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阪神電車にて 【短編小説】

白髪の男性は,つり革に捕まりながら座席を見下ろし,黒尽くめの女性に対して「ちょっとズレてくれんか?」と言った。

その男性は短髪の白髪で身長175センチ程度,肩幅は広く恰幅の良い体格で,赤いアロハシャツに濃いネイビーのスラックを合わていた。首元に見える何かの骨を模したような白いネックレスと左手首に付けられた大ぶりなベゼルのダイバーズウォッチは,彼が顧客に対して清貧さをアピールしなければならないタイプの現役サラリーマンではないことを示唆していた。一方,穏やかな眼光と丸みを帯びた顔のパーツは,「自分は一見すると怖そうに見えるかもしれないけど実はごく普通の人間なのだ」と主張しているようだった。僕がこの男性のパーソナリティを判断することは到底できない。それでもあえて彼の印象を述べるのであれば,眼光や顔のパーツによる穏やかさのアピールは,アロハシャツとダイバーズウォッチが醸し出す威圧的な雰囲気に対してささやかすぎるように思われた。露骨に反社会的勢力の一員のようには見えないが,反社会勢力の幹部だったとしても一定程度納得できる,そんな感じの風貌である。

その男性は電車に乗り込み周囲を見回した。平日の昼間の電車はそれほど混んでいない。しかし,座席は埋まっていた。車両の通路部分に立っている人はほぼいないのに,新たな乗客が座ることのできる座席は存在していない。混んでいないのに座れない電車,というのは何だか奇妙だ。その電車が最適な人数に利用されている,というだけのことなのに,なにか不自然で不条理なことが起きているように感じられる。自分が座るための席が準備されていないことを確認した白髪の男性は,入口の隣にある横並びの座席に目を付けた。

その座席には4人の乗客が座っていた。全員生物学的女性だったと思う。大学生くらいの若い女性が一人,品のよい60代くらいの女性が一人,そして黒いバケットハットに黒いTシャツ,黒いカーゴパンツを履いた20代後半くらいの女性がひとり。もうひとり女性がいたはずだったが,どんな特徴の人物だったか思い出せない。それくらい匿名的な風貌だったのだろう。とにかく4名の女性が横一列に座っていた。そして,4名の女性たちの間には,判で押したように均等な20センチほどの隙間があった。

男性はその隙間の総和が自分の腰の横幅を超えると判断したようだった。4人の女性が座席に座ることによって形成された20センチの隙間は合計で3つある。それらを埋めて詰めて座れば,その男性が座るためのスペースが60センチ分確保される。男性は自分の座る場所を確保するために,全身を黒で固めた女性に「ちょっとズレてくれんか?」と大きくも小さくもない声量で声をかけた。電車の中で知らない人に声をかけるうえで最適に近い部類の声量だったと思う。敬語を使っていない点でややアロハシャツ的ではあるが,声量や声色は穏やかで,どちらかというと丸みを帯びた顔つきに似合う紳士的な発話であるように思われた。

黒尽くめの女性はイヤホンをしていたので,男性の声を明確には聴き取れていないようだった。しかし,誰かから音声が発され,それが自分に向けられていることは知覚できたようで,黒尽くめの女性は首の角度をわずかに変更し,イヤホンを外しながら目を上に向けた。そのような女性の反応を認識した男性は改めて,「ちょっとズレてくれんかな?そこ,座れそうなので」と発言した。男性の穏やかな声は,今度は確実に黒尽くめの女性の鼓膜に届き,意味のある言葉として認識されたようだった。

女性は目を上下させるだけでなかなか声を発しなかった。普通なら,「あ,はい」とか「どうぞ」とか何かしらのを言葉を発しそうなものである。あるいは,言葉を発しないにしても,左右どちらかに体をずらし,スペースを確保する身振りを示しそうなものである。しかし,黒尽くめの女性は目線を上下させ,口をモゴモゴと動かすばかりで,声も発さず体も移動させなかった。確かに,その黒尽くめの女性が体を動かしたとして,残りの3人の女性が協力的ではなかったら,男性が座るスペースは確保されない。黒尽くめの女性が行動を起こしたところでそれが無駄になる可能性は十分にあった。とはいえ,日本の社会通念を考慮すると無視するわけにもいかない。その車両に居合わせた多くの乗客が,黒尽くめの女性の反応を待っていた。向かいの座席からその様子を見ていた僕は,居心地の悪い気持ちになった。

黒尽くめの女性は30秒ほど沈黙を貫いていた。もしかしたらもっと長かったのかもしれないし,実際にはもっと短かったのかもしれない。僕はあまりの居心地の悪さに正常な時間感覚を持っていなかったかもしれない。いずれにせよ,僕が主観的に感じた30秒の沈黙は,他人に話しかけれた人が何らかの反応を示すまでの時間としては長すぎるように感じられた。そして,不自然な時間経過の後に,その黒尽くめの女性は明らかに不機嫌な表情を携えながら,「私がズレても座れないと思いますけど…?」という声を発した。

