージの上善如水)
(焼肉屋で食べた牛肉のたたき)
こうして楽しかったり嬉しかったりしたことの写真を並べてみると、「心に穴が空いている」と感じていても、やはり満ち満ちた日々を過ごしているのだと実感することができる。
また、ここ1週間ほどは、ライフワークである大相撲観戦を楽しむべく毎日テレビにかじりついている。
世間が騒がしい中でも変わらぬ魅力を見せてくれる取組の数々に、自分も頑張ろうという力をもらうこともしばしばだ。
無観客とはなってしまったが、開催してくださった日本相撲協会の判断には、まったく感謝してもしきれない。
「さみしさ」の正体は?
と、書きながら気づいたのだが、このパンデミック騒ぎでの自粛続きも、心に穴を空けている要因かもしれない。
だとしたら、それが落ち着いてきたころ、自分の胸中でも雨が上がっている可能性もある。
そうだといいなぁと考えつつ、このあたりで筆を置こうと思う。
とりとめのない散文にお付き合いくださり、ありがとうございました。
おしまい。
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【追記】
「さみしさ」に関しての考察をした偉大な先達として、永田カビさんの『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』があることを、この記事を書き終えてから思い出しました。
後日、そちらとも併せてまた自分なりの記事を書けたらなぁと思います。
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