僕は,黒尽くめの女性の判断が客観的に妥当なのかどうか考えてみた。確かに白髪の男性は大柄である。4人の女性が肩をぎゅっと寄せ合って座ることで生み出すことのできる60センチの幅は,恰幅の良い白髪の男性が座るうえで十分なスペースとして機能するのだろうか。僕の目算ではちょっと厳しいように見えた。黒尽くめの女性の発言は,客観主義的実在論的な認識論において一定程度の妥当性を有しているように思われた。

白髪の男性は引き下がらなかった。「あんたがズレてくれたら座れるんだから,ズレてって言ってるんだよ」。男性の声は明らかにこわばり,周囲の乗客に緊張感を与えていた。向かいに座っている僕の脳裏には,自分の席を男性に譲ることでこの場を平穏に収めることができるのではないか,というアイディアが当然ちらついてた。しかし,男性の目的は席に座ることから黒尽くめの女性と建設的にコミュニケーションすること自体へとシフトしているように思われた。このタイミングで僕が白髪の男性に席を譲ることにはなんの意味もない。僕は結局自分のスマートフォンに目をやり,無意味にSNSのタイムラインをスクロールしていた。僕はいつも判断が遅い。黒尽くめの女性が黙っていた主観的30秒の間に僕が席を譲っていたら,この車両全体を覆う陰鬱な雰囲気は生じなかったのだろう。僕はますます嫌な気持ちになった。

僕は周囲の人々に気取られないようこっそりとワイヤレスイヤホンを耳に突っ込み,大きめの音量で音楽を流した。自分の判断の遅さがこのような事態を招いてしまった可能性について考察してしまうのを防ぐために,大きな音で音楽を聴いてSNSの画面を見続けた。電車内で生じる会話は聴こえなかったが,その後も黒尽くめの女性と白髪の男声は口論をしているようだった。僕はその様子を目の端で捉えながら,この事態が早く収束することをぼんやりと祈っていた。

そこから数分後,電車がある駅に停車したタイミングで,黒尽くめの女性は捨て台詞を吐きながら電車を降りた。僕にその発言は聴こえなかったが,そのように見えた。白髪の男性は,唇を真一文字に結び,降りていく女性を目で追っていた。丸みを帯びた顔のパーツはそのままなのに,唇の形状だけで表情がこれほどまでに変わって見える,というは僕にとって意外な発見だった。とにかく電車の扉は閉じられ,事件はひとまず一件落着した。その車両の乗客全員がホッとしているように見えた。

しかし,扉が閉まった後も電車は出発しなかった。窓の外を眺めてみると,なにかトラブルがあったのか,帽子を被った駅員がホームの上を小走りで移動している。人身事故か急病人か,判断は出来ないが異常事態が起きたようだった。直観的に嫌な感じがした。

駅員の様子を観察するために窓の外を見ていると,先程の黒尽くめの女性が駅員を引き連れてこちらの車両に戻ってくるのが見えた。もちろん声は聴こえないが,どうやら先程のトラブルを駅員に報告し,当事者である白髪の男性の姿を駅員に見せにきたようだった。駅員は女性の目をきちんと見て話を聴きながらも,脊髄反射的に事件化するような感情的な素振りは見せず,冷静に対応していたようだった。電車の扉は閉まったままで,女性と駅員が乗車することはなかったが,車両には再び緊張感が走っていた。

その後,電車は当初の予定から3分ほど遅れて出発した。白髪の男性は無表情だったが,僕は自分が彼の立場だったらどんな気持ちなのだろうか,と想像せずにはいられなかった。彼は,その風貌に少々威圧的な雰囲気があったとはいえ,ただ「ズレてほしい」といっただけなのだ。今回の件とは直接関係ないが,僕は何らかの冤罪が起きる理由について思いを馳せながら音楽を聴いていた。

黒尽くめの女性が降りた駅から一駅先が僕の目的地だった。駅を降りると,僕が乗っていた車両の付近には駅員が集まっていた。おそらく先程の駅での出来事が隣駅の駅員にも即座に共有されていたのだろう。彼らは車両の中に残っている白髪の男性をこっそりと確認しながら「まぁ大丈夫でしょう」という雰囲気で頷き合っていた。白髪の男性に対する疑義は一旦解消されたようだった。

僕は駅員に対して「白髪の男性は女性に対して少しズレてほしいと穏やかに伝えただけなんです」と言いに行こうかどうか迷った。黒尽くめの女性だけが駅員に対して一方的に意見を述べている状況はフェアではないように思えた。あの男性はこれからもこの電車を利用するのかもしれない。そのたびに駅員に要注意人物としてマークされるのはかわいそうだ。少なくとも,今回のいざこざにおいて男性が絶対的な悪者だとは僕には思えなかった。

15秒ほど立ち止まって考えた挙げ句,僕は結局黙ってその場を後にして職場に向かった。この後仕事が控えているのだし,赤の他人にかまって遅刻するほどお人好しではない。白髪の男性と今日の仕事先,どちらが僕にとって重要か,考えるまでもなく結論は出ている。僕は自分にそう言いきかせて駅員に話しかけるのを辞めた。僕の判断は合理的である。おそらく間違ってない。

職場に向かいながら,僕は相変わらず居心地の悪さを感じていた。

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